いとしさで世界が傾ぎそうなほど

 数年前、私は竜宮フェイザーの義妹として彼に引き取られて、それ以来はずっと彼のことを実の兄のように想い慕っていた。
 それは、他でもないお兄さま自身が私に、彼を兄と思って甘えて構わないと、そう言ってくれたから、だ。
 ──けれど、その実で。彼の側にはこの数年間、私に対する兄としての情などはまるで存在しておらず、彼との関係を“兄妹”だと思っていたのは私だけだったのだと、そう言われてしまった。……そして、現在の兄はどうやら、私を異性として好いていて、終ぞ妹とは思えなかった私と今度こそ家族になるために、……私を、妻として迎える算段でいるらしいのだ。

 当然ながら私は、そんなことをこの数年間で一度も聞かされておらず、……前後関係としては一体、どちらが先だったのだろうかということさえも、私には知る由もなかったものの。……天涯孤独の身になった私を憐んで家族に迎え入れようとしたけれど、やはり肉親ではない私のことはトレモロくんと同列に扱うのは難しく、されど彼の中で私への一定の情はあり、恐らくはその感情が数年の間に愛と呼べるだけの何かに昇華された、と。……そのように、兄の気持ちを受け取るのが順当だと私は思っているし、……きっとそれは、私にとっても嫌なこと、などでは無いはずなのだ。
 だって、私はお兄さまのことが好き。だいすき。私がどれほど兄と慕ったところで、あのひとが私へと傾けてくれていた兄としての仕草は、その全てが偽りだったのだと突き付けられたその事実を前にして、膝から崩れ落ちてしまったほどに、私は兄のことが好きなのだ。……でも、もう。兄として、彼を慕うこの気持ちを、竜宮フェイザーと言う人物にありのままで受け取ってもらうことは、二度と叶わなくなってしまって。……どうやら兄は、「自分達は兄妹などではない」だなんて、あまりにも冷ややかな響きを帯びたその言葉で私の心がひしゃげてしまうことにさえも、最早、何の関心も抱いていないらしかった。

 ──だから、私には分からないの。怖くて、不安で仕方がないの。
 善良で、崇高で、温厚で、優しくて強い、自慢の兄だと信じ続けた彼の人へのこの憧憬は。

 ──或いは、私の幻想でしかなかったのだろうか、と。……私は、そんな風に、思ってしまったのだ。

「──そんな訳がない、そんなことはあり得ないよ。だって兄さんは、僕達の自慢じゃないか、姉さん」

 ──“フェイザーさん”からの申し出に何と答えるべきかなのかが分からなくて、──否、本当は既に私だって、竜宮フェイザーと言う人物は私の意志を確認したわけではなく、あれは、只の事実確認でしかないのだと言うことには気付いている。……つまるところ、此処を本気で逃げ出そうとでもしない限り、私は。遅かれ早かれ、彼の妻として、改めて正式に“竜宮”になってしまうのだということは、ちゃんと理解できていて、……けれど、本当にこのまま流されていればそれでいいのか、という只それだけのことが私には分からなくて、──そうして、泣き縋るような気持ちでぽつりぽつりと相談らしきものを零す私に、相談を持ち掛けられた当人──トレモロくんは、まるで私が何を言っているのか分からない、と言うかのような顔をして小さく首を傾げていた。
 フェイザーさんが外出している間を見計らって、彼へと持ち掛けた私の相談を聞いている間、トレモロくんはうんうんと頷きながらも切なげに眉を下げては時折、「姉さん、苦しかったんだね……」なんて、相槌を打ってくれていたかと思えば、……私が疑惑をぽろりと零した途端に彼は突然顔付きを変えて、──MIK本部・彼の執務室で黒革張りのソファに腰を掛けて足を組み替えるトレモロくんは、隣に座る私の顔をそっと覗き込みながら、──真っ向から、私の意見を切り捨てるのだった。

「……姉さん、心配しなくとも、姉さんは兄さんに従っていれば大丈夫だよ。心配しなくても平気さ」
「で、も……それは、悪いことなんじゃ……」
「どうして? どうしてそんな風に思うの? ……兄さんは姉さんのことを、愛しているよ? 兄さんが愛したあなたが兄さんの手元に置かれているのは、あなたが兄さんの運命の人だからに決まっているじゃないか、姉さん」
「……? お兄さまが私を傍に置いてくださっていたのは、きっと、私への憐憫のはずで……」
「だめだよ、姉さん」
「え?」
「あなたはもう兄さんをお兄さまと呼んでは駄目なんだ、兄さんがそう決めたからね」

 ──トレモロくん、私は近頃、なんだか怖くて仕方がないの。……今まではもっと、あなたともお兄さまとも、ちゃんと相互理解を伴った会話が成立していたはずなのに、まごころをお互いに傾けて合っていると、そう実感出来ていたと言うのに。……どうして、最近になって二人の言うことが、私には理解できなくなってしまったのだろう。……どうして、あなたたちは私の言葉に耳を傾けてくれなくなってしまったのだろうか、……どうして、まるで宇宙人とでも会話しているかのような錯覚を、今この時だって、私は覚えてしまっているのだろう。

 まるで、突き放すかのように渡されたその言葉にも、間延びした彼の声色はまるで動揺のひとかけらも滲ませてはいなかったけれど、──対する私はと言うと、その強い口調に驚いて、ショックのあまりに言葉が紡げず思わず放心してしまって。──すると、私が返事をしないことを不思議に思ったのか、再度私の顔を覗き込んだトレモロくんが少し慌てた様子で、上ずった声を上げたかと思うと、「泣かないで、ああ、泣かないで、姉さん」と、そう言いながら私の目元に指を伸ばすものだから、……私、やっぱり思い知ってしまったの。私、私ね、……お兄さまとトレモロくん──私にとってたったふたりの家族である彼らとは、もう家族では居られなくなってしまうのかもしれないと考えるたびに、恐ろしいその想像に、ふたりの冷たい声色に、ほんの少しだけでも突き離されたような気がしてしまうたびに、もう。……胸が張り裂けて涙が溢れてしまうほどに、……私にはあなたたちのことが、どうしても、必要で、……他の何よりも、……それこそ、自分のこの身よりもずっとずっと、あなたたちのことが大切なのね、私。

「……心配しないで、姉さん。あなたが僕の姉さんであることだけは、今後も変わりようがないんだから、心配しなくて良いんだよ」

 ──彼らとてきっと、私のことをちゃんと大切に思ってくれているのだと、そのくらいは私にも分かっている。……けれど、やはり、尚更に。だったらどうして、……私だけ、お兄さま、のままでは許されなかったのだろうかと、疑問は絶えなかった。 inserted by FC2 system


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