プリズムの満潮

 ボイルド・ベーグル・レクイエム──ズウィージョウさんから連絡があり、ちょうど焼きたてのカレーパンが出来上がるところだから、MIK本部まで配達してくれるという申し出を受けた。
 正直なところ、それはとても魅力的で嬉しい提案だったけれど、時刻はもうすぐお昼どきで、きっとお店は忙しい頃合いだろう。そんな時間にわざわざこちらに出向かせるというのは流石に私も気にかかるところで、それならば、ちょうどお昼どきなのだし私の方からお店に出向いて、カレーパンを買いに行くついでに、私とお兄さまのお昼ご飯も見繕ってくることに決めたのだった。
 トレモロくんは今日、前々からアンジュちゃんたちと外でお昼を食べる約束をしているらしく、今日はトレモロくんの分だけではなく、お兄さまと私の分も、お弁当を作ってきていない。「せっかくだから、私達も外食に出るか」とお兄さまが言ってくれて、お外でご飯を食べることが別段珍しいわけではなかったけれど、普段はトレモロくんも交えて家族三人で外出することが多くて、それはそれでもちろん楽しいけれど、偶にはお兄さまとふたりきり、というのもやっぱり嬉しいし、ちょっぴりどきどきする、なあ。
 そうと決まるとちょっとしたデートのようですっかり楽しみになってしまい、お昼ご飯、何処で食べようかと今朝からお兄さまと話していたところだったけれど、──今日はいいお天気だし、パンを持って公園でピクニックというのも楽しそうだ。
 ──それなら、お昼になる前に、早いところパンを買って戻ってきて、紅茶を淹れて、水筒に詰めておこう。果物を買ってきて、カットして持っていくのも良いな。
 そう決めた私は、離席中のお兄さまのデスクに外出の旨を書き記したメモを残すと、執務室を後にしてボイルド・ベーグル・レクイエムへと向かったのだった。

 ズウィージョウさんのところに向かってみると、カレーパン以外にも新発売のあんぱんが焼きたてで、昼前だからかベーグルや食パンを使用したサンドイッチもたくさん並んでいたものだから、ついついたくさん買ってしまった。
 しかし、私がパンの詰まった紙袋を抱えて執務室に戻ると、其処にお兄さまの姿はなく、席を外しているのだろうかと思いながら、パンに合わせた紅茶を淹れてポットに詰め終わる頃合いになっても、やはりお兄さまは執務室に戻らない。
 ……もしかして、何処かで入れ違いになってしまったのか、或いは、なんらかのトラブルがあったのか。
 後者であれば、秘書として私は総帥の補佐に付く必要があるし、念のためお兄さまを探しに行こうと再び執務室を出てエレベーターを降り、休憩室辺りから確認していこうと廊下を歩いていたところで、──曲がり角にお兄さまの後姿を見つけて、早々にお兄さまと合流できそうなことにホッと安堵しつつも、……どうにも私は、ほんの一時間程お兄さまと離れていただけで、お兄さまのことが恋しくて堪らなくなってしまっていたらしい。
 思わず、たっ、とその場を駆け出すと、私は勢いよくお兄さまの背に飛びついたのだった。

「──お兄さま! 此処に居たんですね! 見つけた!」
「! ……、戻ったのか。大事は無いか?」
「はい! おにい、……さ、ま、も……?」

 お兄さまは身長が高いから、そのお背中に抱き着こうとすると、お腹の周りにぎゅっと腕を回して、しがみつくのが精一杯になる。
 そして、お兄さまは背が高いから、私などはお兄さまの背面に回るとその背中にすっぽりと隠れてしまって、お兄さま越しにはまったく前が見えない。──そう、前が見えないし、そもそもお兄さまを見つけた瞬間から、私にはお兄さまの姿しか目に入っていなかったものだから、全然気が付かなかったし、何も気にせずに思いっきりお兄さまへと抱き着いてしまったのだ。
 ──お兄さまにぎゅうっと抱き着く私の頭を優しく撫でている、お兄さまの正面、曲がり角の向こう側に、──アサカちゃんとユウナちゃんが唖然と呆れとが入り混じった表情で其処に立っていることなど、私は微塵も想定していなかった。

「──そういうわけだが、何か質問は?」
「ありませんわ、ありませんけど! フェイザー! あなたって本当にムカつきますわ! 打ち合わせの最中に何をイチャついてるんですの!?」
「いちゃ……!?」
「……フェイザーよ、少しは人目を気にしてはどうだ? それに、も……」
「あ、あの……」
「ふむ……気にする必要があるのか?」
「当然ですわ! 必要ありますわよ! ムカつきますわね!」

 どうやらお兄さまはアサカちゃんとユウナちゃんと共に、ギャラクシーカップの開催について相談をしているところだったようで、非難ごうごうと言った様子で叱咤を飛ばすふたりに対しても、マイペースなお兄さまはまるで気にする素振りがなく、ふたりに相槌を打ちながら相変わらず私の頭をとても優しい手つきで撫でているのだった。
 そして、対する私は、──とてもではないけれど恥ずかしくて、顔を上げられなくなってしまっている。
 咄嗟に腕を解きお兄さまから離れようかとも思ったけれど、……もしも私がそんなことをすれば、間違いなくお兄さまはしゅん、と悲しい顔で眉を下げてしまうのが目に見えていて、お兄さまを傷付けたくない私にとっては、この場で出来る対処などというものはまるでひとつもある筈もなく、──結局そのまま私は、しばらくの間、お兄さまに抱き着いて頭を撫でられながら話し合いの内容を聞いていたものの、……恐らくは少女二人が目の前の光景に耐えられなくなったのか、打ち合わせは早々に切り上げられたのだった。

「あの、お兄さま……邪魔してしまって、ごめんなさい……」
「いや、気にするな。それよりも私は、が彼女たちの前で私から離れずにいてくれたことが嬉しかった」
「えっ」
「ふたりが居たことに気付かなかったのだろう? ……ふふ、以前のなら、慌てて離れていそうなものを……少し、こういったことにも慣れたのかな?」

 怒った様子で、それでいて、そそくさと気恥ずかしげに彼女たちが去って行った後で、未だお兄さまにくっついたままの私を見下ろしながらそう囁くお兄さまは、ひどく嬉しそうにゆったりと目を細め、この上なく穏やかに微笑む。
 そんなお兄さまを見ていると、──ああ、やっぱりこのひとを悲しませるのだけは、嫌だなあ、なんて。……私は、そんな風に思ってしまうものだから。
 本当は、まだまだ恋人らしい振る舞いなんてうまく出来ないし、私からハグするのだってちょっぴり恥ずかしかったけれど、……お兄さまが、それで嬉しいのなら、あなたが笑ってくれるのであれば、……きっと私は凝りもせずに、明日だってあなたを曲がり角で見つけたのならば、その背中にぎゅうっと抱き着いてしまうのだろうと、そんな風に思ったのだ。

「そろそろ昼休憩の時間だな。、何が食べたい? の好きなものを食べに行こう」
「あのね、私パンを買ってきたんです! それで、紅茶も淹れて、水筒に詰めたから……」
「……ああ、確かに今日はいい天気で外も温かいな、それも悪くないか……」
「ね! だから、公園の端のベンチで食べませんか? あそこなら、あんまり人もいないし……」
「では、そうしようか。……うん、ふたりきり、というのも偶には良いものだな」
「……ふふ、私もそう思います!」


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