常夜灯の海をゆく

※90話時点での執筆。


 クァイドゥール時空から元の生活へと戻ってきて、まあ、まだすべてが元通りとはいかなかったしベルギャー人の彼らに関する新たな問題が浮上してきたところでもあるけれど、僕個人の生活に関して言えば、クァイドゥール時空でのそれと比べると、近頃の日常は遥かに改善されていた。
 認知を書き換えられたことで、僕の秘書であることさえも忘れてしまっていたカワイコちゃんたちも、今度はその事実さえも忘れて今まで通りに僕へと尽くしてくれているし、僕にとってはそれが何よりも大きい。
 ──あまり思い出したくはないけれど、クァイドゥール時空での彼女たちはすっかり兄さんに夢中で、──まあ、確かに兄さんが優れた人物であることは僕が一番知っているものの、それでも、カワイコちゃんたちは僕個人の財産であって兄さんのものではないという事実そのものが、僕にとっては今までずっと、ある種の心の支えでもあった訳だから、ショックは大きかったよ。
 ……それに、兄さんが彼女たちに言い寄られていた間、姉さんってば本当にしょんぼりと悲しげにしていて、兄さんだってそれが分かっているから余計にどうにか彼女たちを引き離そうとしていたし、──それだって、やっぱり見ているのは辛かったからね。
 そんな日々も今となっては悪い夢だったかのように思えるけれど、実際にあれは現実だった。
 ──只、あの時間も“なかったこと”として四十人以外の記憶からはリセットされているという、これは、それだけの話で。
 そうして、クァイドゥール時空での記憶を残したまま現実へと帰還した僕達家族は、帰ってきてから迎えたこのお正月を、束の間の休息としてゆっくりと過ごしている。
 ──もしかすると、少し前まであれほどの苦痛を強いられていたからこそ余計にこの新春は去年までよりも、より特別なものに感じられたのかもしれないね。

「──トレモロくん、お雑煮のお餅、何個食べられそう? 三個くらい?」
「そうだね、六個、六個かな……いや八個、八個は食べられそうだよ、姉さん」
「八個!? 食べ盛りだねえ……お兄さまは? お兄さまも八個くらい食べますか?」
「いや、私は四個ほどで……そうだ、、私も支度を手伝うぞ?」
「ほんとう? それじゃあ、お椀出してもらえますか? 今お鍋を温めていますからね」
「ああ、承知した」
「今年はね、ホームベーカリーを買ったから! お餅もつきたてなんですよ、今朝ついてね、まだあったかくて……」
「そうか、それは楽しみだな……」
「ね! きっとトレモロくんも喜んでくれますよね!」
「ああ、トレモロは昔から餅が好きだからな……」

 キッチンへと遠ざかっていく二人の話し声を聞いているだけで、僕はどうしてもにまにまと頬が緩んでしまうのを抑えきれない。
 ──少し前まで、クァイドゥール時空で何かと苦労の絶えなかった二人は、あんな風に何気ない日常会話で笑い合うこともすっかり減ってしまっていたし、僕だってやっぱりそれを寂しく思っていたから。
 とはいえ、今でも僕はザイオンに炬燵にされてしまったままだし、そんな僕の苦労を目の当たりにしているからこそ、あまり楽しげに振舞うのは不謹慎だとでも、真面目なふたりはそう思っているのか、以前に比べると僕の目のある場所で兄さんたちがいちゃいちゃしたりしていることもあまりなかったけれど、──それでもやっぱり、僕としては、兄さんと姉さんが仲睦まじく過ごしている姿を見るのが、たまらなく好きだなあと、そう思うよ。
 姉さんと出会うまでの兄さんは、仕事や決闘にストイックで女の子に興味なんて全然無い様子だったし、僕がカワイコちゃんたちと仲良くしていることも、咎められるどころかまるで関心がない様子だった。
 普段は僕に対して少し過保護なところがあるくらいなのに、兄さんは色恋には本当に無関心で、「トレモロの秘書としての勤務態度に問題がないのならば、お前の好きにすると良い」って、それ以上は何も言って来なかったくらいなのに、──そんな兄さんから好きな女性が出来たと打ち明けられたとき、僕がどんなに嬉しかったことか、──きっと、兄さんは知らないんだろうな。
 当時、どんな女の子なんだい? って、僕がそう尋ねたら兄さんってば少し考えこんでから、「……ラッシュデュエルをする横顔が美しかった。凛として、ドラゴン族のカードを心から大切そうに使っていて……」「……私はそれが嬉しくて、彼女を救ってやりたいと思っているのだ」──なんて、それってさ、まるで龍の恩返しみたいじゃないかって僕がそう言ったら、兄さんはきょとんと不思議そうな顔をしていて、僕はそれすらもどうしようもなく嬉しくて、──兄さんの為に、どうにかその恋を叶えてあげたいとそう思ってしまったのだ。
 ──それこそ、どんな手段や策を講じても構わないと、そう考えるほどに、ね。
 ──結局、当時にそうやって姉さんを竜宮家へと招き入れた僕たち兄弟のあの行動が正しかったのかというと、──まあ、あれは決して恋の駆け引きとしては正攻法じゃなかったのかもしれないけれど。……それに関しては僕とカワイコちゃんたちだって似たようなもので、彼女たちはそれさえも肯定してくれている訳だ。
 兄さんと姉さんだってそれと同じで、現在の姉さんは兄さんのことを心から愛してくれているし、其処に偽りなんてこれっぽっちも介在していないことは、一番近くで見ている僕が誰よりも知っているさ。……だからこそ僕はこれからも、兄さんと姉さんには仲良くいて欲しいし、──ふたりにとっての障害は、今後も僕が必ず排除するつもりで居るんだよ。

「──トレモロ、雑煮の用意が出来たぞ」
「うん、ありがとう、兄さん」
「熱いから気を付けてね、お節も取り分けるからね」
「姉さんもありがとう、ありがとう二人とも!」

 今頃ふたりはキッチンで、束の間のふたりきりでの時間を甘やかに過ごしているのかな、──なんて、そんな風に兄さんと姉さんに想いを馳せていると、お雑煮が盛られたお椀を乗せたトレーを持った兄さんと、取り皿を持った姉さんが和室──炬燵にされてしまった僕と家族団欒を過ごすために、兄さんが屋敷に増設してくれた部屋だ──へと戻ってきた。
 僕の天板を立てかけた炬燵を取り囲むように、僕の隣へと向かい合って座った二人は、僕のそれとは別に用意した天板の上にお雑煮やお節を取り分けて、それから兄さんは僕の箸を持つと、「トレモロ、口を開けてくれ」とそう言って、手の使えない僕の世話を焼いてお餅を食べさせようとしてくれる。
 それはまるで小さな子供のように扱われているみたいで、僕としては少し気恥しくもあるんだけど、……でも、兄さんにこんな風に甘やかされるのは子供のころ以来だから、ちょっとだけ嬉しく思う気持ちもまた僕にはあるのだった。
 大人しく兄さんに従いお餅を咀嚼して、「美味しい! 姉さん、このお雑煮とっても美味しいよ、いくらでも食べられそうだ」と素直に感想を伝えると姉さんはにこにこと嬉しそうに、「お代わりはまだたくさんあるから言ってね」と微笑んでくれて、そんな姉さんと僕を見つめる兄さんは慈愛に満ちた瞳で満足げに微笑んでいる。「お兄さまも冷めないうちに食べてください、トレモロくん、今度は私があーんしてあげるね」──なんて、きっと僕以外が同じ施しを受けようものなら、兄さんにラッシュデュエルで完膚なきまでに叩き潰された後に地球から消されてしまうんじゃないかな、なんて、そんな風に思ってしまう姉さんの申し出を僕が受け入れて大人しく口を開けているのをすぐ傍で見ていても、やっぱり兄さんは何処か幸福そうに僕達を見つめているし、──ああ、やっぱり僕は兄さんに信用されているんだ、大切にされているんだと、……兄さんは姉さんのことを心から愛していると知っているからこそ、そんな充足を僕も覚えるよ。

「……ふふ、なんだかカレンちゃんたちがトレモロくんにご飯を食べさせる役目を奪い合ってる気分、ちょっと分かったかもしれません」
「ああ……私もだ、トレモロが幼かった頃はよくこうして、私が食事の補助をしたものだが……」
「わあ……きっと可愛かったんだろうなあ、見たかったです」
「当時のアルバムなら残っているぞ? 食事の後で、三人で見ようか」
「ほんとうですか!? わあ、楽しみ! トレモロくんもお兄さまも、きっと可愛かったんでしょうね、だって、ふたりともお顔立ちがきれいだもん!」
「それを言うのなら、きっとは幼少期も可愛らしかったのだろうな、私も見てみたかったものだ……」
 
 静かに目を伏せて幼少期を反芻するように頷く兄さんは、──きっと食事の後でアルバムを広げて、「この頃のトレモロはこのように可愛かった」の自慢話を始めてしまうのだろうなと、ある程度の憶測が付くからこそ、──流石に僕だって、それはちょっと恥ずかしいんだよ、兄さん。
 でも、子供の頃の兄さんは、威厳のある今の佇まいとはまた違った雰囲気の美少年だったし、当時の写真を見たら姉さんはきっと嬉しいだろうし、──それに、子供の頃の話をすると兄さんはよく当時の自分に引っ張られるのか、自身のことを無意識にか“兄ちゃん”と呼ぶ癖があって、僕も姉さんもそれが密かに大好きだったりもするのだ。
 だから、もしかすると今年初めての“兄ちゃん”を聞けるかな? なんて僕は思わずそんな期待を抱いてしまったけれど、──どうやら、姉さんも同じことを思い浮かべていたのか、お節の栗きんとんを僕の口元へと運んでくれながら目が合った際に姉さんは悪戯っぽく片目を伏せて僕にアイコンタクトを送るものだから、それを見て兄さんは少しだけ不思議そうに首を傾げながらも、やっぱり少し微笑んで僕と姉さんを見つめているのだった。──全く、兄さんったら本当に可愛いなあ。
 
 僕たちの家族は、三人ともが血の繋がったきょうだいではないし、種族だって僕達と姉さんとでは違うのだけれど、──だからこそ、姉さんは兄さんと結ばれて、僕たちと家族になってくれた。
 僕はそんな姉さんのことが大好きで、もちろん、兄さんのことも大好きだ。
 この広い銀河系で僕こそが誰よりも兄さんを尊敬して、すべてを尽くして捧げたいとそう思っているからこそ、そんな兄さんに同じ想いを掛けてくれている姉さんのことが僕だって大好きで、兄さんも姉さんのことが大好き。
 ──きっと、僕たち家族はお互いのことを可愛くて堪らないとそう思っていて、大切で、大好きで、この関係には掛け替えがなくて、──僕は、ふたりが僕を除け者にせず、ふたりでの“夫婦”であるよりもさんにんの“家族”であることに重きを置いていくれていることが、どうしたって堪らなく嬉しいと、そう思ってしまうのだ。
 僕もいつかはふたりのように、所帯を持つこともあるのかもしれないけれど、それでも、──ずっとずっと、兄さんと姉さんの傍が僕の家であってほしいな。炬燵の中のようにじんわりとろけるこの心地よい熱は、……少なくとも、ふたりの子供だとか、兄さんたちに僕と同じくらいの大切なものが出来るまでは、僕だけに許された財産であればいいと、そんな風に願ってしまうのをやめられない。

「そうだ! 今年は辰年ですし、明日は初売りに行きたいです、トレモロくんは荷台に乗ってもらって……」
「……、辰年と初売りに、何か関係があるのか……?」
「兄さん、知らないのかい? 知らないの? 辰年にあやかって、ドラゴンを模した雑貨だとかそういうものがたくさん売られているんだよ、売ってるんだ。姉さんはきっと、それが欲しいんだろう? 欲しいんだよね?」
「……つまり、は私以外の龍を手元に置いておきたいということか……?」
「……兄さん、兄さんって、龍相手には無機物でも嫉妬するのかい? 嫉妬するんだね……? 僕にはしないのに……僕も一応、宇宙ドラゴンだよ? ドラゴンなんだよ……?」
「? それはそうだが、トレモロはトレモロだろう?」
「……お兄さま、あの、私が言いたかったのは、竜形態のお兄さまに似ているぬいぐるみとか、もしもそういうものが売ってたらほしいなあって、そういうおはなしのつもり、だったのですけれど……」
「む……、まあ、それならば構わないが……お前がそういったものを欲するならば、手配して作らせるぞ? 生地も、私が織るし……」
「それももちろん嬉しいけれど、ふたりと初売りに行きたいんです! ……だめですか?」
「駄目ではない、他でもないお前の頼みだ。……そうだな? トレモロ」
「もちろん、もちろんだよ兄さん。僕に任せてよ姉さん、兄さんにそっくりのぬいぐるみを探そう! 探して見せるさ!」
「わあ! ありがとうトレモロくん!」
「……見つけたとしても、それを私の代わりにするのは無しだぞ? ……?」

 ──嬉しそうに笑う姉さんとは正反対に、兄さんってば、今度は酷く複雑そうな顔をしているものだから、きっと兄さんは姉さんが龍のぬいぐるみを大切に抱きしめている様を想像するだけで嫉妬してしまうくらいに、姉さんのことが大好きなんだね。
 ──それなのに、僕が姉さんに大切にされているのは兄さんにとって平気なことで、──僕は確かに、兄さんと姉さんからこの上なく愛されているのだとそう実感できたこのお正月を、介助の必要な身体にされてしまった僕が不自由なく過ごせるようにとふたりが気遣って何かと気を回してくれていることだって、ちゃんと知っているさ。
 ──兄さん、兄さんはきっと、宇宙で一番優しい竜なのだろうなって、僕はずっと昔から変わらずにそう思っているよ。……だって、僕は兄さんと比べたら、幾らか狡猾でずる賢いからね。
 そんな優しい兄さんには、優しい竜使いである姉さんが必要なのだと、彼女こそが兄さんに最も相応しいのだと僕はそう思うからこそ、──どうか、すべての災厄を跳ね退けていつまでもこの日々が続いて欲しいと、……明日、神社でお参りする際には、偶には海神様にそう祈ってみるのも、悪くないかもしれないな。


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