花珠の睡りを溶いて

 フェイザーさんと出会ってからの日々には、ぎゅうっと蜜が詰まっている。
 もちろん、毎日が甘くて幸せなだけではなくて、苦い記憶だって幾つもあったけれど、……それでも、フェイザーさんの隣で彼を見つめているときに私の胸のおくに込み上げるのは、何よりも甘い甘いシロップみたいな気持ちだった。
 
 彼に恋をしている自覚が伴っていなかった頃、──この気持ちを妹として兄への慕情に留めて、決して彼を困らせまいと躍起になっていた頃の癖で、私はフェイザーさんのことを今でも“お兄さま”と呼んでいる。
 それは、まだ義兄妹という関係にも慣れていなかった頃、MIK総帥という肩書を背負う厳格な彼に向かって名前を呼びかける上で、どうすれば失礼に当たらないかと私なりに頭を悩ませて定着した呼び名だった。
 お兄ちゃん、では馴れ馴れしくて、お兄さん、では余所余所しいような感じがする。かと言って、兄さん、はトレモロくんだけの特別な呼び方のように私には思えたから、私からの呼び名は、お兄さま。
 おにいさま、という言葉の響きはまあるくてまろやかで、なんだか優しい口当たりもすると思う。だからこそ、お兄さま、と重ねて呼びかけるほどにまるで彼を慕う私の気持ちがたおやかに転がり出るようで、私はその呼び方が好きだったし、お兄さまと呼ぶ度、私に視線を向けて、優しくまなじりを落としてくれるお兄さまの所作も、私は大好きだった。
 ──きっとあの頃、“私だけの特別な呼び名”を探していたその日には既に、私はフェイザーさんに恋をしていたのだろうなあと、そう思う。

 ──そして、現在。
 私はフェイザーさんの恋人というポジションに収まり、大好きなひとの“特別”を手に入れて、幸福にも変わらず彼の傍で過ごしている。
 呼称という些細な特別よりもずっと素敵なものを彼に貰った今となっては、私だけの呼び方を欲しがっていたあの頃の気持ちは薄れつつあるけれど、──どうやら、お兄さまの方はそうでもないらしい。
 彼は恐らく、私に“フェイザー”と名前で呼ばれることを望んでいるらしいのだ。

 お兄さまは以前、クァイドゥールの支配下にあった頃、私に対して強引に兄妹の枠を外れるようにと誘導したことがあったから、それもあって恋人になった現在でも、私が彼を“お兄さま”と呼ぶことを許可してくれているし、実際、義兄としての情も彼には確かにあるのだろう。
 しかし、それはそれとして、“恋人らしいこと”をするときやふたりきりのときには、“フェイザー”と呼んで欲しいとの申し出も彼からは受けており、其処には複雑な葛藤も同居していることは想像に容易かった。
 お兄さまは普段、部下からは“フェイザー総帥”や“フェイザー様”と呼ばれており、ズウィージョウさんやユウディアスなどの組織外の人間で、以前対立していた面々からは、“フェイザー”と呼び捨てで呼ばれている。“竜宮”と名字で呼んだのでは、MIKの内部だけでも対象が三人もいるので、原則的にはお兄さまだけではなく私たちの一家を名字で呼ぶひとは、ほとんどいない。
 だから、“フェイザー”という呼び方は何も特別なものではないし、お兄さまとて他者からそのように呼ばれることには慣れ切っている。
 ──それでも、私が彼をそのように呼ぼうと思うと、その行為はどうしたって、特別だった。
 出会った当初、私が未だ竜宮ではなかった頃には、彼のことをフェイザーさんとそう呼んでいたけれど、その当初にしたって、私にとって彼はフェイザー“さん”だったのだ。
 私にとってお兄さまは命の恩人であり、私を窮地から救って引き上げてくれたひとで、帰る場所を与えてくれたひとだった。私にとって、彼は義兄や恋人である以前に、尊敬に値する存在なのだ。
 そんな相手を呼び捨てにすることにはどうしても未だに罪悪感と躊躇が伴ってしまい、私は今だに一度もお兄さまのことを“フェイザー”と呼べてはいない。お兄さまにぎゅっと抱きしめられてキスをされ、彼からの愛を受けていっぱいいっぱいになっているときでさえ、なけなしの理性が“フェイザーさん”と彼に向かって呼びかけてしまうのだった。

 そんな私の態度は、或いは、お兄さまのことを傷付けてしまっていたり、がっかりさせてしまっているんじゃないかと、ときどきそんな風に思う。
 お兄さまは何事においても家族が最優先で、つまりは私とトレモロくんが彼にとって最も重要な存在なのだろう。
 だからこそ、私の行動や言動が多少お兄さまにとっては意に沿わないものだとしても、お兄様は私を咎めたりはしないし、穏やかに微笑んで受け止めてくれる。──けれど、彼の傍で過ごす日々も長くなってきた昨今、お兄さまはちいさく傷付いたところで毅然と取り繕って仕舞えるひとなのだということにも私は気付き始めていた。
 本当の意味で、お兄さまは大人だ。物事を俯瞰して大局を見ることに長けているし、その中で私とトレモロくんの気持ちを彼は最優先としている。その為には、自分の気持ちをそっと仕舞い込むことが彼には簡単に出来てしまうし、──私はいつか、彼にとってそのように物事を取り繕わずに接することが出来る相手になりたいと、そんな風に思い始めていて、……きっと、そのようになるためには、“妹”という立場に甘んじていて許されているだけでは駄目なのだろうなと、……近頃の私は、そう思うのだ。

「──お兄さま、ブランデーだけをグラスに注いで、もう一杯お出ししましょうか?」
「……いや、大丈夫だ。は飲めないと言うのに、私だけ何杯も飲むと言うのは、どうもな……お前とまともに話も出来なくなってしまうだろう?」
「……私も、早くお付き合いできるようになればいいのですけれど……」
「急く必要も無いだろう? ……だが、と酒が飲めるようになるのは、楽しみではあるな……」

 お兄さまは決して、お酒を好んで嗜まれるタイプではないから、それは言葉通りの意味というよりも、“私が成人する歳になっても、六葉町の彼の傍に居てくれたなら幸福だ”という、きっと、そういった意味合いなのだろう。
 宇宙ドラゴンの血を引く彼は、常人とは違う理の中に生きているから、外見の年齢が必ずしも実年齢とイコールではない筈だ。以前に年齢を訊ねてみたことはあるけれど、「私も、トレモロも、よりは年上だな」とだけ言われてしまったし、実際、MIKが創立された当時に撮影された写真の中、お兄さまとトレモロくんは今と大差がない外見のままで、そのフレームの内側に写っていた。
 もしかすると、トレモロくんもとっくにお酒が飲める年齢だったりするのかもしれないけれど、彼は全く飲まない。お兄さまもほとんど同じだけれど、彼は飲めないと言う訳ではないようで、ごく偶にだけれどお酒を召し上がることがあって、それが今日だった。
 
 夕食の席の後で紅茶を淹れて、お兄さまのお部屋でお話をして過ごす、ふたりにとって憩いの時間に、今日のお兄さまは昼間から少しお疲れだったことが気にかかって、「紅茶にブランデーを入れましょうか?」と尋ねてみると、珍しくお兄さまはその問いに頷いて、現在、ティーカップにブランデーをひと垂らしした紅茶を飲んでいるお兄さまは、少しだけぽやっとした目をしている。
 日頃からお酒を嗜む習慣も無いので、お兄さまはきっと、あまりお酒が強い部類ではないのだろうと、そう思う。
 MIK総帥としての激務に身を割いてきた彼は常に実直で、己の娯楽に耽溺するようなタイプの人間ではなかったから、嗜好品への興味関心も元より薄いのだろう。
 お酒を召し上がっているときのお兄さまは、不思議と普段よりも大人びて見える。普段からしっかりしたひとではあるけれど、こんなときに私はどうにも、彼が自分よりも大人であることを実感するのだった。
 外見だけなら私と数歳しか変わらなさそうに見えるし、実際、私だってあと数年もすれば法的にお酒が飲める年齢になるというのに、この錯覚はなんとも不思議な話で、お兄さまの真似をしている気分でシロップを垂らした紅茶は甘く、まるで自分が実年齢よりもずうっと子供であるかのような錯覚に陥る。
 お酒を嗜まれるお兄さまは、酷く大人びて見える。──けれど、それと同時に、アルコールでふわふわした目をするお兄さまはいつもよりも幼く見えて、普段よりもちょっとだけ口調も砕けた調子になったりもするし、時には少しぼうっとしながらご自分のことを“兄ちゃん”と呼称したりすることもあって、──それを見るたびに私は、……私も、お酒が飲めたなら、“フェイザー”と照れずに彼を呼べるのかな? と、……そんな風に思ったりもするのだった。

 誰にも聞こえないようにそうっと、心の中で「フェイザー」と彼に向かって呼びかける練習をするときに、私の胸の中ではぱちぱちと幸福の泡が弾けてはあまい蜜が内側からじわじわと溢れ出してくる。そんな甘さに心が満たされて胸がいっぱいになって、喉が渇いてしまって、なかなかどうして、実際に声に出してみることは叶わないのだ。
 ……でも、もしも私が、そんな風に呼びかけたなら、きっとお兄さまは喜んでくれるのだろうなと、そう思う。
 お疲れモードのお兄さまに私がお酒を勧めるのは、お酒の入った彼は肩の力も抜けて、いつもよりも少しだけ甘えたになって、私に対して兄よりも恋人の顔で接して、気安く寄りかかってくれるようになるから。「……おいで、」そう囁きながらふにゃりと笑って腕の中に招き入れた私をきゅっと抱き寄せて、満足そうに此方を見つめてくる彼にはしっかりと、私に対する恋人としての欲があることだって、私はちゃあんと知っている。

「……、かわいいな……」

 ちゅっとこめかみに落とされるキスは優しくて、このひとがどれほど私を想ってくれているのかという優しい気持ちが、その戯れのひとつにぎゅうっと詰め込まれているみたいだ。
 きっと、私があなたにとって“特別”な呼び方で囁きかけることには、それと同じだけの意味がある。
 ──私があなたを想うシロップのようなこの気持ちをぎゅうっと閉じ込めて、とろりと舌の上に零すように、そんな風に呼びかけることが出来たなら、……わたしはあなたにもらったこの優しい気持ちと同じだけの愛を、あなたに感じてもらうことだって、出来てしまうのだろうなあ。

「ふぇ、……ふぇい、ざー……」
「……うん、どうした? 
「……えっと……呼んでみた、だけです……」
「そうなのか? ……はは、是非とももう一度呼んでくれ、……」

 ──酔った勢いで言えたなら、もっと楽だったのかもしれないけれど。その免罪符を許されない私は、からからの喉を温くなった紅茶で湿らせて蜜で滑りを良くすることで、どうにかこうにか、あなたへのおまじないを唱えた。
 もしも、あなたが今日の出来事を明日には忘れていてくれたのなら、私もこの恥ずかしくて堪らない気持ちをちょっとずつでも忘れられるかもしれないけれど、きっとあなたは明日になってもしっかり覚えているのでしょうね。
 ──だって、お兄さまは家族のことはすべて忘れずにしっかりと覚えていてくれるひとだもの。
 恥ずかしいから、忘れて欲しいとそう思うのに、それと同じくらいに、覚えていて欲しいと言う私の気持ちを、きっとあなたは決して踏み躙らない。蜜よりも甘いじゅくじゅくに熟れたこの恥じらいをいつか笑えるくらいに、……私のすべてがあなたの甘さで埋め尽くして貰えたなら、良いなあ。


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