夜ごと胸に降り積もる宇宙

※閲覧注意。



 漠然と重たい意識の中、視界は黒一色に塗り潰されている。しかしながら何も見えぬその場所で不思議と、俺は安堵を抱いてもいるのだった。
 気付けば俺は、腕の中には何やらを抱え込んでいるようで、晴れぬ視界では抱えたそれが一体何者であるのかは不明であったが、抱えているだけで心安らぐこの何かは、恐らくは俺が心から欲しているもの、……であれば、星の核の三枚のボーン辺りと考えるのが順当か。──俺にとって無条件で己を満たす要素など、己の野望以外に在り得んのだからな。
 ──しかしながら、何ゆえか腕の中のそれは、俺の手の中で不意に、懇願にも似た苦しげな声を上げるのだ。よもやボーンが俺に抵抗しているのかとそう思い、腕の中のそれを屈服させんとぐっと強く力を籠めると、──不意に俺は、ぬるり、と手の中に生暖かい感触を覚えたような気がして、俺は其処で目を開いた。

「……は?」

 ──どうやら、今のは俺が見た夢であったようで、ゆっくりと覚醒してゆく意識の中、ようやく開けた視界へと突然飛び込んできた光景に、──俺は思わず、絶句している。
 瞼を開けた俺の眼前に広がっていたものは、──組み敷かれ圧し潰されるようにして俺の下敷きになり、首筋からだらだらと出血しているの姿と、──赤く濡れた己の手だったからである。
 ……これは一体、何が起きているのか、思わず一瞬、理解が遅れた。苦しげにくぐもった声を上げながら浅い呼吸を繰り返すの首筋には俺の牙が鋭く突き立てられており、──掌どころか、己の口元が鮮血で真っ赤になっていることにも、俺はようやく気付いて、呆然としながらも反射的に口を閉ざそうとしてしまったことで、再度深く牙を突き立てられたが耐えるようにぎゅっと目を閉じて、悲鳴交じりの吐息を漏らすのを見てようやく俺は我に返り、──どっどっど、と暴れまわる心臓をどうにか押さえつけながらも牙を抜き、の上から退くように身を離したのだった。

「……レボルト、寝ぼけてた? 大丈夫……?」

 はっ、はっ、と浅い息で震える声で囁くように話すその様で、──一体全体、何ゆえに俺の心配などが出来るというのか、お前は。
 途切れ途切れで苦しげに話すは、俺が眼前の事態を理解せんと脳を回転させるよりも早く、「レボルト、寝ぼけてた、みたいで……よかった、起きてくれて……」──と、ようやくと言った様子でそう語るその言葉を聞いて理解が追い付いたとて、動揺と後悔と共に、──己の内で歓喜が込み上げていたことなどは、俺とて、到底理解したくもなかったとも。
 一体全体、何と言うことか。──俺は、俺と言う醜悪な人間は、己の目の前で、他でもないこの女が死にかけていたとて、それが己の所業によるものであったのならば、──こんなにも、どうしようもない高揚感に満たされてしまうらしいのだと、改めて思い知らされてしまった。……どれだけお前と寄り添おうとも、俺は結局のところ、畜生のままなのだとその程度のことは、己が一番よく理解しているつもりだったのだがな。

 一度ならずも二度も三度も、俺はが目の前で死にかける姿を見ている。故にらしくもなく昨今の俺は、を僅かな危険からでも遠ざけようと躍起になっていた。この女を失ったときには再び己は歯止めが効かなくなるであろうことも、自覚しているからだ。
 ──だが、それでも。……自分の手で、お前を傷付けるというその行為に、俺は、……どうしようもなく、暗い喜びを覚えてしまうのだ。俺の心の真っ暗闇を、お前の悲痛は一瞬で満たしてしまうと知っていたからこそ、──どれほど大切に思ったところで、俺と言う男は理性を手放せば簡単にこれを砕いてしまえると理解しているから、決してお前にだけは手を上げまいとしていたというのに、……だというのに、この様は一体、……何だと、言うのだ。

「……何故、早々に俺を起こさなかった……」
「なぜ、って……」
「寝ぼけていると分かっていたならば、俺を叩き起こせばよかろう」
「ううん……でも、レボルトの意志でそうしているのかも、しれないし……?」
「んなわけがあるか、……もういい、止血する。……自分で押さえ付けておけるか」
「ん……こう?」
「……既に力も入らんか。ならば俺がやる、お前は寝ているがよい」
「うん……ごめんね、ありがとう……」

 一体、いつから俺に牙を立てられていたのかと思うほどにその傷は深く、手酷く、極度の痛みからか失血からか、或いは緊張状態を脱したが故か。すっかり力の抜けたの手では、俺が止血の為に首筋に宛てた布地を押さえておくことさえもままならず、──傷口を圧迫しながら、俺はくったりと弛緩したの身体を抱き上げて、医務室へと急いだのだった。
 ──不測の際にこそ空間の力が欲しいと言うのに、ソキウスの奴ときたら、呼ばれてもいない際には勝手に俺の屋敷に居座っておきながら、こんな夜には都合悪く不在だったようで、空間の力があれば一瞬で済む移動も、だだっ広い屋敷を徒歩で、それも怪我人を抱えて横断するともなれば、一筋縄では行くまい。
 なにも俺は、ひとりを抱えて走ったところでどうともせぬが、浅い呼吸で顔色も悪く、雫のような汗が頬を伝うの方は、一刻も早く処置を受けさせる必要があったからだ。

 そうして、──使用人も寝静まった深夜に大騒ぎをして、屋敷の医療室へと担ぎ込まれたはあれから小一時間後、医務室の白いベッドの上へと寝かされているのだった。

「……大事は無いか」
「うん、へいき。輸血もして貰ったし……」

 己の手で傷付けておきながら、大事はないかとは一体どういう了見かと、……相手がではなければ、俺はそのように責められていたことだろう。
 だが、は決して俺を責めない。それどころか感謝の意まで伝えんとしてくるこいつが、……俺に対して献身的すぎるということは、俺が一番よく知ってはいたが。──まさか、命の危機に陥っても本気で抵抗しないものとは思わずに、腹の内ではぐちゃぐちゃと満たされる支配欲と苛立ちとが、渦を巻いて猛り狂っているのだった。

「……何故、俺を起こさなかった?」
「なぜ、って……だって、レボルトになら殺されても良いと、私はそう思っているし……」
「んなことは知っている。……だが、それも……」
「? レボルト?」

 ──俺がお前を殺す算段で、お前はそれに同意し、俺達がそのような条約の上で共犯関係を結んでいたことなど、そんなものは今となっては最早、昔の話であろう、と。
 ──思わずそのような言葉が口を突いて出掛けた己に、……恐らくは俺が一番、動揺していたのだろう。
 野望が挫かれたとて、俺は変わらないものとそう思っていた。そして実際、俺の醜悪な部分は幾年と連れ添ったところでまるで変わることもなく、今でもこうも徒に何の前触れもなく、を傷付けている。
 ──だが、俺のその言い分ではまるで、……俺は今、野心などとは無縁のぬるま湯のようなこの生活に、すっかり適合してしまっているかのようではないか。……或いは、その事実を未だ受け入れられん己の本能があるからこそ、この日々を破壊してしまおうとでも思ったのか、……否、そんなにも簡単な話でも、なかろうよ。
 ──只、俺と言う男は、……どうしようもなく、矛盾を抱えているという、これは只のそれだけなのだ。これほど得難く思ったとて、傷付けたい、壊してしまいたい、お前のすべてを食らってしまいたいと言う本能を、……俺は今だ押し殺しきれずに、獣のままでお前の傍に居るのだった。

「……今夜は、このまま医療室で眠るがよい、
「え……」
「何だと言うのだ」
「……部屋に戻りたい、レボルトの隣じゃないと、安心して眠れないし……」
「……俺の寝台は、あの様だぞ。寝れたものではなかろう、……まあ、使用人は既に起こした後だが、……しかし、、お前は、俺が……」
「……ね、レボルト」
「……どうした」
「私、本当に気にしていないし、大丈夫だよ」
「……そうか」
「だから、お部屋に戻りたい、な……」
「……分かった。薬が効いているのであろう、運んでおいてやるから寝ているがよい」
「ええ……せっかくレボルトが抱っこしてくれるのに、寝てるの、勿体ない……」
「やかましい、とっとと寝ろ」
「はあい……ねえ、レボルト……?」
「……ああ」
「あのね、……私はね、あなたに殺されるのも、ちゃんと意識があるときがいいなあ……」

 ──そのように物騒な寝言を零しながら、鎮痛剤に混ざった睡眠薬の効果でふわふわと浮いた意識を手放して眠りに落ちるのその言葉に、──俺が何を思っているか、お前は本当に理解しているのだろうか。
 今でもこうして、の寝顔見てると俺は、……お前が、果たして本当に生きているものかと不安に駆られているということも、お前はきっと知らんのだろう。何度も何度も目の前で死にかけたお前を失うことをこうも拒んでいるというのに、簡単にを傷付けている俺の隣では安心して眠れるのだなどとお前は言うが、そのような安息は手放してしまった方がきっと、お前のためではあるのだろうな。
 それすらも理解した上でされど俺には、を手放してやろうなどと言う気は全く起こらずに、──それどころか、己が招いたこの不測の事態にも、俺はお前を少しでも自分に似た存在に作り替えてしまおうと、黙って俺の血液を輸血させていたという、そんな狂気にも似た執着さえも、お前は知らんのだ。

 ──そうだ、俺は酷い畜生なのだ、よ。お前がどれほどに俺を想い慕おうが、俺の激情が幾らかは凪ごうが、その事実だけはこの先も永劫に変わらん。
 それが他でもないお前であったとしても、否、お前であるからこそ、俺を曲解して善人などを誤認することを俺は許さず、その事実を何度でも理解させるためにもきっと俺は、この先も何度でも、お前に牙を立てることだろう。
 だが、お前は何も、それを我慢して受け入れることはない。お前はその度に、素直に泣けばよい。俺を許すことはお前にとって、苦しくて痛いのだと、素直にそう言えば良いのだ。俺はお前の蛮勇などは、一切好まん。
 ──よ、お前には痛みや恐怖という感情が備わっていることを、俺は実感したいのだ。蛮勇の英雄ではなく只の小娘であると、心底からそのように感じられたのならば、──この先にお前が他者の手で害される心配などを、俺は抱かずに済む。誰かに壊される懸念が無くなれば、俺はお前を傷付けずに済むかもしれん。──さもすれば他人に壊されるくらいならば、いっそ、という気の迷いも、吹き飛ぶことだろう。
 英雄足らんと振舞うお前も、白銀の装甲さえ剥いでしまえば、只々か弱く脆い存在であるのだと、俺はそのように感じたいのだろう。お前が只の女なのだと再確認する度に俺は、俺への恐怖を殺してでもは俺の傍に居たいのだと実感できた。──そうして、お前の恐怖を飲み下すことで、俺の悪鬼たる部分は満たされている。
 ──全く、お前の命が砕けてしまうことをこうも拒んでおきながらも、一体、この先にどれだけお前を傷付けたのならば、俺はもう二度とお前に牙を立てずに済むものかは全く見当も付かんなどと、……心底、度し難い話だとは、他でもないお前のことなのだから、俺とてそう思うが。それでも、今もこうして穏やかな寝息を立てる小さな熱は、俺のすべてを受け入れているという事実こその証明が、……俺はどうしようもなく、欲しいのだ。 inserted by FC2 system


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