ミルクとショコラが融ける夜に

 年明けの慌ただしさも幾らかは落ち着いた二月の中旬、朝には息が白み、まだまだ寒い日が続くこの季節。間近に控えたバレンタインに向けて、今年は花梨ちゃんといっしょにチョコレートを作る約束をしていた。
 女子は男子部員にチョコレートを配らなきゃいけない、だとか。決して、そんなにも不平等な習わしがある訳でもないけれど、当然ながら男子比率の多い我がアメフト部にて、選手として紅一点の花梨ちゃんにはこの季節、バレンタインの贈り物を期待する視線が、部員たちから痛いくらいに突き刺さっている。同時に、それはもちろん、マネージャーを務める私にも同じことが言えるのだけれど、花梨ちゃんはノーと言えない彼女の優しい性格が災いして、下手に断ると花梨ちゃんの方が心に傷を負ってしまうたちであるため、私の方から彼女に提案して、事前に部員宛のチョコレートを私と花梨ちゃんの連名で作ろう、という約束になっていたのだった。

 ──さて、花梨ちゃんは京都の実家から毎日大阪にある帝黒まで通学しているけれど、私の方は寮生活をしている。私も出身は京都なので、通おうと思えば実家から通えないこともないけれど、鷹ちゃんも寮暮らしだし、サポートするなら近くに居た方が都合が良いし、マネージャー業と言うのもそれなりに朝が早いものだから。そんな訳で、実家を離れて寮で暮らす私の部屋に、この日は部活を終えた花梨ちゃんが泊まりに来て、備え付けの簡易キッチンでチョコレートを作る、というのが私たちの計画だった。
 当初の予定では一軍の分だけを作る手筈だったのだけれど、花梨ちゃんから「二軍以下の部員に文句を言われないか不安」という旨の申し出があり、……きっと棘田先輩のことだろうなあ、と苦い気持ちを覚えつつも、確かに彼女の言うことにも一理あるというか、まったくもって花梨ちゃんには非が無いようなことで彼女が理不尽に責め立てられるのは、私だって嫌だ。そもそも、チョコレートを貰えると思っていること自体が良くないとは思うけれど、マネージャーとしては、あまりその点を詰めすぎて、只でさえ一軍に対するフラストレーションを抱える彼らのやる気を削ぐのも憚られる、というところでもあった。……彼ら、というよりも、これは棘田先輩に限った話だけれど。

 ──そんなわけで、花梨ちゃんとのチョコレート作りのためのお泊り会は、大変ではあったものの、大層に楽しかった。アメフト部は寮暮らしの部員も多いけれど、当然ながら女子寮は私一人なので、普段は多かれ少なかれは寂しい想いをしているけれど、あの日は花梨ちゃんが私の部屋に泊まって行ってくれたし! 普段は食堂で食べることが多いけれど、ふたりでご飯を作って食べて、私の作ったオムライスを花梨ちゃんにおいしいと言ってもらえたし、嬉しかったなあ、……なんて。思い出すと、にへ、と笑いが漏れそうになるものの、……実は、ひとつだけ、予定外の事態が起きてしまったのだった。

 当初は、一軍の皆さんに立派なプレゼントを用意しようと思っていたところを、急遽200人分に分けることになったわけだから、急いで材料を買い足したものの、自室の設備では流石に200人分も当初の分量では作れなくて。……残念ながらながら、ひとり当たりの取り分が、予定よりも少なくなってしまった、ということである。


「──みなさん、これ、花梨ちゃんと私からバレンタインのプレゼントです!」
「ホンマに!? 花梨とから!? もろてええんか!?」
「いや安芸先輩、ほとんどちゃんが作ったんです! 私は、ホンマに何も……!」
「そんなことないよ、花梨ちゃんと半分ずつ作ったんですよ」
「こない立派なもん、ふたりで200人分も作ったんか……? 大変やったんとちゃうんか? も花梨も……」
「いえいえ、これもマネージャーの務めですし、花梨ちゃんが手伝ってくれたので余裕です! ね? 花梨ちゃん?」
「え、ええ……!? そ、そうやったかな……?」
「そうそう!」
「ラッピングもきれいだし、とても美味しそうだね、ありがとうふたりとも」
「ふふ、どういたしまして!」

 ──二月十四日、なんてことのない平日のその日に、帝黒アレキサンダーズの大評議会場にて、ミーティングが終わった後で、と花梨から部員全員にチョコレートが配られた。──もちろん、それは俺も例外ではなく、前列の一軍から順番に配って行ったは最後に、評議会場の一番後ろの席で本を読んでいた俺の元まで階段を登ってくると、「これ、鷹ちゃんの分ね」と微笑みながら、俺に向かってプレゼントを差し出すのだった。……そう、他の200人に宛てたものと全く同じ、オレンジ色の小さな包みを。

「……ありがとう、……」
「中身ね、チョコチャンククッキーなの! 花梨ちゃんといっしょに……」
「……うん、最初に説明してるの聞こえてたよ」
「あ、そっか。珈琲に合うと思うから、休憩するときにでも食べてね」

 本当なら、この小さな重みを受け取って、喜んでしかるべきなのだろう。評議会場はふたりからのチョコレートで何処も彼処も大盛り上がりだし、最前列の大和や一軍のメンバーも楽しそうに笑っているし、二軍以下の面子もそれは同様で、一軍の紅一点である花梨と、チーム全体にとってマドンナのような立ち位置にあるからのバレンタインの贈り物は、皆にとって嬉しいものである筈なのだ。……そう、俺だって何も、迷惑に感じている訳では無くて、それでも。……今年からは、俺だけに“幼馴染からの特別”が贈られることが無くなるという可能性を、……俺は、この包みを渡されるまでは、考えもしていなかったのだった。
 ──きっと、彼女に悪気はないし、そもそもは何も悪いことなんてしていない。只、チーム全体の士気を上げるためにと彼女が画策して、花梨とふたりで作ったと言っているが、一軍の彼女にが部活外で負担を掛けるとは思えないし、事前の準備や仕込みなんかは殆ど彼女が片付けたんじゃないかと、そう思う。花梨の負担を減らしつつも、花梨の面子は立てる。一軍の専属マネージャーを務めるは、部員全員に対して、そういうことが出来る子だ。……だから、俺の分け前が少ないことなどに拗ねるのはおかしいのだと、俺にも分かっていて。……でも、去年までは1/200などではなく、そのすべてが俺に分け与えられていたものだから、……俺はどうにもそれがつまらなく思えてしまって、……それは、俺だけの権利だったはずなのに、だとか、……そんな風に子供じみたことを、俺は考えてしまっていて。

「……今年は、“お茶会”じゃないんだね」

 ──そう、思わず、ぽろりと転げ出てしまった本心に、俺が一番動揺していたと思う。──確かに、去年までは毎年、特別だったのだ。バレンタインのこの日には、決まって彼女の部屋に招待されて、手作りのお菓子と飲み物を振舞ってくれた。今よりずっと幼かった頃はホットチョコレートで、中学に上がってからは紅茶で。……それじゃあ、今年からは珈琲なのかな、なんて。そんな風に思っていたのに、先ほどのの口ぶりだとどうやら、今年の珈琲には自分で淹れない限りはありつけないらしい。……そのくらい、なんでもないことだ。高校に進学して、帝黒アレキサンダーズで大勢の部員に囲まれて、──大和と親しくなっていく彼女を傍で見ていて、既に彼女が俺だけのではなくなったことくらいは俺も気付いていたし、其処に不満はなかった。──不満は、ないつもりだった。……けれど、実際には。毎年お菓子作りの腕を上げていくが、今年は何を用意してくれているものだろうかと、俺は無意識のうちに、この習慣を楽しみにしてしまっていた。、らしい。
 俺の言葉に、きょとん、と不思議そうな顔をするに、──慌てて謝罪と撤回を唱えようと、手元のプレゼントに落としていた視線を、傍らに立つ彼女へと向けて。「──、ごめん。今のは、違うんだ、」と、──そう言い放った俺が言葉の続きを繋げるよりも早く、俺の耳元に顔を寄せた彼女が、ぽそぽそと誰にも聞こえないくらいの声量でちいさく言葉を紡ぐ。──久々にこんなにも近くの距離で長い睫毛を見つめたこと、それから、彼女に伝えられた言葉に動揺して、……驚くくらいに喉が張り付き、上手く返事が出来ずに俺は只、無言で頷くことしかできなかった。

「……夜、寮の談話室で待ってて? 鷹ちゃんに、渡したいものがあるの」


 ──部活動の時間も過ぎ、寮へと戻り、夕飯も風呂も済ませた後で。に指定された時刻がもうすぐ周る頃、俺は、男子寮と女子寮との中間に造られた談話室へと足を運んでいた。食堂との兼ね合いで、学校側としては寮はひとつに纏めておいた方が運営が楽なのだろうけれど、そうは言っても男子寮と女子寮とは最低限度、分ける必要があり、その関係上、寮の居住区以外で食堂と談話室は、男子も女子も自由に足を運んでいい決まりになっていた。
 とはいえ、使用可能な時間は決められているし、不都合も多いので談話室の利用者は其処まで多くはない。そんな談話室への呼び出しは、からの頼みでなければ、そもそも足を運ぶこともなかっただろうけれど、……他でもない彼女からのお願いで、それに今日の俺は、に嫌なことを言ってしまったから。……ちゃんと謝りたいしとそう思って、俺はこの場所に足を運んだわけだったのだが。

「……鷹ちゃん! 遅れてごめんね」
「……俺が早く来ていただけだよ。……、それ重くない? 手伝うよ」
「ありがとう。テーブルにお皿、広げて貰える?」
「うん。……というか、これは……」
「えへへ、今年はチョコレートケーキにしたんだよ! しっとりめで、ちょっぴりビターなの」
「……、ごめん。俺、さっきは早合点して……」
「いいの。……私こそごめんね、あれでは、去年で終わりみたいだったよね。そんなことないの、先に言っておけばよかったよね……」

 そう言っては、少し困った顔をして、「珈琲が合うと思って。カフェインレスにしたから、もう遅いけれど安心してね」と言いながら、カップに温かくて深いチョコレート色の珈琲をとぽぽと注いで、丁寧にコースターを置いてから、そっとコップを差し出す。切り分けられたケーキにもフォークを添えて、談話室のソファの前、ローテーブルの上へとお茶会の支度を整えていく彼女を呆然と見つめて、「どうぞ、鷹ちゃん」と促されるがままにひとくち切り分けたケーキを頬張ると、はらはらと口の中でやさしくなめらかに崩れて、後味はほろ苦くて、……けれど、とても甘くて。……それで俺は、自分は愚かだったと、つくづく思ったのだった。──だっては、俺を追いかけて帝黒まで来てくれて、そうまでしてずっと俺の傍にいてくれているのに。──それをほんの少し、他人に取られたからって勝手に不貞腐れて、……まったく、本当に、馬鹿だったな。

「おいしい。……ありがとう、。去年のよりも、もっと上手になってる」
「ほんと? よかった、鷹ちゃんに気に入って欲しくて、練習したの!」
「花梨とふたりで作ったのだって、重労働だっただろう? それなのに、俺の分まで……」
「だって、鷹ちゃんには特別なのをあげたいもの。……鷹ちゃん、帝黒で人気者だし、もう私から貰ったりしなくても、平気かもだけど……」
「そんなことないよ。……俺は、からのが一番うれしい」
「……そっか」
「うん。……ところで、これはワンホール全部、俺の分?」
「そうだよ! 鷹ちゃんが全部食べて。食べきれなかったら、冷凍しても大丈夫だから」
。……これ、本当は半分、大和の分だったんじゃないの?」

 俺からのその指摘に、は一瞬だけ表情を強張らせて、けれど一度はすぐに何でもない風に微笑んだものの、「大和」という名前が出た途端に、ぴたり、と彼女の動きは止まって、へにゃへにゃとまたしても彼女は困った風に笑うのだった。俺の隣に腰を掛けて、自分の分のカップを手にもじもじしているは、……十中八九、今年は俺と大和にだけ、特別なチョコレートを贈るつもりで準備してくれていたのだろう。でも、俺が早合点をして拗ねたせいでは計画を変更して、大和の取り分も全部、俺にプレゼントすることにしてしまった、……ということ、らしい。

「……やっぱり……」
「……あの、いいの。私、鷹ちゃんのこと嫌な気持ちにさせちゃった……その方がずっといやだから、今年は鷹ちゃんだけにあげたいの」
「嘘ばっかり……、俺は大和にあげる分には怒らないよ。確かに他の部員には妬いたけど、大和のことは、俺だって友達として好きだし……」
「大丈夫! ほら、大和くんだって他にもいっぱい貰ってるもん。大和くん、素敵なひとだから……」
から貰ったら、大和は嬉しいと思うよ」
「それなら、私も、部活のときにあげたし。それでいいよね?」
「……これを渡されるのと、他の200人と同じで、花梨とふたりで作ったものとでは、全く意味合いが違うと思うよ」
「……うん……でも、もう遅いし、もう決めたことだから……鷹ちゃんがいいの……」

 ──は昔から、一度決めたことはなかなか撤回しない、意固地な性格だった。だからこそ、生まれつき病弱な彼女がマネージャーとして此処まで俺に着いて来られた訳でもあるけれど、……この性格が裏目に出る場合もあるのだと、最近の俺はそう感じてもいる。……まあ、大和はのそういう性格も気に入っているみたいだったけれど、流石に俺も大和と親しくしていることまでは邪魔をしようとは思わないから、すっかりそう決め込んでしまったを前に、……さて、どうしようか、と。そう、逡巡するのだった。……そもそも、元はと言えば、俺が変に機嫌を損ねたりしていなければ、最初からこのお茶会には大和も招かれていたのだろうに。俺がを独り占めしたがったばかりに、不可抗力で、大和へのインターセプトに成功してしまった、と言う状況に他ならないのだ、これは。……それなら、俺がどうにかするべきだろうとそう思い、ごそり、ポケットから取り出した携帯電話の電話帳を開き、見慣れた名前に発信してみると、2、3コールで、「──もしもし? 鷹? どうかしたのか?」と。はっきりと良く通る声が聞こえた。……よし、この声色だと、寝ぼけてはいないようだし、未だ就寝前らしかった。

「大和、少し談話室まで出て来られる?」
『え? 構わないけど……』
のチョコレートケーキがあるんだ。俺と大和の分で、特別製の、」
『! 行く! 少し待ってくれ、今すぐに向かうから! それじゃあによろしく!』

 ──仔細を説明する前に慌ただしく切れた通話に、ふ、と思わず口元が緩む。……大和との付き合いはまだ一年弱といったところだけれど、……あの男は、俺と同じくらいにのことを大切に思ってくれているような、そんな気がするから。だから俺はそれがどうしようもなく嬉しくて笑ってしまうし、何故だか大和に対してだけは、“可愛い幼馴染を横取りされた”という気持ちを全く抱かないのだけれど。……無論、そんな俺達の事情を知る由もない隣の可愛い女の子は、呆然と言った表情で、俺を見上げているのだった。

「た、鷹ちゃん……?」
「大和、今来るって。大和の足なら、五分以内には来ると思うよ」
「え、で、でも、大和くん、もう寝るところだったんじゃ……」
「全然起きてた」
「でも……」
「……大和、に貰ったクッキー、寮に戻ってからもずっと眺めてたから」
「えっ」
「迷惑なんてことはないよ。……珈琲を用意して、待っていてあげたら?」
「……うん……」

 ──いつかは本当に、きみにとっての特別は、俺ではなくなるのかもしれないし、それでも、俺はきみの特別で在り続けるのかもしれない。それでもいいよ、構わないよと素直に言えるほどには、俺はまだ大人になれないけれど、かわいいかわいいきみにはいつまでも、これっぽっちの不安さえも抱かずに笑っていて欲しいから、悲しませてしまったお詫びも込めて、ホワイトデーには何倍にもこの気持ちをお返ししてあげたいと、そう思う。……だってきみは、俺にとって一番大切な女の子だから。 inserted by FC2 system


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