ひかりとおり過ぎるもの

 ポケモンマフィア・ロケット団、その首領、サカキ。彼には最愛の妻がいる。――否、居た、のだ。かつての彼には、確かに妻が存在していた。彼がひとりになってから、もうじき八年になるが、彼はこの八年間、妻の墓参りを欠かしたことがない。そして、この夏、――ロケット団が解散した後も、彼はトキワシティの外れにある妻の遺骨が埋まる場所を、訪れていた。みんみん、じわじわと煩い虫ポケモンの鳴き声が響く、トキワの森。季節外れの黒服に身を包むサカキは、その場には酷く不釣り合いだったが、森の奥地には、地元の人間の姿すらなく、彼は誰にも見つかることがなかった。彼が武者修行へと発ち、カントーを離れて暫く経つが、未だにこの地方ではサカキは指名手配を受けているため、カントーへと戻るのは妻の墓地を訪れるこの日のみで、墓参りを終えればすぐに彼はカントーを発つ。尤も、たった一日でも帰ってくるべきではない、と亡き妻なら彼を叱るのだろう、と簡素な墓に手を合わせ、妻が好きだったキキョウの花を供えながら、サカキは想い、小さく笑う。たった一日、一目だけの逢瀬くらい、どうか許して貰えないものかと。

 サカキの亡き妻は、生前、何よりもサカキを第一に優先していた。彼がまだ若く、妻と出会ったばかりの頃、ロケット団の首領としての頭角を表すよりもずっと前から、妻は彼の側にいてくれたのだ。彼の妻、――という女性は、ポケモンマフィアの首領、などという立場にある夫と共に歩むために、様々なものを諦めて生きたひとだった。それでも、サカキと共に歩めるのならば何の後悔もない、と。そう、今際の際まで唱え続けた彼女は、第一子の出産と同時に命を落としてしまった。身体が弱かった妻は、妊娠前から、ロケット団が抱えていた闇医者からも、出産は諦めるべきだとさえ進言されていた。しかし、それでも、サカキの後継者を産む責任が自分にはあると強く主張する、強かな女性だったのだ、は。……生まれた息子は、彼女によく似ていた。妻が亡き後、サカキは彼なりに、ロケット団の首領として暗躍しながらも、息子、――シルバーと向き合ってきたつもりだったが、組織の解散とともに息子とも道を違ってしまったことを、妻の墓前に悔いながら、サカキは想った。

「……お前なら、今のおれに、何と言うのだろうな、

 おまえが命と引き換えに産んだ子を、結局は見捨ててしまったおれを、一体。おまえは、なんと呼ぶだろう。いっそのこと、責めてくれたなら、まだ楽になれたのかも知れない。だが、妻はもう此処には居らず、彼には妻の心はわからない。サカキは想う。は、自分には似つかわしくないくらいに清廉な人間だった、と。彼には、彼女を理解することが最後まで叶わなかった。何故、自分のような男を選び、最期の瞬間まで側に在って、命まで捧げて彼の明日を築いてくれたのか、生粋の悪人である彼には、理解できない。もしも、堅気の男と添い遂げていたならば、こんな森の片隅で名もない墓に埋められることもなかっただろうに。もしも、組織の後継者を残さなければ、などという重圧のない場所に居たならば、死んでまで子を成そうと思うこともなかっただろうに。生前、黒いスーツのサカキの隣に、黒い着物で並んでいた妻の横顔を、サカキは今でも鮮明に思い出せる。あなたの隣に立つなら、こういった格好をしたほうがあなたの迫力が増すでしょう。そう言って微笑んで、身に着けるものひとつを取ってしても、妻はいつもサカキの都合が最優先だった。着たい服を来て、表の世界でもっと自由に、もっと長生きする人生だって、あっただろうに。それを全て捨ててまで、が自分を選んだ理由が、サカキには今でも、分からないのだ。……只、なんとなくでも、分かることも、あって。

「……お前なら、きっと、」

 またいつか、我が息子と道が交わる日が来るかも知れないでしょう、と。きっと、ならそう言って、彼の最大の罪を咎めることさえもしてくれないのだろうと、それだけは分かっていたから、サカキに後悔はなかった。後悔をしたところで、得られるものは何一つない。今一度、最強を目指して歩み直すと決めた以上、今はその道を邁進するのみだ。もう妻は、隣に居なくとも。彼の心の中には、生涯彼女が寄り添っている。

「……また、来年の夏に来る」

 墓石にペットボトルから水を掛けて、掃除を終えると、墓前に、彼女の好きだった洋菓子を置く。また来年、会いに来ると誓いを立ててしまったからには、もう一年、何が在ろうと自分は生きなければならない。きっと、こうして、生涯ひとりで、妻を理由に生きながらえるのだろうな、と。そう思うと、少し可笑しくて、滑稽なものだな、と。晴天から木漏れ日が漏れる空の下、サカキは一人、口角を緩めて帽子を被り直すと、トキワの森を後にするのだった。



「――簡単なことなんですよ? 私は、あなたを愛しているから」

 ふわり、透けた足元では、隣に並べないけれど。するり、通り抜けてしまう腕では、あなたを抱きしめることさえ叶わないけれど。もう届かないこの声では、あなたの欲しい答えを、あげられないけれど。

「……ずっと、見守っていますから」

 森の中できらきらと光る緑色の輝きの中に、ゆらゆらと消えた、だれかのすがた。それは、蜃気楼だったのかもしれない。誰もその答えを知ることはなく、それでも。彼の言葉は、確かに妻へと届いていた。夏が終われば、秋が来る。季節は巡り、未だ彼には長い人生が残っている。その姿を、側で見つめている姿に彼が気付く日は来ないのかも知れない。けれども、彼には生涯、最愛の妻が居る。 inserted by FC2 system


close
inserted by FC2 system