009

 ──一体どうして、こんなことになっているのか。俺には自分の立たされた状況がまるで把握できずに、……寝台の上、俺へと馬乗りになったを呆然と見上げている。

「……亮」

 するり、と頬に伸ばされた白い手は風呂上がりの熱を帯びていて、急激に心臓が燃えるような熱に包まれたのが、自分でもよく分かった。
 ──ブルー寮の俺の部屋に今夜は泊まると言い張るを連れて帰り、卓上デュエルをしてから部屋で夕飯を食べて、順番に風呂を済ませて、──それで、少し話してから明日も授業だし今夜は夜通しのデュエルはせずに寝るか、と。……そう、いつも通りの流れだったと、そう思う。
 無駄に広いベッドは二人で寝るのに十分で、俺は欠伸を小さく噛み殺しながらも睡眠を摂るつもりで横になった、──のだが、何故かはその場に寝転ぶのではなく、現在、俺の腹の上へと無遠慮に跨って、寝間着から覗く華奢ながらも柔らかな太腿が、俺の腹に密着しているのだった。

「……?」
「亮ってさあ……」
「……なん、だ?」
「私のこと、好きなのよね? それは異性として?」
「それはそうだが……それ以前に俺はお前を人として、好ましく思っている。そうでなければ、恋人になってくれなどと提案しないだろう」
「……そうよね?」
「……ああ」
「だったら、何もしてこないのはどうして?」

 ──じっ、と俺を見下ろしてくる丸い瞳には照れや怒りもなく、──困ったことに彼女は、只、純粋な疑問だけを宿して、こちらを見ていた。
 ──思えば、彼女はこの手のスキンシップに関しては、非常に淡白なのだった。……と言うよりも、俺たちには既に決闘という最適なコミュニケーションの手段があり、ましてや互いに学生で、元々は親友同士のライバルで、……だと言うのに、その関係値から急に改まって恋人らしい雰囲気になると言うのも、その方が余程に奇妙な話だろうと、そう思う。
 世間一般の恋人というものがどういった関係性を指すのかは俺にもよく分からないが、は恋人になってからも別段俺に甘えてきたりはしなかったし、それは俺も同様だった。
 ……まあ、俺にはまるでなんの感慨や下心が無いのかと問われれば、正直なところそういうわけでもないのだが、それ以前に俺はが傍に居るだけで十分に満足している。元々この関係に落ち着いたのも、その権利を欲しての俺からの提案だった。
 ──そもそも、今の俺はまだそれ以上を望んで良いような立場ではない、学生という身分にある。
 
「決まり切っているだろう、……俺もお前も未成年で、ましてや責任能力のない学生だ」
「あら、そんな理由なの」
「そんな理由、だと? ……大切なことだろう」
「──一応、聞いておくけれど」
「……何をだ?」
「あなたの遠慮は、下手な真似をすれば海馬瀬人に怒られるから、……とか、そういう理由ではないのよね? ……もしもそうなら、私にも考えがあるのだけれど」

 ──時折、思うが。……常に自信満々で不敵に笑う、彼女のそんなところが俺は好きなのに、……何故は、妙なところで自分の価値をこうも低く見積もりたがるのだろうか。
 ──一体、俺がどれほどにお前のことを考えているのか、きっとは知らないのだろう。
 彼女は何よりも俺と対等な関係であることを望んでいる、だからこそ、どちらかに責任や負担と言った天秤が傾くような行為についても、俺は慎重に捉えていると言うのに、……今までだって散々、俺達の前で無防備に振舞ってきた癖に、──唐突に許可を与えるような真似をして、……其処までして、俺はお前に、何を試されているのだろうか。

「……そんな訳が無いだろう……」
「……本当に?」
「お前に嘘は吐かん。……確かに、海馬さんには怒鳴られるだろうが……俺は、海馬さんではなくお前からの信頼を考慮しているだけだ、
「……そう。まあ、そういうことなら良いわ」
「……試すような真似をせずとも、俺は此処に居るだろう、
「……うん」
「それに、お前も此処に居る」
「……そうね」

 平時から気の強い彼女は、恋人だからと言って俺に寄りかかって来るわけではなければ、俺もそれを強要するつもりはない。
 大前提として、俺たちは一人と一人で互いを尊重し合って隣に立っているという、そう言った特別な関係なのだ、これは。
 ──きっと、先日に明日香の件があったから、は吹雪が失踪した日のことを思い出してしまったのでは無いかと、そう思う。
 決闘をしている間だけは、目の前の勝負以外の何もかもを、直視せずに済む。──だが、今でも目を閉じると時折、あの日の出来事が思い起こされるのは、俺も同じだった。そんな日はどうにも寝つきが悪くて、……嫌でも特待生寮で過ごしたあの頃のことを、鮮明に思い出す。
 放課後になってもあいつが、──吹雪が寮に帰ってこなくて、と二人で必死になって島内を走り回って吹雪を探しても、それでも。朝になるまで駆けずり回っても、あいつを島内の何処でも見つけられなかったあの日のことを思い出す度に、……俺とて、と同じ気持ちに見舞われているのだ。
 俺はが好きで、も俺を好きだ。それ自体に行き違いはないが、……この好意が友人に向ける類のものだけでは無いのだと、先にそう自覚していたのは俺の方だった。
 だからこそ、きっとにとって当初、この関係の変化は俺を繋ぎ止めておくための首輪のようなものだったのかもしれないと、……こうして、俺に餌を差し出そうとするを見る度に、俺は、……つくづく、舐められたものだと腹が立つ。

「……大体、俺がそうも無責任な男ならば、特待生寮に居た頃、とっくにお前に手酷い真似をしているだろう、
「……言われてみたら、それはそうね……? いえ、でも……亮はそんなこと、しないでしょうけれど……」
「当然だ。……それでは公平では無いからな、俺はお前に卑怯な手は使わん」
「……ふうん、そうなの」
「ああ。……俺に気を許して部屋に上がり込んでいる奴の不意を打つのは、正々堂々とは言わないだろう」
「要するに、正々堂々だったら別に構わないわけ?」
「だから、学生の身分で責任能力がだな……そう言ったことは、今はまだ良いだろう。卒業後も、俺はの隣にいるつもりだからな……」
「……そう、ね」
「ああ」

 俺ととは、相変わらず親友の距離感での付き合いが続いているが、……それでも、一切恋人らしいことをしないという訳でもない。
 元から距離感が近かったこともあり、特待生寮での雑魚寝の延長線上の意味合いが強かったが、こうして隣で眠ることにもお互い抵抗は無かったし、この距離感でベッドの上にカードを広げてデッキ構築の相談をしていた際に、勢いよく寝返りを打ったと顔がぶつかってしまったことが、以前にあった。
 ……それが、俺と彼女にとって、初めてのキスになったのだと吹雪に知られたなら、恋の魔術師などという肩書を名乗るあいつは、きっと遺憾の意を唱えるのだろうなと、そう思う。……まあ、吹雪が帰ってきたところで、そんなことを話してやる気も無いが。
 その際は事故だったこともあり、俺は咄嗟に謝ろうとしたが、何を思ったのかが、「……今の、結構良かったわね?」などと言い出したものだから、俺も思わず釣られて馬鹿正直にも彼女の言葉に同意してしまい、……まあその後は、互いに意図してその程度のスキンシップならば、度々取るようになっていた。
 ──そんな風に、結局はに流されてしまったことを思うと、俺は彼女に誇れるほどには誠実な人間では無いのかもしれない。
 ……要するに、俺がに下手な手出しをせずに済んでいるのも、大層な理由があるというよりも、の信頼を裏切りたくないという意味合いの方が強いのだろう。

「……分かったなら、そろそろ退いてくれないか?」
「ああ、悪かったわね。重かった?」
「重くはないが、……まあ、困りはする」
「……ふうん? へえ? そうなの?」
「……なんだ、何がおかしい?」
「いいえ? 別に?」

 相変わらず俺の腹の上に乗ったままで、先ほどまでの真剣な顔とは打って変わってにこやかに、それはもう本当に楽しそうに、無邪気で残酷な子供のような顔で笑うは、……全く、良い性格をしているものだ。
 どうして、俺が困っているのかもとっくに分かっているのだろうに、……だと言うのに、俺の好敵手は本当に、意地が悪くて、……しかし、こんな風に気を許した相手の前でだけ、彼女は子供じみた振る舞いをするのだと知っているからこそ、……まあ、に揶揄われるのも悪く無いと思ってしまうあたり、……俺は心底、彼女に心臓を握られているのだろうと、そう思う。

「……ねえ、亮」
「なんだ? 
「……吹雪、絶対に帰ってくるわよね?」
「ああ。……俺たちで、あいつを連れ戻すからな」
「……そうね、そうよね……本当、帰ってきたらタダじゃおかないんだから……」
「そうだな。……あいつには振り回されてばかりだ、一度強く注意してやろう」
「……ええ、絶対ね」
「ああ。……絶対にな」

 手を取り合ってこうして寄り添っても尚、眠れない夜は、まだ続くのだろう。──それでも、明けない夜はないと、俺と彼女はそう信じて共に夜を過ごすのだ。


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