ヒーローショーはきみのもの

 うだるような暑さに苛まれる夏日と、降りしきる土砂降りの雨で気温が下がり切った寒い日とが、交互に繰り返す初夏のある日、私はすっかり体調を崩して自宅に臥せっていた。職場には朝のうちに連絡を入れて、同僚からは気にせずゆっくり休んでください、と言ってもらったし、心おきなくの休日ではあるものの、窓の向こうがはっきりと見えないくらいに強まった土砂降りの空模様と同様に、どうにも気持ちは晴れない。当日欠勤の申し訳なさやら社会人としての自己管理不足を嘆く気持ちやらは、心身ともに参っているから降り積もっているだけの一過性のそれでしかないと理性では分かってはいても、正気などというものはどうやら、熱と共に既に溶け切ってしまったらしい。──こういうときは、寝てやり過ごすのが一番だと相場が決まっている。薬が効いているからか、不幸中の幸いにも瞼さえ閉じればゆるりと睡魔が降り落ちてきた。そうして、素直に微睡みに身を任せて、私はやがて意識を手放すのだった。

 ──次に目が覚めたのは、自宅のインターホンが鳴ったときだった。今は一体何時だろう、と枕もとの携帯端末を手に取って確認すると、丁度昼過ぎの時刻が表示されている。宅急便かとも思ったけれど、何か直近に通販で買い物をした覚えはなかったはずだし、正直体力的につらいので玄関から聞こえてくるその音には、耳を塞いでしまいたかったのだけれど、来訪者は私が出ていくまで帰る気などないらしく、少しの間をおいて二度目のインターホンが鳴ったことで、私も観念してどうにかベッドから起き上がる。パジャマの上からカーディガンを羽織って寝癖を軽く手櫛で直しながらよろよろと玄関に向かい、営業や宗教勧誘の類だったらどうしてやろうかと思いながら、私は玄関のドアを開けた。

「こんにちは、
「え……は……?」
「具合はいかがかな。昼食はもう済ませたか?」
「え、あ、あの……サー!? ど、どうして此処に……!?」
「部下の体調を気に掛けるのも上司の務めだろう。何、パトロールで近くを通ったのでな、そのついでに立ち寄ったまでだ」
「あ……そ、そうですか……」

 玄関のドアを開けると其処に立っていたのはなんと、私が事務員を務める職場の上司──サー・ナイトアイ、そのひとであった。どうして此処に、と狼狽える私の気持ちなど知ってか知らずか、サーは眉一つ動かさずにいつもの仏頂面のままで、手に提げたコンビニの袋を軽く開いてこちらに差し出してくる。冷静なサーに対して私はと言えば、突然上司──というよりも密やかな思いを募らせる想いびとが訪ねてきたことで、──もっとかわいいルームウェアを着ていればよかったのにだとか、眉くらい描いて出てくればよかっただとか、もっと髪をちゃんと整えてくるべきだったただとか、そんなことばかりがぐるぐるとあたまのなかに浮かんでは消えて、半ばパニックを起こす私にサーは何かを思い違いした様子で、「顔が赤いな、熱があるのなら私はすぐに行こう。起こしてしまったならすまなかった、玄関のドアに袋を掛けて行こうかとも思ったが、流石に不用心に過ぎるのでな……ともかく、今日は気にせず休みなさい」と、そんなことを言って、──本当に、此方の気など何も知らずに。

「コンビニでゼリーとプリンと……レトルトのお粥とスポーツドリンクと……いくつか見繕ってきたから、昼食がまだなら食べられそうなものを食べると良い」
「あ、……ありがとうございます、あの、お代をお支払いしますね」
「気にしなくともいい。それより、他に要りようのものはあるか? 良ければ私が買ってこよう」
「だ、大丈夫です! あ……というか、気が利かずにすみません! お茶を淹れるので、よかったら少し上がっていかれませんか!?」
「気を遣わずとも良い。自分の体調を優先しなさい、熱があるのだろう」
「で、でも……」
「それに、一人暮らしの女性がそう気安く男を上げるものではない。この辺りも物騒になってきたからな……では、きみが安心して眠れるようにするためにも、私はパトロールに戻ろう」
「は、はい……あの、お気をつけていってきてくださいね、サー」
「ああ。いってきます、。復帰したら、また事務所で茶を淹れてくれ。あなたの淹れる茶が一番旨いんだ」

 バタン、と音を立てて閉まった玄関の扉の向こうで、革靴が地面を蹴る音は微かに響いて少しずつ遠ざかってしまう。──本当に、たった一瞬の逢瀬だったのに、其処には大した甘さも存在しなかったのに。……ああ、サーってこういうときに部下ひとりひとりを気に掛けてくれるひとなんだよなあ、だとか。……きっと、そういう不器用ながらも優しい部分をすきになってしまったのだろうなあ、だとか。そんなことをぼんやりと考えながら、私はサーが買ってきてくれたプリンを口に運んで、……それには、何処にでも売っている何の変哲もない甘みしかなかったはずなのに、不思議と大切なもののように思えて仕方がなくて、少しずつ噛み締めるように食べた。すると、少しおなかに物を入れたことで薬の効きが良くなったのか、再びベッドに戻ったときには今朝がたの焦燥感などはすべて何処かへと消え失せてしまっていて、……こんなにもふわふわと優しい穏やかさを運んできてくれた、いつだって私のヒーローのあのひとに、明日は事務所で逢えたらいいな、と。考えているうちに今度は優しい睡魔に誘われて、私は再び意識を手放したのだった。 inserted by FC2 system


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