信仰のにおい、羽化の引鉄

 大学を卒業して、警察学校に入り、その後、私は即、警視庁に配属された。――けれどそれも、そこまでが全て、予定調和で、はじめから全てが決められていた人生だった、というそれだけのこと。中王区に本拠を構える警視庁で、警官として、国に、――政府に、尽くすことで、人を救えると、それこそが正義の行いなのだと、あの頃の私は、本気でそう信じていたのだ。

 抱いた理想は砕かれて、かつて信じた人と袂を分かつた私は、かと言って、警察を辞める事も許されず、表向きには左遷、という形で、ヨコハマ署での、謹慎生活を送ることになって。――場所が変わったくらいでは、一度折れた心も、腐った性根も、簡単に治るものではない。あの頃私は、自分が再起できるとは、これっぽっちも思っていなかったし、立ち上がりたいとすら、思っていなかった。只々、毎日がどうでも良くて、流されるままに日々を過ごしていたのだ。

「――甘ったれたこと言ってんじゃねえ、、お前はなんで中王区を離れたんだ」
「……只、間違っていると、思った、だけです」
「……だったら、」
「あの人の正義が、何より正しいと、そう思っていました。でも、中王区以外の場所はどうでもいい、と。そう言わんばかりの独裁は、――正義とは呼ばない、そう、思った。それだけ、なんです」
「だったら、そうやっていつまでもグズってる場合じゃねえだろ」
「……そう、ですね」

 異動先のヨコハマ署で出会った入間さんは、麻薬絡みで、家族と親友を、失って、それでも一人で戦ってきた人、だった。そんな入間さんの、新しいバディに私が任命されたのは、全部、事情があってのことで、それは、私の正当な実力なんかじゃなくて。実力でのし上がってきた、このひとと、自分は違うと知っていたから、彼と組まされたのも、気が重くて仕方がなかったし、そんな込み入った事情は、入間さんだって承知の上だった。

「お前、夢があったんだろ」
「……夢?」
「中王区以外の場所で虐げられる弱者を見過ごす、そのやり方が気に食わねぇってことは、」
「はい」
「お前が信じてた正義は、弱者を護ることで、それがお前の夢だったんじゃねえのかよ」
「! ……そう、かもしれません、けど」
「かもしれない、じゃねーよ。……大した夢だ、俺は嫌いじゃない」

 私にはずっと、後ろ盾があったから、此処まで歩いてこられただけのこと、今もなお、それがあるから、飼い殺されることで、生存を許されているって、それだけのことなのだ、私は。権力の檻の中に飼われて、思考停止を続けていただけ。――そう、だけれど、こうして、目が覚めたからには、入間さんの足を引っ張らないためにも、前を向かなきゃいけない、と。――それだけは、確かに分かっていた。



「――悪いな、を巻き込む気はなかったんだが」
「近くに待機してたの、私だけですし、まあ、仕方がないでしょう。足を引っ張らない程度に、励みますよ、銃兎さん」

 ヨコハマ署に配属されて暫くした頃、その日は訪れた。バディだからと言って、何も、私と銃兎さんは、常に行動を共にしているわけではない。銃兎さんは巡査部長だし、私は、身の丈に合わない巡査長の肩書きを、一応は背負っているから、仕事なら他にもいくらでもある訳で。――それに、あまり銃兎さんは、私を銃兎さんの抱えるヤマに、関わらせようとは、しなかったから。――多分、それは銃兎さんなりの、気遣いだったのだろうと思う。箱入りの私を、慣れない現場に連れ出しても、リスクが高すぎるから、と。実際、それは尤もで、私の方も、現場で銃兎さんの荷物になりたい訳でもなかったし、それを良しとして、其処まで積極的に、麻薬関係の案件には関わってこなかった、のだが。
 ――その日に限って、銃兎さんは一人で現場に乗り込んで、近くから至急応援に向えたのは、私だけ、で。明らかな多勢に無勢の中、組織からの支給品であるヒプノシスマイクだけが頼りという状況に、私と銃兎さんは立たされて。――結局は、あっさりと、一瞬で隙を付かれた私と銃兎さんは、もうだめだ、というところまで、追い詰められて。


「――そっちの姉ちゃんはどうだよ? 俺に従うなら、命だけは助けてやるぜ? まあ、命以外の保証はしねえけどなあ?」
「――黙れよ、三下」
「あぁ?」
「――私はな、警視総監に喧嘩売ってんだ! お前らみたいな連中に屈してたら、一生かかっても、あの人を止められないだろうが!」

 ――人間、追い詰められると、本音が出るらしい、と。そう知ったのは、その時だった。マイクを握っても、出しきれなかった私の本音、深層心理の最下層に隠し込んでいた、それを。ようやく自覚した瞬間に、所詮は、何も成せずに死ぬ、というのは。――まあ、なんとも皮肉で、私らしいと言えば、そうなのかもしれないけれど。

「――良い啖呵だ」

 耳を疑ったのは、私だけではない。銃兎さんも、全く同じ表情で、突然聞こえた声の方を向く。――暗い廃倉庫のシャッターが、ギィ、と鈍い音を立てて開かれて、眩しいくらいの光が、朝日のように差し込んでいた。光を背に背負ったその人は、銀色の髪をギラギラと輝かせて、不敵に、笑って。

「は? 誰だ、テメェは……」
「――テメェと同じ悪党さ」

 そう言って、マイクを構えたその人の姿が、私には、――正義の味方のそれにしか、見えなかった。


「――アンタもな、良い啖呵だったぜ。見上げた女だ」
「――あの、」
「立てるか」
「は、い」
「よし。だったらアンタも構えな、さっきの言葉、テメェのリリックで証明してみせろ」
「……はい!」

 ――そうだ、あの日から、なのだ。

 私に前を向かせてくれたのは、銃兎さん。――そして、私に道を示してくれたのは、左馬刻さん。恩義があるのは、どちらも同じで、それから、私がまだやさぐれていた頃からずっと、理鶯さんが私の話を只々、静かに聞いてくれたことにも、私は本当に救われていたし、MTCの三人は、三者三様に、比べられないくらいに、私の恩人だ。――だけど、その中でも。あの朝に見た、鮮烈なまでの銀色の太陽が、眩しかったから。だから、あの人に恥じないためにも、私はちゃんと戦おうと、そう思えた。彼等と同じフィールドで戦うほどの技量も、度量も、私にはないけれど。私は私に出来る戦いをするのだ、と。そう、あの日私に思わせてくれたのは、腹を括らせてくれたのは、左馬刻さん、だったから。



「――おう、チャンじゃねえか、元気か」
「……お恥ずかしいことに、元気です」
「恥ずかしいことなんかねえだろが」
「……すみませんでした」
「主語を言えや」
「……合歓さんのこと、すみませんでした」
「……おう、銃兎に聞いた」
「……はい」
「アンタ、勘解由小路無花果の身内、なんだってな」
「……はい、無花果姉さんの、姪です」

 ――ヨコハマ署組織犯罪対策部・巡査長、、――現在、私が名乗っているのは、父の旧姓だ。私の母は、無花果姉さんと歳の離れた姉で、私の本当の名前は、勘解由小路、と言う。今の名前で、正式配属されているのは、警視総監・勘解由小路無花果が、組織にそう命じたから。彼女の意向に逆らった私は、頭を冷やしてこいと言われて、ヨコハマ署にて、事実上の謹慎を命じられて、――それで、結局私はそのまま、無花果姉さんの意志に、反し続けて。挙げ句の果てに、銃兎さんと、理鶯さん、それに、――他でもない左馬刻さんなら、いつか、本当に、言の葉党を打倒して、今の日本を変えてくれるんじゃないか、って。そう、希望を抱いてしまって、彼等のサポートに徹することで、私が決定的に、姉さんに噛み付いたから、こそ。

「……私のせいです、合歓さんのこと……」
「誰がんなこと言った、あの女か」
「……警視庁勤務を経て、私は、いずれ行政監察局副局長に就任すると、決められていました。だから、」
「へぇ、それで?」
「……私が、姉さんに従っていれば、きっと合歓さんは巻き込まれなかったんです、なのに、」
「そうとは限らねえよ、その時は合歓がアンタの手駒になってただけかもしれねぇ。そうなりゃ、今より厄介な状況になってたろ」
「でも、」
「でもじゃねえ、大体、今更んなこと言って何か変わんのかよ」
「……いいえ。ですが、必ず私が責任持って、合歓さんを連れ戻します。どんな手を使ってでも、わたしは、」
「馬鹿かテメェは」
「……っ」
「俺にまた同じ想いさせんのかよ、銃兎にもだ、理鶯が言ったろ、、テメェには俺がクソ野郎に見えんのかよ?」
「……いいえ、そんな、はずないです。だって、左馬刻さんは、」

 ――ずっと、憧れている、私にとっての光で、ヒーローで、――警察組織に失望し、膝を付きかけた私に、正しさを言葉と行動で、指し示してくれた人。許せないことがあるなら、間違っているとそう思うなら、慕い続けた肉親でも、警視総監その人であっても、マイクを握って啖呵を切れ、喧嘩を売れ、と。――そう、提示された答えは、もしも、中王区の塀の中で、私が一生を過ごしていたなら、出会うこともなければ、その鮮烈な眩しさなど、知るはずもなかった、反社会組織に身を置く左馬刻さんが、私に与えてくれたもので。そんな彼が、あの日私を立ち上がらせてくれた存在、だったからこそ、――私は本当に救われたし、足掻けるだけ足掻いてやろう、切った啖呵は、果たしてやろう、と。――そう思えた、のだ。

「……さまときさんは、わたしの……」

 ――本当に尊敬している、心から、このひとの全てを、敬愛している。銃兎さんの後輩である私を、その後も何かと気にかけてくれた左馬刻さんのことが、――本当に、大好き、だけれど。私はどうしようもなく、左馬刻さんに相応しくない、と。誰より自分が、自覚できていた、から。

「……わたしの、尊敬するひと、です。クソ野郎なんかじゃ、ないです」
「だろ。まあ、気にすんなや、チャンの責任じゃねえよ。……キツかったろ」
「え?」
「ずっと、気に病んでたんだろ。……でもな、アンタはアンタだ。立派にやってる。あの日の啖呵、俺は今も覚えてるぜ」
「左馬刻さん……」
「おし、なんか食いに行くか。何か食いてぇもんあるか」
「え、でもまだ、職務中で、」
「知るか、ウサ公にでも倍働かせとけ。それとも、チャンは、俺様の誘いは受けられねえってのかよ」
「そんなわけないです、滅相もないです。……左馬刻さんとご一緒、したいです」
「おし、行くか」
「……はい」

 出来ることなら、この先も、ずっと。このひとの背中を、追いかけ続けられたなら、一緒に歩いて行けたなら良いのに、と。心から、そう、思う。――そうでは居られなくなる日が、もしかすれば、近づいているのかも、しれないけれど。――今はまだ、許される限りは、この星標を追っていたいと、愚かな私は、思ってしまうのだ。 inserted by FC2 system


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