海によく似た痣だった

※86話時点での執筆



「フェイザー様ーっ!」
「こんなところにいらしたんですか?」
「ウチらめっちゃ探したんですよ〜?」

 ──全く、クァイドゥール時空に取り込まれてからすっかり見慣れてしまった目の前の光景だが、未だに頭が痛い。
 かねてよりトレモロに付き従っていた彼女たちは、クァイドゥール時空の影響を受けた結果、自らの主をトレモロではなく私だと思い込み、私の秘書を自称して付いて回ろうとするようになってしまった。
 ……これには当然、トレモロも相当に落ち込んでおり、クァイドゥールとユウディアスとのラッシュデュエルにてダメージを負ったことも相まって憔悴していたトレモロは、「僕は兄さんにすべてを捧げてきたのに」「それに、姉さんが可哀想じゃないか!」……と、私へとそのように訴えて、ラッシュデュエルを挑んでくる事態にまで発展した。
 二度の決闘を経て、現在トレモロは元の落ち着きを取り戻しているが、ズウィージョウの見解によればクァイドゥールのデッキ調整が終わるまでは、40人共に精神的に不安定な状態に陥りやすいのではないか? という説も上がっており、……そのような状況下であるからこそ、トレモロの心の安寧のためにも、彼女たちには早々に元に戻って欲しいところでは、あるのだが。
 残念ながら、元よりトレモロの秘書たちは些か話を聞かないきらいがあり、私とトレモロによる状況の説明と説得に彼女たちはまるで耳を貸さずに、結局は定員の40人から漏れてしまった。
 それによって、尚のこと彼女たちが元に戻る見込みが現状では立たなくなってしまったからこそ、トレモロが気を落としている訳でもあるので、……どうにか、早急に手を打たなくてはならない。

「──お兄さま、お茶の準備が整いました! ……あっ……」
「あー! 様だー!」
「フェイザー様のお茶の準備ですか? 仰ってくださればお手伝いしましたのに!」
「そうやわ、ウチらと様みーんなでフェイザー様のカワイコちゃんなんやから」
「そうそう! 様だけお仕事が多いんじゃ大変だもん! 協力しなきゃ!」
「……そ、そうかな……?」
「そうですとも! ですから、これは私がお運びしますわ!」
「ウチが紅茶をお注ぎしますね〜!」
「じゃあ私はカップを並べまーす!」

 彼女たちがどのように思い込んでいようとも、私にはと言う秘書が居る。
 よって、私の補佐はとトレモロで事足りているし、彼女たちに任せるような仕事も無いのだが、……暇さえあれば私に付き纏ってくる彼女たちに、との休憩時間まで邪魔されてはたまらないからと、わざわざ執務室を出て、使用予定の入っていない会議室に移ってきたと言うのに、が給湯室へと茶の支度に出向いている間に、私はあっさりと彼女たちに見つかってしまったのだった。
 そうして、私が彼女たちに囲まれて顔をしかめていると、上機嫌で会議室に入ってきたは、部屋に彼女たちが居ることに気付いた途端に、小さく声を漏らすと眉を下げてその場に立ち尽くしてしまった。
 そのようにが狼狽している間にも、彼女たちは矢継ぎ早に話すとからトレーを奪い取り、私の元に戻ってティーセットの準備を始めるものの、……私はすっかり茶どころではなかったし、はきゅっと唇を閉ざして、その場から動けなくなってしまっている。

「──、私は……」
「フェイザー様! お茶が入りました!」
「どうぞ! フェイザー様!」
「あら、此方のカップは様の分ですか?」
「やったら、様も此方に……」
「……あの、給湯室の片づけがまだなの。私は、そっちを片付けてきますね」
「それなら、私達も……」
「平気だから! ……お兄さま、席を外しますね、ごめんなさい」
「待て、……」

 私の言葉を聞き終える前に、そそくさと会議室を出て行ったは、日頃からキッチンや給湯室を散らかしたままになどしておかない。
 ……故に先程の言葉は、紛れもなく方便だったのだろう。
 ──は只、この空間に居ることには耐えられず、部屋を出て行っただけなのだ。

 ──何も、トレモロの秘書たちも本心から私に尽くしているわけではない。
 トレモロと彼女たちの間に切れない絆があることは、私も、トレモロも、そしてもよく分かっている。
 ……だが、そうは言っても。他者によって歪められた認知からくるその行動は、確かにトレモロを、彼女たちを、そしてを傷付けているのだった。
 トレモロにとっての彼女たちは、恐らくは私にとってのに近しい存在なのだろう。
 トレモロの悲痛は私にもよく分かるし、にとっても私が彼女たちに言い寄られている現状は、決して気分のいいものではないはずだ。無論、私とて、このような第三者の悪意が原因で、トレモロやに悲しい思いをさせるのは望まない。
 故に私は当初、彼女たちをMIKから遠ざけてでも、決して私の傍には居られないようにしようと、そう考えた。総帥の権限をもってすれば、直接そのように命じることなどは容易いし、何もMIKを追放する等と言う訳ではなく、すべてが元に戻ったならば改めてトレモロの秘書として呼び戻せば良いだけの話だ。
 ──だが、それに賛同しなかったのは、他でもないだったのだ。

 は元より、彼女たちとも非常に仲が良かった。
 私やトレモロの話でいつも盛り上がっているのだと、は頬を染めて嬉しそうに話しており、にとって数少ない「恋の話」が出来る相手こそが彼女たちだったのだと、そう言っていた。
 彼女たちに話している内容というものが、私とのことだと言うのは把握していたが、私はその全容までは知らない。
 しかしながら、「これ、アンジュちゃんたちに選んでもらったんです」「お兄さまに可愛いって思われたいって相談したら、お洋服を買いましょうって……」「どうですか……? お兄さま、こういうの好き……?」──と、時折恥ずかしげにそう話していたにとって、彼女たちは恐らく、私との仲を応援してくれる存在だったのだろう。
 ──そんな相手が突如豹変して、私の傍に付き纏うようになったこと、……一体にとって、それは、どれほどの悲痛なのだろう。
 ……私ならば、間違いなく嫉妬する。どんな事情があろうとも認められはしないし、気分がいいものではないだろう。
 実際、トレモロもそう思っていることだろうとは思っていたし、ラッシュデュエルにまで発展したあたり、トレモロは確かに彼女たちに独占欲を覚えていて、私に嫉妬する気持ちがあるのだ。
 ……それで当然、それこそが健全な反応だと、私もそう思っている。
 
『──でも、目が覚めたときに一番悲しむのは、傷付くのは、アンジュちゃんたちだと思います……本当はトレモロくんのこと、あんなに大切に思っているのに、クァイドゥールに弄ばれていたとしても、トレモロくんに酷いことを言ってしまったから、……彼女たちは、自分のことを許せないんじゃないかな、って……』
『姉さん……』
『私は、それが一番嫌だし悲しいです……トレモロくんもつらいよね、でもね、三人が元に戻ったら、怒ったり責めたり、しないであげてほしいの。……どうか許してあげて、リームちゃんもカレンちゃんも、トレモロくんのことが大好きだよ。だって私、アンジュちゃんたちがトレモロくんのことを大好きでいてくれるのが嬉しくて、三人と仲良くなったし、カレンちゃんたちを大好きになったんだもの……』
『──姉さん! もちろんだよ、姉さん! ……悪くない、カワイコちゃんたちは悪くないんだ、クァイドゥールが悪いのさ……うん、姉さんの言う通りだ。僕も、今のカワイコちゃんたちは今のままでそっとしておくのが良いと思う……もちろん、説得と説明は続けるよ、もちろんね』
『……そうだな、お前達がそう望むのであれば……強引に引き剥がすのは、よしておこう……』

 ──だと言うのに、は、自分よりもトレモロと彼女たちの気持ちを優先して、この事態を前に私へとそのように進言してきた。
 トレモロもの説得に頷いたため、その場はの意向を通して、彼女たちの件はそのままで放置していたが、……そうは言っても、。……私は、お前が傷付くことなど望まない。お前がトレモロや彼女たちを傷付けることを望まないのと同じように、……私とて、が傷付いた顔を隠して私の前から逃げていくのは、どうにも我慢ならないのだ。

「──!」
「っ、おにい、さま……」

 急用があるので席を外す、このまま会議室に待機しているように。
 ──そう言って、彼女たちを振り切り会議室を出た私は、一番近い給湯室へと駆け込むが、……案の定というべきか、給湯室は綺麗に片付いており、その場にぼうっと立ち尽くしているはきゅっと両手を結んで、私の呼び声に気付くと小さく肩を震わせる。
 その目元は赤く、手の中に握られたハンカチは幾らか濡れているように見えた。……十中八九、会議室を退避してから此処で、一人で泣いていたのだろう。

「ご、……めん、なさい、勝手に……出てきてしまって……」
「良い、気にするな。……私の方こそすまなかった、まさか、会議室まで来るとは……」
「……ふふ、アンジュちゃんたちはいつも、トレモロくんを探しに、何処まででも走り回ってましたから……」
「……やはり、辞令を出してでも遠ざけよう、秘書業務から降ろして、七星ランラン辺りの預かりにでも……」
「だ、だめです、……そんなことしたら、トレモロくんがアンジュちゃんたちに会えなくなっちゃう……説得も、出来なくなります……」
「……しかしだな……それでは、お前が……」
「私は平気ですから、……何も三人とも、私を邪険にしてるわけじゃないんです……私がお兄さまの秘書だと知っていて、恋人なのも理解しているし……その上で、お兄さまのことを私と共有しようとしてるだけなんです、ちゃんと今まで通り、私とお友達で、いてくれてる……」
「……
「でも……私が、それを受け入れられないだけ……リームちゃんたちは、すごいですね。トレモロくんはちゃんと三人のことを平等に大切にしているけれど、……きっと、私には真似できません……今だって、ちゃんとお兄さまは私のことだけ好きなの、分かってます、トレモロくんのためにも、カレンちゃんたちに応えたりしないって、お兄さまはそんなひとじゃないの、分かってるんです……」
「……、もう良いから。……言わなくていい、言葉にするのはつらいだろう?」
「……ちゃんと、分かってるのに。……これが一番いいんだって、本心じゃないんだから、私が我慢すればいいんだって、今大変なのは40人全員、いっしょなんだって分かってるのに……」
 
 ──お兄さまは、私のものなのに。
 ぐしゅぐしゅと再び泣き出してしまったを抱き寄せる胸元は少し冷たくて、──それでも、胸のおくが確かに歓喜に打ち震えて熱を帯びていると言うのだから、……きっと私は、酷い男なのだろう。
 独占欲と言うものは非常に厄介で、私とて今後はを過度に束縛すまいとそう心掛けてはいるものの、結局はいつだって、へと向けられる他者からの視線に私は嫉妬している。
 彼女は私の物だと言う独善ばかりに塗れているその醜穢な感情が、──決して私だけのものではないのと、それはにもあるのだと、……彼女は私を独り占めにしたいと考えているのだと、それほどに私を好いているのだと、そのように実感できるこの事実がこうも好いものだとは、……本来ならばこの先も、なかなか知る機会は無かったのだろうな。……は我慢強く、心根の優しい子だから。
 ──無論、にそのような想いなどはさせないに越したことはなかったのだが。

「だって、お兄さまの秘書は、私です……お兄さまのカワイコちゃん、ではないけれど……」
「私が可愛いと思っているのはお前だけだぞ? 
「……でも、お兄さまのマキシマムカードじゃないもん……」
「だが、お前をモデルにしたアビスレイヤーは作っただろう? それに、彼女たちはアビスクラーケンではなくオケアビスだ……お前とトレモロは私のすべてだよ、
「……ほんとう?」
「ああ。……お前とトレモロあってこその私だ、……其処に関わらない存在であれば、幾らでも対処のしようがあったのだがな……とはいえ、このまま放置しておくわけにもいくまい。……やはり、秘書の任を解くか……」
「……いえ、やっぱりもうちょっとだけ、我慢してみます……」
「……無理はしないでくれ、私にとっては彼女たちよりも、お前とトレモロが……」
「分かってます。……でも、ズウィージョウさんが言ってました、今なら反撃の可能性があるかもしれないって……」
「……現在のズウィージョウの言葉を何処まで真に受けるべきか、正直言って私には疑問だがな」
「……お兄さま、もしかして怒ってるの?」
「当然だろう、クァイドゥールのデッキ調整を長引かせるためとはいえども、トレモロにあのような……ようやく落ち着いたところだったと言うのに……」
「ふふ、……そうですよね、お兄さまだってトレモロくんと喧嘩なんて、したくなかったんですよね……」
「……ああ、そうだとも」
「トレモロくんもアンジュちゃんたちも、……それに、お兄さまも。傷付けられたのは、みんないっしょです。……私だけが、楽にはなれません……」

 ──トレモロの秘書たちに追い回されて、近頃の私がすっかりと辟易しているのは事実だった。
 彼女たちが私に向ける好意など、所詮は偽りでしかないのだから余計に手に負えず、のことも思えば跳ねのけてしまいたいところだが、それでは、大切な者を傷付けられたトレモロが傷を負うことだろう。
 ならば、優しく接したならそれでいいのかと言えば、そう言った問題でもなく。
 結局のところ、現状に全員が納得できる解決策などはないのだ。──クァイドゥールが生み出したこの時空から、奴の洗脳から逃れる以外には、解決の手立ては存在しない。
 故に、トレモロとを極力傷付けないように、私は彼女たちを其処に居ないものとして扱っていたが、……そうはいっても、トレモロにも、にも、感じ入るものが幾らでもあることは分かっていた。
 だからこそ、私自身は、何も気に留めていないと言う素振りで振舞ってはいたものの、──私とて、トレモロに疑惑の目を向けられて、を傷付けている現状は、確かに辛かった。
 私がその事実を認め吐露したのでは、尚のこと弟妹を不安にさせるだけだと分かり切っていたからこそ、口を閉ざしているというそれだけの話で、……トレモロとは喧嘩など殆どしたことがなかったし、私はトレモロの為にMIKを設立したほどに、弟に甘い自覚がある。
 それは妹──に関しても同じで、を二度と泣かせまいと己に固く誓っていたこともあり、……当然ながら、私とて現状に対する苦痛ならば、幾らでも感じているのだ。
 ──ましてや、ズウィージョウに至っては、……まさかとは思うが、やはり、彼はに気があるのでは? ……と、一家団欒に割り込んできた先日の奴の行動には、不安を駆られた部分もあったからな。

「……苦労を掛けるな、。……だが、必ずクァイドゥールは打倒する。トレモロと……、私の大切な家族を傷付けた落とし前は、奴に必ず付けさせる」
「それは、お兄さまもですよ。……私は、お兄さまが傷付くのも嫌です……辛くなったら、いつでも言ってね?」
「その為には、お前が申告してくれないと困るな……私にもお前の恋人としての面子がある、が私を頼らないのでは、私もお前を頼れない」
「……だったら、お兄さま……あ、あのね」
「うん、どうした? 
「こうしてふたりのときに、ぎゅってして欲しいです……いつもよりたくさん……お仕事中も、出来れば……」
「うん? ……そんなことで良いのか?」
「はい。……お兄さまは私のものだって、たくさん分からせてほしいです……」
「…………」
「お兄さま?」
「……分かった、念頭に置いておこう。……では、早急に現状を打破するために、お前の力を貸してくれるか?」
「はい! 執務室に戻って、トレモロくんと三人で対策会議をしましょう!」

 現状にが傷付き切っていることなど、最早疑いの余地はない。──それでもお前は、私の心内までをも案じてくれると言うのだから、……私は本当に、出来た伴侶を持ったよ、
 私の心を守ろうとしてくれるだけではなく、トレモロや彼女たちの想いを、──家族を守りたいと言うのその意志は何よりも尊ばれるべきものであり、……それを踏み躙る蛮行を、私は兄として、夫として、決して許しはしない。


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