夜空は傷まない

 自分の見てくれに興味関心を割いていない訳ではなく、寧ろ他人と比べた際に俺は自らの身なりや風貌に対して、自覚的である部類として、俺は自身を認識している。──だが、何もそれは其処まで過剰な話ではない。癖の強い髪を伸ばしているからこそ、無造作に放り出さずに束ねている、だとか。戦闘職である兼ね合いもあり、指先の手入れはしている。だとか。それは、その程度のものだったし、それらはどちらかと言うと、例えば他の惑星にエクェスの任で出向いた際に、掠り傷から未知の細菌が混入して命を落としただとか、そういった馬鹿らしい死に方をしないためにという、合理性を兼ねた意味合いもある。
 一時は、ヤスリを用いて爪を整えていた時期もあるが、それもささくれやかすり傷を防止する意味合いの方が強く、……まあ、爪でも研いでおけば、有事には牙の代わりになるかもしれんという考えも幾らかはあったが、それでも。──思いのほか手間が掛かるその手入れは、手持無沙汰の手慰み程度ならばともかく、日々の時間を割いてまでするほどのことか? という自問自答の末に、結局、自主的な習慣として根付くことはなく、いつしか手入れ道具は埃を被っていた。

「──見て見て! レボルトの爪、ぴかぴか!」
「……そりゃ良かったなァ……?」
「うん! 左手もぴっかぴかにするからね!」

 ──ソファに腰掛ける俺の足の間へと座り、にこにこと大層楽しげに笑いながら、俺の手を取って、手に持った硝子の爪ヤスリで俺の指先を磨き上げていくの表情は、真剣で、それでいて楽しそうで。──だいぶ前に、俺がこいつの前で金属製のヤスリで爪を磨いていたところ、それでは爪を痛めるとから口うるさく言われ、その後、地球からガラス製の爪ヤスリを持ち込んでまで手入れ係に立候補してきたために、俺の指先のケアはすべて、現在はに担当を任せている。
 それ以降も、爪を整えるだけに飽き足らず、ハンドクリームだのヘアオイルだのを落ち込んではその度に、日々の鍛錬でも手を痛めることはあるのだから手入れをするに越したことはないだとか、髪を乾かすにも傷めないように纏まりやすくする方法があるだとかそう言って、俺の身体の至る所は今やすべて、が手入れを行なっており、そうも小間使いのような真似をしなくともいいと俺は言ったが、は好きでやっているのだと言って、まるで俺に譲らんのだった。
 ──まあ、なにも俺にとって損が生じる訳でもない。寧ろ、がこうして俺の片手を手入れしている間に、俺は今も端末に目を落として仕事に時間を割く事とて出来るわけで、どちらかと言えば俺にとっても都合がよい。──俺一人であれば、ここまでやるかと問われたのならば、それは間違いなく否ではあるのだが。

 爪を磨いている俺の姿を見てから、は俺がそういった自身のメンテナンスに拘る性質だとでも思っているのか、爪も髪も、艶を増せば増すほど俺が喜ぶとでも思っているのか、健気に手入れに励んでいるが、実際のところ、俺はなにも其処までは、自身の隅から隅までを手入れしなければ気が済まんという性質でもないのだった。
 議員という人前に立つ立場もあり、表向きには怪しまれん程度に自身を装っていたこともある。故に、周囲と比べれば美醜に気を遣っているようにも見えるかもしれぬが、そもそも俺は、周りの人間など気に留めてはいない。故にが施すケアは、俺にとっては既に過剰に過ぎるのだが、……しかし、拒む理由があるというわけでもなく。──結局のところ、俺は今日もこうして、とっくに仕事が片付いて電源を落とした端末を覗き込んでいる体だけ装って、鼻歌交じりに俺の爪を磨くを見下ろしているのだった。

「……そんなに楽しいか?」
「ええ! とっても!」
「……そうか」

 ──やがて、俺の両手の爪を整え終えたは、「爪はピカピカになったから、今度は手のケアをするね」と言って、俺のささくれの処理をした後で、ハンドクリームの入った小さな瓶を手に取る。どうにも、そのクリームは蓋が固くて締めづらく開けづらいようで、新しいものを買ってやると何度言っても、これが成分的に俺の手に一番合うのだと言って聞かないので、が蓋に手を掛ける前に、俺はを後ろから抱き抱えるような格好で、瓶を取り上げて蓋を開けてやる。──すると、は幾らか頬を染めつつも「ありがとう、レボルト」と言って心底嬉しそうに笑い、俺から受け取った瓶の中身を掬い上げるようにガラスの小瓶へと指を差し入れるのだった。

 気温で冷えたハンドクリームは幾らか固いらしく、は自分の体温でテクスチャーを伸ばしてから、俺の手を取って丁寧に塗り込んでいく。この体格差では、にとって俺の手は片手で包むには大きすぎるために、両手を駆使することで、指先をすりすりと撫ぜるようにクリームを馴染ませてみたり、指の関節をくるくるとなぞり、両手を使って絡めるように、指の付け根にまでクリームを行きわたらせようと俺の手を撫で回すその仕草は、──本人にとっては真剣なのだろうが、此方としては、まるで俺に向かって甘えているかのような素振りにしか思えん。
 最近では、にも俺の伴侶たる自覚が大分出てきたとはいえ、以前は俺に「あの、手を繋いでもいい……?」と、たったのそれだけを強請るのにも相当な時間を要したと言うのに、こんなことばかりは大胆にも、平然と行えると言うのだから、多少は腹立たしくもなるというものだ。
 ──恐らくだが、にとって、これは自分本位のスキンシップなどではなく、俺の為に行われている奉仕だからこそ、其処に過剰な照れや気恥ずかしさなどは伴わないのだと言う、これは、十中八九、そういった話だ。……まったくもって、勝手な話よな。それらの行為を望んでいるのは決してお前だけではなく俺も同じであるのだと、何度も俺が言い聞かせて、大分もその旨は理解出来てきたのだろうが、……であれば、平時も奉仕の際と同じように、堂々としていればいいものを。

「……レボルトの手、あったかいね……それに、大きくて……」
「……お前の手は、本当に小さいな」
「そうかな……?」
「ああ。……このようなヤスリを用いねば爪も折れるのであろう? なんとも脆いものよな……」
「……それは、レボルトが爪まで強いだけだよ……?」

 些か腑に落ちないと言った表情で、そう零すに、「であれば、お前は爪まで脆いのだな」とそう言いかけて、しかしながらそれは、戦士としてのこいつの自尊心を傷つけるものだと気付いて、俺は言葉を飲み込む。──こんな風に、俺が“口に出せば相手を傷つけかねん言葉”を、その相手を慮った結果に飲み込むなど、……如何にこの銀河広しとは言えども、俺はお前にしかこのような慈悲などは割かぬと言うのに。
 それを今は未だ知らないは、金属のヤスリで磨けば簡単に傷付く、自身の薄くて柔らかな爪先を、きめの細かなガラスのヤスリでそうっと磨いで、その上に爪を丈夫にするためにと鉄分のサプリメントを常用している。俺の方はと言えば、其処まで丁重にする必要はないものの、が俺にもそうしたいというから好きにさせており、……まあ、そうすることで。異なる星をルーツに持つ俺とお前の身体を構成する成分が、幾らか似通った構成になるというのは、それはそれで悪くないのではないかと思い、毎晩付き合って、俺はと同じカプセルを口に含んでいるのだった。

 何も脆いのは爪だけではなく、は当然ながら筋肉量も体格も俺よりも遥かに劣るからこそ、体温も俺と比べればずっと低い。故に、が死にかけるたびに俺は毎回、その低すぎる体温にぞっとして、──の体温を肌で覚えた今でも、こいつが体調を崩したり怪我を負う度に、俺は血の気が引くのだった。
 そして、低体温の割に、は何故だか手はいつでもあたたかく、──曰く、馬鹿らしいことに地球人は、のようにあたたかな手を持つ人間を捕まえては、“手が暖かい人間は、その分心が冷たい”のだと言って、嘲笑するのだそうで。……俺が相手であれば、その揶揄も的を得ていたかもしれぬが、に限ってはそんなこともなかろう。
 だが、その言葉に幾らか心を痛めていたらしいこいつは、俺の隣に立つようになった今、俺とのてのひらの温度が近いことに泣きたいくらいに安堵するのだと、そう言っていた。

 ──確かに俺も、と掌を重ね合わせるたびに、まるで互いの輪郭が融けて消えて行くかのような、お互いが同一の存在だと信じられるかのような、……そんな、言い知れぬ安堵を覚えることがある。お前の手に触れるたびに俺は、──やはりこの存在だけは離し難いのだと、そう思うのだ、……もしも、かつて、俺の野望が叶っていたのなら、そのときには。──新たな宇宙の玉座にて、失ったお前を思い出すたびに、俺は何を想っていたのだろうかと、……今でも時折に、俺はそんなことを考える。

「……お手入れ、おしまい! ……レボルト、まだお仕事する? それとも、そろそろ寝る?」
「……ああ、キリの良い所まで片付いている。俺も、もう寝る」
「うん。じゃあ、お部屋行こうか? もう、髪の毛もオイル付けたし……あ、でも最近トリートメントのいいやつ、してないよね?」
「……ああ、あの、お前が週に一度やれと言っていたものか? 面倒で忘れていたな……」
「それなら、明日は私がレボルトの髪洗ってもいい? トリートメントもしてあげるから!」
「…………」
「……レボルト?」
「……よ、それは、共に風呂に入るという意味か?」
「? だめだった? レボルトが洗われるの嫌なら、諦めるけれど……」
「……いや、好きにするがよい」
「! ほんとう?」
「ああ。……明日は、共に風呂にでも入るか。……ま、特別に仕事も早めに切り上げてやってもよかろう」
「ほんとに!? 嬉しい! この間買ってきた入浴剤入れようね! あのね、地球に降りたときにね、レボルトの目の色みたいで、きれいな菫色のを買ったの! ……だからね、いっしょに使いたかったんだ、ふふ、嬉しいな……」

 ──以前のは、俺が冗談めかして風呂に誘ったところで、顔を真っ赤にして断固拒否の姿勢だったにも関わらずに、……その言葉が指し示す深い意味に理解が及んでいないものかと思い、はっきりと問いかけてやったところで、お前からはあっけらからんとした明るい返事が返ってくるのだった。くすくすと頬を薄く染めて目を細めながら笑うお前のその表情を見て、俺は、……ああ、これは。お前は、俺のことを好きすぎるあまりに、俺に奉仕の限りを尽くそうと望むあまりに、必要に駆られて、無意識のうちに手を握ったりだとか、身体に触れてくるようになったものとばかり思っていたが、……或いは、とっくにそうではなくなっていたのかもしれぬ、と。──そう、突然得た気付きに、……俺も、鈍くなったものだと思わず笑いが漏れたのは、……俺は俺で、お前に感化されているのかも知れぬと言うその事実を、存外、悪くは無いと思ったからなのであろうか。 inserted by FC2 system


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