黄昏に待てど暮らせど

「──もう、ワタルさんには着いていけません」

 彼女はおれの自慢の秘書だった。──セキエイリーグにておれの秘書を務める彼女の存在をおれが語る上で、の立ち位置をシンプルにおれの補佐役とだけ称するのは些か相応しくない。彼女におれが預けていたものの重さを思えば、そう、彼女はおれにとっての片翼と呼ぶのが相応しいのだろう。おれはのことを心底頼りにしていたし、大切に思っていたよ。彼女はチャンピオン・ワタルの支えだと、そう感じていた。……だと言うのに、そんな彼女が突然おれに言ったのだ。肩を震わせながら泣きそうな顔で、──包帯に覆われたおれの片腕を震える瞳で見つめながら、彼女はこう言った。……今日限りで、はおれの秘書をやめたいのだ、と。

「……なぜかな? 待遇が不満かい? そうだな、確かにの能力には見合っていないかもしれない……うん、待遇の改善をお偉方に進言しておこう。それならいいかい?」

 そんな風に白々しいおれの問い掛けに、彼女は答えようともしない。……本当は、が何故突然に秘書を辞めるなどと言い出したのかについては、おれだって察しが付いているし、十分すぎるほど身に覚えがあった。──おれは、今日。独断で悪の組織のアジトに乗り込んで、単独で構成員を相手取って、その場を鎮圧し敵対組織を壊滅させてからリーグに戻ってきた。その過程で、一般市民からの怪我人はひとりも出さなかったし、その後に犯人は全員警察が確保して、皆がおれを英雄と称えてくれたけれど、……負傷した腕を抱えて苦笑しながら戻ってきたおれを見つめてひとみを凍り付かせた彼女の震える声だけが、他の誰の反応とも違っていた。

「……わたし、もう、いやです……もう、ワタルさんが怪我するの見たくない……」

 ──がおれの前でそう弱音を漏らしたのは初めてのことで、思えば今まではずっと、おれが怪我をして戻ってきても毎度は救急箱を抱えて駆け寄って、「大丈夫ですかワタルさん!?」「ワタルさんは強いから心配してないけれど、無茶はし過ぎないでくださいね?」……なんて、いつもそう言っていたけれど、思えばあれはずっとずっと、無理をしていただけに過ぎなかったのだろう。は一度もおれの意向に叛いたりしなかったけれど、……ああ、そうか。泣きそうな顔で、意地でも泣かないと言いたげに気丈におれを睨みあげるきみは、恐らくはずっと我慢していたのだと、今更になって気付いたよ。悪を許せないというおれの考えを無理に肯定して、尊重し続けて、……そうしてきみとおれは、の心を蔑ろにしてしまったんだな。

「──いつもいつも、ワタルさんは自分のことは二の次でっ、蔑ろにして……っ!」

 ──そんなの、きみだって同じじゃないかと言いたかったけれど。おれはどうにも、の悲痛な叫びに対して上手い反論が思いつかなくて。──だって、はおれを心配しているからこそこんなことを言っている、おれのことを大切に思っているからこそ溢れ出た言葉を、否定なんて出来ないよ。

「──わたし、もう、そんなの見ていたくありません! だから……っ」
「……だから?」
「……だから……決めました、私があなたを引き摺り下ろしてやりますよ、チャンピオン」

 ──弱々しく震えるひとみからは到底、想像も出来なかったことばを彼女が吐き捨てたことで、……ぞくり、と。思わず、背筋が震えた。泣いて縋るか、対話での説得を試みるかとばかり思っていたのに、彼女が突き付けてきたのは真っ向からの挑戦状でしかなかったのだ。正面から喧嘩を売って石英の玉座から引きずり下ろしてしまいさえすれば、おれが足を止めるとそう信じているのか、焚きつけられたように燃え上がる瞳は、煌々と光を放ち、……到底、さっきまで泣いていた女の子のそれには見えなかった。だからきっと、おれは動揺してしまったのだ。思いがけない展開に、このまま彼女を行かせてはいけないと、そう思った。だからこそ伸ばした手は無情にも、ぱしり、と乾いた音を立てて振り払われる。彼女の指先が触れただけの部分が、じくじくと熱を帯びた真新しい傷跡よりもずっと、ずっと、激しく痛んでいるような気がしてならなかった。

「……へえ、面白いことを言うね。でも、おれがの退職を許さなかったら?」
「できませんよね、私はワタルさんの私兵じゃなくてリーグの職員です。それは、あなたが決めることじゃない」
「……そうだね、さすがにきみはよく知っているな」
「あなたの代わりに事務仕事をしてきたの、誰だと思ってるんですか……」
「……ああ、きみだったよな」

 ──そうだよ、面倒な仕事は全部きみがやってくれていたから、きみが補ってくれていたから、だからこそおれはいつでも、自分のやりたいことに没頭できていたのだ。きみがいなければ、そもそも今のおれはまるで成り立たないと言うのに。それでも、俺に背を向けると、……きみはそう言うんだな、

「……なあ、おれにはきみが必要と言っても、駄目かい?」
「……遅いんですよ、どうして、そういうことをもっと早く……」
「……分かったよ。行っておいで、。きみの気が済むようにしたらいい。……おれはそれまで、此処を護り続けるからさ」
「……さようなら、ワタルさん。今までお世話になりました」
「ああ、待っているよ、


 ──ねえ、ワタルさん。わたし、あなたの背中がずっとずっと、だいすきでした。チャンピオンのあなたが、ヒーローのあなたが大好きだったのに、……私、それよりももっと、“ワタルさん”のことが大切になってしまったの。……だからね、もっと早くあなたが周りを頼ることが出来ていれば、もしもあなたが、何もかもを一人で解決してしまうようなひとじゃなかったのなら。わたし、あなたの夢を摘もうとなんて思わなかったんですよ。……なんて、きっと、何万回繰り返したって、あなたの意志は曲がってはくれないのだろうから。正面から叩き折る以外の方法を、……私はもう、思い付けないよ、ワタルさん。 inserted by FC2 system


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