寝室に海が満ちた合図

「……ねえ、お兄さま?」
「どうした? 
「たまには、私からお兄さまにキスがしてみたいの……いつもは、お兄さまからしてもらってばっかりだから……私も、お兄さまにしてあげたいな……」

 自室に備え付けられたソファに二人並び、──だめですか? と甘えるような目で私を見上げ、控えめに問いかけてくるその言葉に対して私はと言えば、極めて冷静な態度を取り繕いながらも、当然ながら内心では激しく動揺していた。
 可愛いからのそのような申し出は、無論、私とて嬉しくない筈も無かったが、……がそう口にしたとき私は思わず、──私とが未だ添い遂げる約束をしていなかった頃、合意の上の婚姻関係ではなく、強引に恋人になるようにと迫った、──私が、遺跡に意識を操られて欲望を引き出されていたあの頃、──私とが、初めてキスをした日のことを、思い出してしまっていた。
 あの日、……確かに彼女は怯えきって私を拒み、嫌だ駄目だと抵抗して、それでも引かない私の強行を前にして、怖々とした態度で涙を浮かべながら、諦めたように私を受け入れていた。
 ──彼女の方は、今この瞬間にも決して、そのような場面を思い浮かべてはいないのだろうが、それでも、──悔いる気持ちがあるからこそ、からのその申し出は、私にとっては彼女が思うより幾分にも動揺を揺さぶられる言葉だったのだ。

「私は、構わないが……」
「! よかった! ……あの、じゃあ、目を瞑って貰えますか……?」
「う、うむ……」

 ──それが今では、恥ずかしげに頬を染めながら私へと身を寄せて、おねがいします、と秘め事のように囁き、こんなにも可愛らしいおねだりをしてくれるようになったのだから、込み上げてくる感慨ならば、幾らでもある。
 ……の言う通り静かに目を伏せながら、私は思う。
 私の両頬を包むように触れてくる小さな手は緊張で少し震えており、普段は私に主導権を委ねている彼女は、こういったことにも、決して手慣れているわけではない。
 それでも、──は、偶には自分からしたいのだと、そう言ってくれた。いつも貰ってばかりだからというその言い分は、常日頃に私から享受しているそれらの行為を幸福なものだと感じていなければ、出てこない言葉なのだろう。
 ……今のは、確かに私に触れられることを望んでいて、それらのスキンシップを幸せだとそう感じてくれている。
 だからこそ、──私にも同じことをしたい、……私を幸福にしたいと、確かにはそう願ってくれていたのだ。
 私自身は未だ、己が過去にしでかした過ちと彼女へと強いた仕打ちを水に流すことなど出来そうにもないが、──それでも、他でもないが私を赦してくれているとそう思い実感するたびに、……私は、己が幸福なのだとそう感じるよ。
 
 ──やがて、しばらくの沈黙の後で、控えめに私のそれへと押し当てられた唇は花弁のように小さく柔らかくて、何度も味わったはずのそれが、の意志で触れたのだと感じるだけで、まるで特別な贈り物か何かのように思えてきてしまい、思わず頬が緩む。
 そうっと気付かれないように目を開けて、を覗き見てみると彼女はぎゅうっと必死に目を瞑っているものだから、それが何だか余計に可愛らしくて、どうにか普段通りを取り繕ったものの、唇を離してから目を開けた彼女は私を見つめて恥ずかしげにはにかんでいたので、……きっと、私がだらしない顔をしていることも、彼女には気付かれてしまったのだろうな。

「へ、へんじゃなかった? お兄さまがしてくれるみたいに、私も出来た……?」
「ああ。……上手だな、。是非ともまた頼みたい」
「! ほんと?」
「ああ、本当だとも」
「えへへ、よかった……お兄さまも、いつでもしてね? 私、お兄さまとキスするの、好きなの……」
「それは奇遇だな、……先程の礼に、今度は私からも触れて構わないか?」
「……うん、たくさん、してね……フェイザーさん……」

 きっとには、私が彼女から触れられたのならば悪い気はしないし、それどころか幸福で舞い上がってしまうことが、とっくに見破られているのだ。
 私がこの子を心から愛し求めていることをは重々承知していて、──その上で、私が彼女へと傾けている重すぎる愛情と同等の分だけ、私に与えようと、は懸命に考えてくれている。
 ──なんと思いやり深く、愛に満ちた子なのだろう。なんと、愛おしい子なのだろう。
 私はこのように心根の美しい彼女の愛を独り占めにすることを、他でもない自身から許されているのだとそう思えば、込み上げてくる歓喜などは、幾らでもある。
 
 が私にしてくれたのと同じように、彼女の白くて柔い頬を優しく包み込み、そうっと壊れ物に触れるように唇を合わせると、ぴくりと小さく肩を震わせるのが、何とも可愛らしい。
 たくさんして欲しい、という言質を取ったのを良いことに、ふにふにと柔らかなのちいさな唇の感触をじっくり堪能しようと、触れては小さく食みそうっと離れるばかりの口付けを繰り返す私は、きっと悪い大人なのだろうな。
 はあ、と小さく悩ましげな吐息を漏らす唇は、ふっくらと美味そうで、……見つめていれば次第に、どうしようもなく欲が膨れ上がってくる。もう少し、──に触れていたい、彼女の愛らしい姿を見たいと欲望に駆られるがままに色付く花弁を舐めるとびくりと肩が震えて、そのまま舌を絡めてもうしばらくこの時間に耽溺していようとそう思ったとき、──私はようやく、扉の向こうに人の気配があることに気付いた。
 ──そうして、咄嗟にを腕の中に抱え込んだままで彼女を隠すようにしてから顔を上げ、「……トレモロ?」──と、今ほど気付いたよく知る気配に向かって、声を投げかけたのだった。
 
「……ごめん、ごめんよ。兄さんに少し用があったんだけど……その、取込み中だったみたいだから……」
「と、とれもろくん……!?」
「姉さん、兄さんとの時間を邪魔してごめんね?」
「いえ、あの……」
「トレモロ、その、用とは……」
「ああ、週明けに使う書類を念のために今日の内に渡しておこうかと思って。……まあ、忙しそうだし明日改めて渡すよ、兄さん」
「あ、ああ……すまないがそうしてくれ……」

 ──日頃の私は、トレモロの前でと“こういったこと”をしている姿は見せまいと努めているつもりだったのだが、……とうに本日の職務は終えて屋敷へと戻り、食事や風呂も済ませてとの憩いの時間を自室で過ごしている最中だったからか、……すっかりと、油断してしまっていた。
 一体、トレモロが何処から見ていたのかは知らないが、……恐らくは、少なからず今ほどの現場を見ていたのだろう。まだ十分に可愛らしいスキンシップの範疇だったとは思うものの、兄であると同時にトレモロの父親代わりを務めてきた立場としては、弟の教育に悪い場面を見せてしまったのでは、という懸念が拭い切れない。
 尤も、私と同様に悠久の時を生きる宇宙ドラゴンの血を引くトレモロは、既に“教育”などという年頃でもないのだが、……それでも、気にかけてしまうのが兄心と言うものだろう。
 トレモロが手短に私へと確認を済ませている間も、未だ私の腕の中に抱え込まれたままのは、何処か居た堪れない様子で恥ずかしげに耳まで真っ赤に染めて、私の胸に顔を埋めてこの場をやり過ごそうとしている。
 それを見ていたトレモロは、なんだか妙に嬉しそうな素振りでにこにこと笑いながらと私を交互に見つめて、──挙句には、「ごめんね。兄さん姉さん、ごめんよ。……それじゃあ、僕のことは構わずに続けて? そのまま続けてくれるかい?」──と、そのようなことを言い出してそのまま居座ろうとするものだから、──流石に私もこればかりは弟に甘くとは行かずに、「トレモロにはまだ早い」とそう言って部屋に戻るように言って自室に帰らせたものの、──あれではまるで、この後で“トレモロにはまだ早いこと”をしようとしていると、……そうは聞こえていなかっただろうか……?

「……すまない、……私が配慮に欠けていた……」
「え? い、いえ! お兄さまは悪くありません、元はと言えば、私が……!」

 ──正直なところ、そのような思惑が少なからずあったことを認めよう。
 明日は休日で寝坊の心配もなく、も大分私に甘えたな様子だったから、私はすっかりその気になってしまっていたのだが、……他でもないトレモロに水を差されたともなると、流石に大人しくしておくべきだろうと、──どうにか頭を冷やして、私は冷静に努めようとしていたというのに。

「……あの、お兄さま……?」
「どうした、?」
「えっと、……続きは? もうしないんですか……?」

 ──トレモロに話し声が聞こえてしまわないかと気にしているのか、先程のように再度ひそやかに小さな声で私の傍で囁いて、ぎゅっと細い腕でお前が縋り付いてくるものだから、──今度はトレモロに見つからないように、早急に布団の中にでも隠れてしまうかと、思わずそのようなことを考えてしまったのだ。……私はつくづく、どうにも弟妹に甘い男らしい。


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