ステラ・バイ・ワンダーランド

 飴村乱数は稀代の天才である。これは、彼という人物の才能に、惚れ込んでいる私からの、主観が入り混じった評価ではあるが、実際に、この女性支配の社会に置いて、男性デザイナーである彼が、社会的な評価を得ている事実が、彼の才覚を何よりも証明していた。

 私が初めて、飴村乱数の手掛ける服を見たのは、高校生のときだ。ファッション雑誌の表紙を、彼の衣服が飾っていたことがきっかけだった。当時地方に住んでいた私は、学校帰りに立ち寄った、書店の店頭にて平積みされていた、ファッション紙の表紙を飾る人気の読者モデルよりも、モデルが身に着けていた、色鮮やかな衣装を奪われたのだ。私は、人並みにファッションが好きな子供だった。けれど、その遭遇は、そんな生易しい衝撃ではなくて、私は、雷に打たれたような心地を覚えたのだ。ぎらぎらとネオンのような色彩に目を奪われ、ぐるぐると脳が恍惚に回る。えも言われぬ高揚感が、その服にはあった。その味も知らないけれど、きっと、酒や煙草や麻薬の快楽は、この服の衝撃に似ているのだろう、と私は思ったのだ。
 書店で雑誌を買って、一目散に家に帰った。学校の体育の授業でも、マラソン大会でも、遅刻した朝でも、あんなに必死に走ったことはなかったと思う。一刻も早く、中身が見たかった。あの服のことを、知りたかった。その場で封を切ってしまいたい衝動に、何度も駆られ、されど、往来で広げることは、何故か許されないような気がしたのだ。この劇薬のような服の載った書籍を、所持していることが露見したなら、私は処刑されるのではないか? こんなにも美しいものを、往来の人々に、気安く見せてはいけないのではないか? と、そのような世迷い言を、トランス状態の頭で考えていたあの日の私は、思えば、既に彼という宗教に陥落していたのだろう。
 家に帰り、母の声も振り切り、部屋に立てこもった私は、制服も着替えずに、書店の袋を開けた。微かに震える手で、セロファンの包装を破り、そうっと取り出した表紙の、美しい極彩色に、脳がくらくらする。意を決して開いた巻頭に、表紙の服を手掛けたデザイナーの特集が組まれていて、私はそこで、飴村乱数の名を知った。

 ――そうして、その日から、飴村乱数は、私の目標になったのである。

 飴村の作る服が着たい、と。そう思ったけれど、いくら彼が社会的地位を築きつつある先進気鋭のデザイナーとは言え、当時、地方には未だ、彼のショップは存在しなかった。彼の服に憧れを募らせて、何度も何度も雑誌を読み返し、ブランドのカタログや、雑誌のバックナンバーを書店で取り寄せ、そうして読み込むうちに、紙が傷んできたことに慌てて、彼の服が載ったページは全て切り抜きにして、ノートに纏めることにした。私が作った、私の憧れの詰まった、私だけの飴村の記録は、秘密の宝箱のようだった。
 彼の作る服は、比較的、若い世代をターゲットにしていた。だが、個人ブランドから発足した彼の服は、決して安い値段ではなく、私はネット通販で飴村のブランドの服を買う為に、学校に隠れて、ファミリーレストランでバイトを始めた。バイトで得た賃金で、彼の服を初めて買ったときの感動は、未だに忘れられない。

 飴村の作る服は、どれもビビッドカラーを基調にした、派手なものばかりで、服に負けないようにと、化粧やヘアアレンジの練習を頑張ったものの、最初はなかなか勇気が持てず、比較的に地味な色合いのものを選んだ。ボルドーの生地をメインに仕立てた、可愛らしいワンピースだった。地味だから、と言ってこの服を選んだわけではなくて、少しお金も貯まってきた頃に、雑誌に載っていたこの服に、一目惚れをして、初めて一人で遠出をして、夜行の高速バスに乗って、シブヤにある彼のブランドの本店まで、ワンピースを買いに出掛けたのである。

 憧れの彼の店は、外観から既にきらきらと眩しくて、飴玉を散りばめたような照明と、ロリポップの包みのような壁紙と陳列棚に、宝石みたいな服がずらりと並んでいて、くらり、と思わず立ちくらみと、自分がこの場に居て良いのだろうか、と言う引け目に襲われた。この店の服を買うのは、今日が初めて。つまり、私はこの店に相応しい服を、一枚も持っていない。精一杯に御洒落をして、彼のブランドのイメージに寄せたコーデに、メイクと髪型も頑張って今日、彼の店の敷居を跨いだものの、それでも、酷く場違いなような気がして、――だが、此処で挫けたりするものか、と強く心を持つ。だって私は、このブランドが好きで、此処のデザイナーを強く尊敬していて、この服に相応しい人間になるために、今日まで必死に努力を重ねてきた。何も気にすることはない、お金だってちゃんと多めに持ってきたのだ、勇気を持って、手を伸ばす資格が、私にはちゃんとあるのだから。

「――それね、可愛いでしょ? 今シーズンの新作なんだっ! あんまり、普段は使わない色なんだけど、こういうのもたまには良いかなーって」
「…………えっ」
「オネーサン、それ似合いそうだね! 試着してみる?」
「……大丈夫、です。この服を買うと決めて、今日来たので……」
「えっ? そうなの? ネットか何かで知ってくれたのかな?」
「雑誌で……」
「ああ! なっるほどー! 雑誌でも取り上げてくれてたよねっ! キミ、シブヤの子?」
「いえ、今日は地方から……」
「ふうん、シブヤでライブとか? そのついでに来てくれたのかな?」
「違います、この服を買うために、高速バスで……」
「……えーっ!? その為だけに来たのぉ!?」
「はい……駄目でしたか?」
「ううん、ぜーんぜん! スッゴイ嬉しい! そっかぁー! オネーサン、大人しそうに見えるけど結構大胆なんだね! すっごーい!」

 ――幻聴かと思った。その声はまるで、小鳥が歌うような美しさだ。思わず私は、眼の前の彼を自らの幻覚かと思い、自分の正気を疑った。それは、此処は彼の店なのだから、何もおかしいことでは無いのだ。きっと、忙しい彼は日頃、アトリエに籠もっているのだろうし、店頭には居ないのだ、と、そう思い込んでいたのは、全て、私の勝手な想像に過ぎないのだから。――飴村乱数の店に、飴村乱数が立っているのは、何らおかしなことではなかった。そして、客である私に、店主である彼が、接客の為に声を掛けてきたのも、別段おかしなことではない。おかしいのは彼でも店でも世界でもなく、この場に置いて、私だけがどうかしていたのである。私は、飴村の手掛ける服が好きだ、だから、作り手である彼を尊敬していた。彼はデザインやクリエイトの才能に溢れるだけではなく、自らの作る衣服に決して負けない容姿を磨いている人だと、インタビュー記事を何度も読み込み、写真を眼にしてきたから、よく知っていた。――だが、現実、本物の飴村乱数が、こんなにも美しいとは知らなかったし、思いもよらなかったのである。彼の店は、色とりどりの飴玉が溢れる、キャンディーポットのようだ。しかし、彼自身は、それよりも美しい、繊細な飴細工で出来た人形が、人の言葉を話している、ような。何処か異質で、無機物的な美が、圧倒的な存在を持って、其処に立っていたのだ。

「そのワンピを買う! って決めて来てくれたなら、尚更試着しなきゃメッ! だよ? ぜーったいオネーサンに似合うって、ボクが保証するけど、丁度良いサイズを選ばなきゃ、勿体ないでしょ?」
「……はい」
「ね! ほら、試着してごらん? 試着室はあっちだから!」

 ――人は、驚異にも値する美に対面したとき、絶句し、思考を停止させるものだ。正常に回らなくなった頭に、右へ左へ、踊るように忙しなく移動し、コロコロと変わる表情で話す、彼の高い声が、ぐわんぐわんと響き、脳をかき回した。何か妙な物質が排出されている、うまく物が考えられなくなる。甘美な声に、私の自我は崩れていく。最早、此処には彼の服に魅了された私の残骸のみが、残るばかりだった。

「コレ着て、またシブヤに遊びにおいでよ! 待ってるね、オネーサンっ!」

 ワンピースに合わせて、小物や靴を選んで欲しい、と。欲が思わず口をついたとき、なんて身の程知らずな、と一瞬、我に返った。いくら彼の服のために自分を磨いたとて、彼の手を患わせるほどの価値が、私にあるとは思えないのに。だが、彼はと言えば、二つ返事で私の申し出を了承し、完璧なコーデを考えてくれた。メインが落ち着いた色だから、小物は少し遊んだくらいが可愛い、という彼のアドバイスで、靴とバッグとヘアアクセ、ソックスとネックレスも買った。すっかり財布は軽くなったけれど、そんなことはどうでも良い、と思える程の高揚感が私を支配していたのを、今でもよく覚えている。

 帰りの夜行バスに揺られながら、飴村の言葉を噛み締めて、膝に抱えたピンクのショップバッグを抱きしめつつ、少しばかり、正常な思考の戻ってきた頭で、考える。飴村が、私と歳も対して変わらない青年だということは、知っていた。彼という人物と、実際に対峙してみて、私とは違う世界の生き物なのだ、と強く感じた。――だが、それと同時に。私は、一体何をしているのだろう、と思った。私も、あちら側に行きたい、と。強く、そう感じ、願ったのだ。このまま、田舎でアルバイトを続けて、稼いだ賃金を彼の服に注ぎ込み続けるのもいいだろう。だが、それだけでは、この服に相応しい人間には、一生なれない気がした。
 私の目標であった飴村乱数の存在は、このときの出来事を期に、私の中でどんどんと膨れ上がって、最早、人生の目標である、と。そう呼んでも、差支えがない域にまで到達していたのである。
 それから、基本的には通販で飴村の服を買い、地元で異質なものを見る眼で、好奇の眼差しに晒されながらも、彼の服を着て歩き、時々シブヤにも訪れたが、それ以来、来店時に飴村と遭遇することは、一度もなかった。学校生活に戻れば、教室で参考書を読み、手芸部に入り、服を作り始めた。人生の目標を彼と定めた私は、卒業後、服飾系の学校へと進学し、――遂に、飴村のブランドに、就職を決めた。彼と同じ場所に立つためのスタートラインに、私は辿り着いたのだ。


 ――飴村は、私の人生に、常に飴村が居たことなんて、知らなかったと思う。入社後の私は、飴村の部下の一人に過ぎず、普段きらきらと輝く彼の、職人気質な部分や、彼の本質的な部分を知った。

「――おい、あとちょっとだからしっかりしろよ! 俺だってもう限界超えてんだぞ!?」
「あーあー眠くないです眠くないです! 絶対間に合わせましょうね!? 私頑張りますから! ねえ! あめむらさん!」
「良い覚悟だなァ!? よし、納品したら肉行くぞ肉! この俺が奢ってやる! 有り難く思え!」
「やったー! 飴村さん最高!」

 納期が近づいている時などは、一人称が時々、俺になって、口調も粗暴になる。ボクと俺、どちらが素なのかは、結局分からなかったものの、私は、完璧な黄金率を誇る彼が、目の下に隈を作って、決死の形相で凄む様が、何故か結構好きだった。そういった事態に陥っているときは漏れなく、私も同じ有様で、彼の前に居るのが申し訳なくなるほど、見苦しい姿だったから、そんなに気にしている余裕もなかったけれど。

「ねえねえ、ってさー」
「はい、どうしました? 飴村さん」
「昔さ、ボクのお店に来たことあるでしょ」
「ええ、まあ。何度も通いましたが」
「そーじゃなくってー! ボクのお店で、ボクに会ったこと、あるでしょ?」
「……えっ?」
が入社して暫くしたことかなー、急に思い出したんだよね。がよく着てるボルドーのワンピ、何年も前のウチの商品だけど、すごく大事に着てるでしょ、それで思い出したんだあ」
「……覚えてたん、ですか?」
「まあ、正確には忘れてたんだけどねー! そっかあ、あのときの子だったんだあ、って思ってさ」
「…………」
「嬉しかったよ? キミがお店に来たときも、この子は真剣にボクの服に恋してるんだ、って思ったし。しかも、あのときの子と、デザイナーとして、再会してたのが分かってね、なんか、人間ってこんな風に、感じて、繋いで、後に続いていくものなんだー! って思ってさ」
「はは、……なんですか、それ?」
「べーっつにー? でも、そうだなあ、キミが続いてくれたから、……ボク、安心してるのかなあ?」
「……? なんですかそれ? そういう意味ですか?」
「んーん! ナーイショ!」

 私の人生の目標は、飴村乱数だった。最初は、彼の服を目に焼き付けること、次は、彼の服に相応しい人間になることで、その次は、彼のように、きらきらしいなにかを、作り上げる側の人間になること。それが、私の夢だった。私には、彼ほど際立った才能はない。だから、今は必死に努力してきたものを駆使して、彼の下で働く事が私の精一杯、だけれど。――いつか、そうだ、いつかは、きっと、自分のブランドを立ち上げて、彼に並び立てる人間に、なりたかった。私の人生における主旨はいつからか、飴村に追い付く事になっていたのである。

 ――だから、気付かなかった。
 飴村が、私に何を求めているのか、知らなかったのだ。何かを求められているなんて、思わなかった。私だけが、彼を必死で追いかけていただけのはず、だったから。



『この手紙をキミたちが読んでるってことはー、なーんて、お決まりの文句は置いといて、この手紙に、今後の会社の方針を記すよ。経営に関する問題は全て、担当弁護士と経理士に依頼済なので、キミたちは気にしなくていい。それで、此処からが肝心な事だけど、ブランドは存続させて欲しい。今後、問題なくやっていけるだけの手は打ってある。キミたちは、最後までボクの我儘に付き合ってくれた。そんなキミたちだって、ボクのポッセだから、路頭に迷うようなことにはならないよ。これからもよろしくね。』

『じゃあ、本題。ボクの後継者には、を指名する。今日から、がメインデザイナーで、オーナーで、このアトリエの責任者。まあ、そうは言っても、経営面のことなんて分からないでしょ? ボクも全部自分でやってたわけじゃないし、そのあたりは周りが補ってくれる。あんまり気負わなくて大丈夫、キミは今までどおり、最高の服を作ればオッケーだよ。』

『多分、混乱してるよね。でも、断らないでしょ? だってー、、このブランドのこと大好きだもん、潰したくないよね? なーんて、脅し文句みたいだけど、任せるならキミだと思ってたのは本当。こんな日が来るかもしれないって知ってたし、まあ、運命だって受け入れたわけじゃないけどね。でも、こうなったときに、キミがいてくれてよかったと思う。ボクを追いかけてくれてありがと。』

『ボクには家族なんかいないし、息子も娘も出来る予定ないし、ボクと一緒に、いつかこのブランドは消えると思ってた。でもさあ、そうじゃないかもしれない、って思ったんだよね。キミがいるから、ボクにも何か残せるものがあるのかなー? って、そう思わせたのはキミなんだから、責任取ってね、よろしくーう!』

『じゃ、ボクからの遺書はこれでおーわり! みんな、あとはよろしくね! 楽しかったよ! ボクのクルーたち! だーいすき! フロムヘルからピンク色の愛を込めて みんなのアイドル らむだより』


 ――飴村乱数は、砂糖と硝子と、それから少しの劇薬で出来ていた。決して、人ならざるものの美しさと才を誇る彼が、違う生き物であることに、私達はきっと、何処かで勘付いていた。その事実を、決して問い詰めることが出来なかった私達は、所詮、彼の言うポッセには成り切れなかったのだろう。此処にいたのは全員、多種多様なれど、飴村の才能に魅了された者たちだった。彼には決して届かない、有象無象の集まりだと言うのに、一般人代表であったはずの私は、なんということだろう、今日から、居なくなった飴村の、代理を勤めなければならないらしい。

 事務所総出で、彼の遺品整理をしていた折に、ポップな便箋に丸っこい文字で遺書、と書かれた手記が発見されたときは、全員が卒倒するところであった。何故なら、その手紙の指し示すところは、彼が自らの死期を悟りながら、此処で指揮を振っていた、という事実に他ならないからだ。
 ――そんな素振りは、彼からは、まるで感じられなかったのに、だ。

 恐らく彼は、死んだのではない。私達には、政府との繋がりなんて無いし、飴村の出自は謎に包まれていたから、真実を知ることは出来ない。只、政府から送り届けられた軽い骨壷だけが、私達にとっての、彼が死んだという事実の証明だった。綿飴ほどの重みしか無い箱には、なんの現実味もなくて、飴村が死んだという事実を、私は未だ受け入れられていない。現実味がない男は、消えるときまで現実味がないのか、と驚愕さえ覚えたものである。――只、その手紙を読んで、分かってしまった。生きていても死んでいても、或いは、最初から飴村乱数などという人間は、この世のどこにも、生きていなかったのだと、しても。――飴村は、もう此処には帰ってこない。ついぞや、私は飴村に追い着けずに、私など振り切って、彼の星光は、瞬きの役目を終えたのだ。それでも、私は一生、飴村の背を追って、もう居ない彼を目標に、足掻きながら生きるのだろう。飴村が私の人生の目標だ、ならば、此処から逃げることも、失墜も、私には許されない。飴村乱数は、私の人生だった。ならば、この舵を任された私は、星を紡ぎ、生きていこうと思う。彼が果たせなかった事を、私はどれだけ、叶えられるだろうか。窓から吹き込む風に、彼のデスクに供えられた、白いカメリアが揺れる。ふわり、と舞う少し色あせたピンク色のカーテンが、これは白昼夢などではないのだと、強く証明していた。――飴村は、此処に生きていたのだ。 inserted by FC2 system


close
inserted by FC2 system