芽生えたばかりの色を食べる

※58話時点での執筆。


 その晩はどうにも寝付けなくて、観念して一度起きて水でも飲もうと思い、私はベッドから起き上がると薄着の肩にカーディガンを羽織って部屋を出た。そうして、屋敷の中をキッチンへと向かいながら長い廊下を歩いていると、ふと玄関の方に灯りが付いていることに気づいて、思わず首を傾げながらもその場に足を止める。……こんな夜更けに、一体誰が? もしかして、何かあったのだろうかだなんて、幾らかの不安を煽られながらも私は目を凝らす。
 私の暮らす竜宮家──フェイザーさんのお屋敷はMIK本部からは少し距離もあるし、人の出入りも普段はそこまで激しくはない。この時間帯ならフェイザーさんもトレモロくんも眠っている頃だろうし、来客だとしても一体何事だろうかと不思議に思いながらも、再び足を動かしてそちらへと向かってみると、──其処には、トレモロくんと使用人に肩を借りてよろめきながも部屋へと戻るフェイザーさんの姿があることに気付いて、──突然の事態に上手く目の前の出来事を飲み込めずに、急激に頭が真っ白になってしまい、気付けば私は大声を上げながら、その場から走り出していた。

「──お兄さま!?」

 肩に羽織っていただけだったカーディガンが床へと舞い落ちるのを気に留める余裕もなく、バタバタと駆け寄る私に気付いたトレモロくんは、──しまった、とでも言うかのような顔をして此方を見ていた。お兄さま、と思わず懐かしい呼び名を叫んでしまったことに気を回す余裕もなく、それはフェイザーさんとトレモロくんも同様だったようで、くったりと力の抜けたフェイザーさんには、まるで私を咎める様子もない。
 半ば意識も朦朧としているのか、苦しげに眉根を寄せるフェイザーさんは顔色も悪く、よく見れば何故だか上半身は裸の上からガウンを羽織らされていた。……一体、フェイザーさんの身に何が起きているのか、何も分からずに只々狼狽える私を見つめて、トレモロくんは観念したかのようにため息をひとつ吐くと、「……姉さん、兄さんの部屋まで着いてきてくれる? ともかく兄さんを休ませないと」と、……そう言って私を促すものだから、私は慌てながらも彼の言葉に頷くと、使用人に代わってフェイザーさんに肩を貸しながら、トレモロくんと共にフェイザーさんの身体を揺らさないようにと慎重に歩を進めて、彼の部屋までゆっくりと向かうのだった。

「──ごめんね、姉さん。驚いただろう? 姉さんには心配をかけたくなくて、黙っていたんだ。……ごめんね」

 フェイザーさんの自室まで彼を運び、広い寝台の上へと横たわらせて、身体を冷やしてはいけないからとお布団を掛けてあげる間もフェイザーさんはうつらうつらと微睡んでいる様子で、……どうやら大事は無いらしいと、ひとまずはホッと胸を撫で下ろす。そんな彼の傍に傅いて、濡れたタオルで額を拭ったり、戸棚から取り出した水差しを用意したりと世話を焼く私を見つめながら、トレモロくんは、まるでバツが悪そうに私へと吐露するのだった。

「……フェイザーさん、何処か悪いの?」
「……ときどき、こういうことがあるだけさ。兄さんは忙しい人だからね、疲れているんじゃないかな」
「……本当に?」
「……ごめん、……実を言うと、少し説明が難しいんだ。……兄さんも、姉さんに心配かけたくは無いだろうし……僕の一存では、今は何も教えられない」
「……そうなの……」
「でもね、何も兄さんはあなたに隠し事をしようとしているわけではないよ。……姉さん、これは僕からのお願いなんだけど……」
「……なあに?」
「今夜、弱っている兄さんを見てしまったこと、兄さんには黙っていて貰えないかな。……兄さんは、あなたの前では頼れる男で居たいんだよ。黙っていて欲しい、……だって兄さんはあなたのこと、愛しているからさ」

 ──だったら、尚のこと。私に打ち明けて欲しいと思うのは、私のワガママなのだろうか。……だって、お兄さまは、私と夫婦になるつもりなのでしょう。……それなら、尚更、お互いの間に秘密を抱えたままではダメじゃない、と。……そう、思ってしまった自分に気付いた私はそれに些か動揺しながらも、こくり、とトレモロくんの言葉に対してどうにか頷くのだった。……こんなの、おかしい。フェイザーさんが私に重要なことを隠しているのもおかしいし、……駄目だ、嫌だと口では言いながらも私はどうやら、彼の妻になることを心の何処かでは受け入れていたらしいということも、──よりにもよって、それに今気付いてしまったことも、……こんなのって、全部、おかしいはずなのに。
 恐らくは、トレモロくんとしては今夜のことも私には隠しておきたかったようだけれど、それはそれとして、「兄さんが目を覚ましたときに、姉さんが居てくれたら嬉しいだろうから」と言って、私にフェイザーさんの看病を任せると部屋を出て行った彼を見送ってから、──私は、フェイザーさんの苦しげな寝顔を見つめながらも、呆然と、考えてみるのだった。

 ──私は、竜宮フェイザーという人物から逃げたいと、本気でそう思っていた。彼は私にとって尊敬する人物で、敬愛する相手で、恩人で、自慢の義兄で、……けれど、私と彼は恋人同士ではない。だと言うのに、私の意思を無視して強引に私との婚姻を結ぼうとする彼に、近頃の私は、確かに恐怖にも近しい感情を抱いていた。……或いは、以前から、必要以上に外出を制限されていたことも、此処暫くの彼に対する疑念の材料となっていたのかもしれない。──けれど、それでも。結局、私はあなたのことが好きなのだ。何をされても今更、竜宮フェイザーを嫌いになんてなれそうにはなくて。……ましてや、こんな風に弱っている姿を見せられてしまったのなら、……私では力になれないのだろうか、だなんて。傲慢にもそんなことを思ってしまうのだ、私は。……もしも、あなたがほんとうに私を求めていると言うのなら、それに応えるべきなのではないかと勘違いをしてしまう。あなたを、放っておけなくなってしまう。……あなたから逃げようだなんて、考えられなくなってしまうの。

「……いやよ、お兄さま……」

 ──ぼんやりと水面に向かって浮かび上がる意識に、未だ冴えない脳が揺れている。麻痺したかのように力の入らない四肢の感覚を手繰り寄せながら俄かに指先へと力を込めると、……ふと、私の片手を誰かが握っていることに気付いて、怪訝に思いながらも私は傍を見上げてみる。……すると、次第に明瞭となる意識と視界の中で、泣きそうな顔をして私を見つめていると目が合い、「……?」僅かばかりの動揺で渇き張り付く喉を震わせる私を見つめて、はっと表情を揺らがせながらも、彼女は破顔して、私を見つめていた。

「……お兄さま……! よかった、意識が戻ったのね……!」
「……私は、眠っていたのか……?」
「何処か痛むところはない……? お水、飲む? まだ無理しないで、眠っていて……?」
「いや……大事はない。心配をかけたな、

 ──もしもこのまま、お兄さまが目を覚まさなかったり、弱っていってしまったのならどうしようと、そう思えばこそ不安で仕方がなくて、先ほどまで激しく揺れていた心臓を抑えるかのように、そっと私の頬を撫でてくれるお兄さまの手のひらの熱に、安堵が溢れて止まらない。……ああ、よかった。まだ上手く力が入らないらしいその手は弱々しかったけれど、それでもフェイザーさんは此処にいてくれる。
 その事実がどうしようもなく得難くて、……今は未だ、その事実を噛み締めていたかったからこそ、このまま彼の熱が離れていってしまうのはどうにも惜しくて、追い縋るようにその手をきゅっと握りしめると、私に応えるためにか少しだけ上体を起こそうと空いた片腕をベッドに付いて、フェイザーさんが身体に力を込めようとするものだから私はそれに焦って、彼の肩を抑えるためにベッドに押し戻すように腕を伸ばす。
 ──すると、彼の肩に羽織らされていたガウンがその衝撃で滑り落ちて、私の指先は曝け出されたフェイザーさんの素肌に触れてしまう。──其処でようやく、フェイザーさんは自分の格好に気付いたのか眉根を寄せると、「……すまない」と、私に向かって小さく謝罪を唱えて、手繰り寄せるようにガウンを握り締めるのだった。

「え……?」
「見苦しい格好を見せたな……男の裸など、年頃のお前が見るようなものではないだろう」
「……いえ、気にしていません、大丈夫です」
「……そうか?」

 ──咄嗟に口を突いた、気にしていない、だなんて言葉、本当は嘘。いくら家族とは言えども幼い頃から彼と過ごした訳でもないし、……フェイザーさんが存外、着痩せするタイプだったことさえも私は知らなくて、先ほど部屋に戻る際に肩を貸したときにだって、私が思っていたよりもずっと筋肉質な彼に対して、確かに私は幾らかの動揺を抱いていたのだ。
 ……それは、何処かいけないこと、許されないことのような気がして目を背けてしまっていたけれど、……フェイザーさん本人の口から言及されてしまうと、見て見ぬふりすらも出来なくなってしまう。
 薄暗い部屋に落ちるオレンジ色の柔らかな照明は、くっきりとフェイザーさんの肉体の凹凸を浮かび上がらせていて、……そんな彼の姿が、私にはどうしても、妙に艶っぽく見えてしまって仕方がなかった。……フェイザーさんの意識が戻るまでは、それどころではないから然程気にしてはいなかったものの、……ああ、確かに。衣服のはだけた彼と、薄い夜着だけを身に付けた私。……これはきっと、あまり良い状況では無いのだろう。……でも、私とフェイザーさんは兄妹だし、何の問題もないはずだ。──そう、私が言うべきは、その言葉であったはずなのに、……私の口から滑り落ちていたのは、そんな安穏とはまるで真逆の言葉だった。

「……問題ありません。だってこれから、私はあなたの妻になるのでしょう……?」

 それならば、何もおかしいことも、疾しいこともないはずです、と。……自分の口から滑り落ちたその言葉に、誰よりも動揺していたのは、きっと私自身だった。けれど、フェイザーさんとて私からのその言葉は予想外だったようで、平時に受ける鋭利な印象よりも丸くて優しげな形をしている瞳を彼は何度か瞬かせながらも、三日月の瞳孔をまあるく開いて、……それから、ふっ、と穏やかに目を細めて、フェイザーさんは私を見つめて甘やかに笑うのだった。

「……ああ、お前の言う通りだな、。夫婦であれば、素肌くらいは見せても、何も疚しいことはない、か……」

 するり、と。もう一度私の頬を撫でるその仕草は先ほどよりも妙に色っぽくて、……ああ、私は。決して言ってはいけないことを、口にしてしまったような、そんな気がする。──これではもう二度と、私は彼に対して被害者の顔など出来たものではない。
 ──ああ、そうだ。そのとき、私の口から滑り落ちたそれこそは、彼への同情や心配に起因した言葉だったのだとしても。確かに、あなたに火を着けてしまったのは私だった。……あの夜、竜宮フェイザーの凶行をすべからく受け入れると宣言したのは、他でもない私だったのだ。 inserted by FC2 system


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