056

 アカデミアからの卒業を機に、私は童実野町にある実家──海馬家の本邸へと戻った。

「──よ、貴様はこの先、決闘者として何を成したい?」

 ──今よりも少し前、まだ私がアカデミアに在学していた頃。周囲が就活に進学、と各々の進路へと向けて動き出したその時期に、私は一度アカデミアの本校から船で本土まで戻り、実家に顔を出しにきていた。
 理由は無論、父と卒業後についての相談をするためである。
 その日、父の元を訪ねるまでに私には様々な葛藤があり、──それでも、一度ちゃんと話しておかなければならないと、そう思った。
 父を前にすればまた、本当の気持ちを抑え込んでしまうかもしれないと、そんな不安だってあったけれど、──それでも、このまま無かったことには、やっぱりできない。

「……私は、海馬コーポレーションを継ぐために、父様の娘として拾っていただいたのですから、当然そうあるべきだと思っています。……ですが」
、……オレは貴様自身がどうしたいのかと、それを聞いているのだ」
「それは……」
「……オレは貴様の父として、海馬コーポレーション社長の海馬瀬人として問いかけているのではない。決闘者の海馬瀬人として、決闘者の海馬に質問している。……プロリーグへのオファー、オレが知らぬとでも思ったか」

 ──父様から放たれたその言葉に、私が思わず息を飲んだことなど、父様には簡単に看破されてしまったことだろう。──当然だ、この人は私の父で、私は父に一度だって敵った試しがないのだ。
 父様の言う通り、私には当時、プロリーグからリーグ参戦へのオファーが舞い込んできていた。
 ──アカデミアを卒業したなら、リーグ所属のプロ決闘者にならないか、と。
 リーグのスカウトからそう打診を受けたときに、本当なら、すぐさまその誘いを断ってしまわなければいけなかったのだろう。
 何故ならば、私は海馬瀬人の娘、即ち──海馬コーポレーションを継ぐ人間だからだ。
 そんな私には最初から、プロリーグに進み決闘者として生きて行く選択肢などがあるはずもなかったし、プロの片手間でやっていけるほどに会社運営は甘くはない。……そして、その逆もまた然りである。
 ──私には、海馬瀬人という人間に、──私の父に、とてつもなく大きな借りがある。……父は、幼い子供の頼みごとを真摯に受け取って、今日まで私を育ててくれたから、私は会社を手伝い受け継ぐことで、その恩をどうにか父に返したいのだ。

 孤児院育ちの私は、物心がつく前に実の両親を喪っている。
 ──だから、父に出会わなければ、父があの日私を連れて帰ってくれなければ、今も私は、一人ぼっちで、孤独なままだったかもしれないのだ。
 それは即ち、父に出会うことが無ければ、今の私は何処にもいなかっただろうということである。
 ──父と出会うことも、家族を得ることも、決闘を知ることも、アカデミアに編入することも、仲間を得ることも、親友を得ることも、ライバルを、恋人を、──亮というたった一人の存在さえも、私は父様に出会わなければ、きっと手に入れられなかったのだろう、と。……その恩義には、それだけの重みが詰まっている。
 だから、私は父様には感謝してもしきれないくらい感謝している。経営者としての父を、尊敬もしている。
 父の元に引きとられてからの日々で、幼い頃からずっと、いつかは私がその座を継ぐものだと信じて疑わなかったし、父様とてそのつもりだったから、私に経営者として、メカニック、プログラマーとしてまで、ありとあらゆる教えを施してくれたのだろう、ということもちゃんと分かっている。
 ──そう、私はアカデミアを卒業したなら、実家に戻り、会社を継ぐ。決闘浸りの生活は、学生の間だけなのだ、と。……初めから、そう、分かっていたのだ。……なのに、それが分かっていたはずなのに、私は、……あのとき、プロへのオファーをはっきりと断ることが出来なかった。

「──光栄です。私も卒業後は、プロの世界でやっていきたいと思っていました」
「おお! それは有難い! ……では、丸藤くんには早速、詳しいお話をさせて頂きたいのですが……海馬さん、あなたはどうでしょう?」
「っ、私は……その……」
「……すみませんが、彼女は今日は少し体調が優れなくて。彼女を寮に送り届けてから、私の方で詳細を伺いますので、彼女の返事は一旦保留にして頂けませんか?」
「おや、そうでしたか……これは失礼。では、海馬さんは後日改めてということで」
「……はい、ありがとう、ございます……」
「では、丸藤くんの方は後程、また」
「はい、一旦失礼します」

 リーグからのスカウトがアカデミアに来ていた日、至極当然のように、リーグ職員は真っ先に私と亮の前へと現れた。
 在学中はずっと主席争いを繰り広げ、結局、最後には二人でツートップの成績で卒業した。そんな私と亮は、プロリーグの方でもスカウト候補としてチェック済みだったらしい。亮はサイバー流道場最後の免許皆伝者にして次期師範代の筆頭候補だし、私とて海馬二世の青眼使いという派手な肩書きを背負っている。
 ──言い方は悪いが、二人とも、プロリーグの商売道具としては十分なネームバリューだろうし、自分にプロからオファーが来るかもしれない、という可能性を一切考えていなかったわけでも、……そのもしもに期待していなかったわけでもない。
 ──けれど、私は所詮、その程度だったのだ。亮のように、即座に誘いを受けることは私には出来なかったし、プロのステージに上がるだけの覚悟も、私はまるで決まっていなかった。
 あのとき、亮が上手く立ち回ってくれていなければ、一体自分はなんと返事していたのか、……そもそも、まともに返事を出来ていたのかさえも、分からないし、……正直に言えば、自信がない。

 ──アカデミアでの四年間、私は今まで以上に強く、深く、決闘というものに触れ、戦いに没頭する生活を送ってきた。
 その日々で私は、昔よりもずっとずっと決闘が大好きになり、──まだ実家に居た頃、海馬瀬人の娘と言う肩書へのプレッシャーのあまりに決闘を楽しむ余裕が無かった当時とは違い、ライバルたちと競い合う喜びをも知った。
 そうして、デッキとの絆も深まって、掛け替えのない人々と出会い、決闘は私に多くのものを与えてくれた。──そして彼らはこれから先、今までに培った全てと共に、その先に進んでゆくのだ。
 ──けれど、私は違う、そうではない。……残念ながら私は、彼らとは違うのだ。
 私の人生は決闘にはないのだと、そんなことは最初から分かりきっていた。……私は父様を裏切れないし、恩を仇では返せない。……だから、何も気兼ねなくその手を取ってしまえる亮が恨めしい、と。……そう思ってしまった自分の心の弱さが、一番許せなかった。
 ──亮がどんなつもりで、私の代わりに返事をしたのかも、私が断ってしまわないように立ち回ってくれた理由も、あの時割って入ってくれた意味も、すべては、私と戦い続けていきたいと彼が望んでくれているからだと、……そんなことだって、語られずとも分かりきっているのに。
 ──今までずっと、一番近くで決闘者の私を見詰めてきた、最大にして最強のライバル、丸藤亮。……そんなあいつが私の本心に気付いていないだなんて、到底在り得ないのだ。

、オレは貴様を自分の後継者として育てるつもりで引き取った。……無論、貴様とてそれは分かっているな」
「……はい、勿論です、父様」
「では、よ。……何故、オレがを選んだのか、知っているか」
「え……それは……」

 ──父様から向けられた、唐突なその問いに、思わず言葉が詰まる。……私が父様に選ばれた、理由。……言われてみれば、そんなのって、まるで考えたことも無かった。私である必要なんて、存在し得ないと思っていたから。
 だって、──そもそもの話、私と父様が最初に出会ったときに、私は父様と賭け事のチェスをして、私が勝ったら決闘を教えてほしい、と頼み込んだという、それがすべての始まりだったのだ。
 ……けれど、娘にしてほしいとまでは思い付きもせずに、私はそんなにも大それたことは頼んでいないし、──そもそも私は、あの日、チェスで父様に負けたのだ。
 八歳の子供にしては、私は当時からゲームの類が得意で、チェスもその一つだった。
 もしかすると、イカサマでもすれば、このひとに勝てるのかも、と。……そんなことだって、全く考えなかったわけではないけれど、父様が放つ圧倒的なプレッシャーの前で、そんな真似をそつなくこなせるものかという不安もあったし、……何より、海馬瀬人という人物に対して、誠意をもって挑まないなんてあってはいけないはずだと、……きっと、子供ながらに私の矜持が許さなかったのだろう。
 出会ったあの日から父様はずっと、私にとって圧倒的で、偉大な存在。それは今でも変わることはないし、私との勝負に勝ったはずの父様が、決闘を教えてくれるどころか、一体どうして、私をそのまま海馬家へと招き入れてくれたのか、──その理由が私には分かっていないということも、今でも変わりがなかった。
 ……だから私は、考えたこともなかったのだ。偶々、私が幸運だったのではなく、……或いは、私には然るべき理由があったからこそ海馬瀬人に選ばれた可能性などは、……まるで、考慮していなかった。

よ、オレはな」
「……はい、父様」
「あの日、貴様の眼に、可能性を見たのだ。貴様のそれは、強者たる者の眼差しだ。故に貴様はあのような場所に留まっているような人間ではない、と。……そう、オレは直感的に感じたのだ」
「とう、さま……」
「そして、それは今でも何も変わりはしない。……よ、貴様は既にオレを倒した決闘者……にも関わらずこの場所に留まり、オレの後釜を勤める、と……その選択で、貴様は、本当に後悔しないのか」

 本邸の応接間にて、ローテーブルを挟んだ向かい側のソファーへと腰掛ける父様は足を組み替えながら、私に向かって静かに語りかける。
 父様は終始、落ち着いた声で、静かな眼をしていたけれど、……膝の上で組まれた指先は強く結ばれていて、その青い眼の奥には、──私の知らなかった激情が揺らめいていた。

「十年前……プロ決闘者という存在はメジャーなものではなかった。リーグがここまで繁栄した今では、考えられんことだがな」
「そう……でしたね、ここまでメジャーな存在になるとは、昔は思っていなかったかもしれません……」
「ああ。だからこそ十年前のオレは、経営者としての道を突き進んで来られたとも言えよう。元より、そのつもりではいたが……オレにとって最大の好敵手が居なくなったのが、ちょうど十年前だ。……だからこそ、オレは未練なく後援に回れたのかもしれん。まあ、生涯決闘者ではいるだろうがな、決闘のみが我が人生、という道をオレは選ばなかった」
「ですが、遊戯さんは……」
「……今、オレが競い合っている武藤遊戯は武藤遊戯であって、かつてオレが競い合った武藤遊戯ではない」

 ──父様が何を言わんとしているのかは、私にもすぐに分かった。私の知っている遊戯さんというひとは、強い決闘者だけれど穏やかで優しくて、素敵なひとだ。
 けれど、遊戯さんという人間の中には、かつてもう一人の遊戯さんがいたのだと、遊戯さんからも父様からも、それに城之内さんや舞さんからも、同じ話を聞いたことがある。
 そんな、もう一人の遊戯さんに、私は会ったことが無い。私が海馬家に迎えられた頃には既に、そのひとはこの世界にいなかったのだ。
 ──名もなきファラオの魂を宿す決闘王、そう呼ばれる遊戯さんの中にいた、その王こそが、……私と出会うよりもっと昔、今の私と同じくらいの年だった頃に父様が、唯一ライバルと認めた決闘者だったのだという。
 ……けれど、父様はその名もなきファラオとは、もう競うことが出来ない。今でこそ私の知る遊戯さんこそが、他の誰でもない、父様のたった一人の好敵手だけれど、……当時の父様の喪失感と言ったら、私には差し図ることさえ出来ないもの、だったのだろう。
 ──だってその別離は、私の立場で例えるならば、……きっと、亮と二度と戦えなくなるのと同じくらいの痛みを、伴っていたのだろうから。

「……貴様がここに残ったとて、貴様の好敵手は前へと進み続けるだろう、無論、他の決闘者達もだ。プロと言うステージが整った今、どう足掻いても、アマチュアとプロでは境遇の差が生まれる。……貴様は、それでいいのか」
「それ、は、……それは、そんなの、は……」
「……よ、悔いなき選択をしろ。何もオレとて、まだまだ現役を退くような歳でもないのだ、言ってしまえば、オレが倒れた頃にでも帰って来てくれればそれでいい。良いか、よ……責任などというまやかしに縛られるな。貴様は海馬……、確かにオレの娘だが、それ以前にオレが認めた、戦うべき者なのだ」
「とう、さま……」
よ、貴様はオレの娘だ。この世界にたった一人の、このオレの娘……貴様は、オレの後を継ぐためだけに此処にいるのではない、貴様が何を選ぼうと……海馬は、愛しの我が娘だ」

 ──真っ直ぐに見つめられた視線に、思わず息が詰まった。……だって、その目が厳しくも、どこまでも優しい目だった、から。
 父様が私を愛してくれていることなら、ちゃんと知っている。だって、父様が私を愛して気に掛けてくれているからこそ、私も父様を深く慕い、父として愛しているし、父様の力になりたいと思ったのだ。
 決闘を教えてくれたことも、私を育ててくれたことも、その何もかもに、どれだけ感謝したってしきれない。
 ──だから、私は立派な経営者に成長して、父の後を継ぐ。……そうすることで父様に、恩を返したい、と。……ずっとずっと、そればかりを想い願って生きてきた。……けれど、或いは、いつからかその願いは私にとって、責任と言うしがらみにもなっていたのかもしれなくて。
 父様の娘ではない自分なんて、今となってはまるで考えられない、──けれど、もしも、私が海馬でなかったなら、次のステージへと、何の気兼ねもなく進めたのかもしれない、と。
 ──そう、何度も何度もひとりで悩んでは葛藤して、肝心の父様に答えを聞くことを恐れていた。偉大で厳しい私の父に、もしも私の本音を告げたなら、未熟者、軟弱者だと叱られ、期待外れだったと見放されてしまうかもしれない、と。
 ──もしも、そうなってしまったとしても、もう私も子供ではないし、その時は一人で生きて行ける。……そうだ、プロの選手として生きたいなら、元よりそうすることだって出来たのだ。それに、私には亮もいる、……私はもう、父を失ってもひとりぼっちになるわけじゃない。
 ──けれど、それでも。それは、私にとって、他の存在では決して埋めることのできない損失なのだ。
 父様は私にとって、絶対無二の存在。誰よりも尊敬している、永遠に憧れ続ける決闘者、私の北極星で、星導だ。──そんな憧れにだけは、どうしたって失望されたくなかった。だから、私は父様の手足でありたいし、そうあるべきだ、なんて。自分の弱さをそれらしい理由で包んで隠し、……きっと私は、父様に自分の本心を伝えることに、怯えていたのだろう。

「……父様、私は……」
「何だ、よ」
「私は……プロリーグに進みます。私にはまだ、決闘者としての頂点など見えていません……学園の女王なんて称号は、栄光でも何でもない。私は未だ蛹です、井の中の蛙です。……まだ、全然、決闘者としての私には何もかもが足りないの」
「ほう、それで? ……は決闘者として、何を求めるというのだ」
「勝利と……そして、勝者としての栄光を。強き者が頂点に立つのが理だと、……それが、父様が教えてくれたこと。私が信じる、決闘の哲学です。あなたが、私に与えてくれた力……私はまだ、そのひとつだって、あなたにも世間にも、何も証明できていません!」
「……それが貴様の、答えか、
「……はい。私は、まだ先に進みたい……でも、父様の自慢の娘でいたかったから……あなたを尊敬しているから、だから私は卒業後は会社を継ぐのだと、そう思って今日まで生きてきました。……けれど、そうじゃない。私は決闘者として、父様の誇りになれるような、そんな人間になりたいんです!」

 ──そうして、漸く口に出せた本心は、言い出してしまったのなら最後、予想外にも酷く饒舌に零れ落ちていた。
 ──ああ、そうだ。すべては、たったそれだけの簡単な話だったのだ。
 それは、父への依存と、一人の決闘者として認められたいのだという、憧れに起因した渇望。それらの願いは共存できるわけもなく、故にこれも父の為なのだと自身に言い聞かせて、私は自らその願いを手折っていた。
 ──けれど、それでは駄目なのだ。……それは、そんなことでは、父様に堂々と肩を並べられる私には、永遠になれないことだろう。
 ──そうだ、結局のところ只の後継者を目指したところで、私は海馬瀬人という人間と同格の存在には、絶対になれはしない。……それでは、生涯、父様の代替品に過ぎないままで終わってしまう。
 父様に全てを打ち明けて、まだ私は上に行くのだとそう宣言して。……父の反応を伺う余裕もなく、よくもそこまで言い切ったものだと、少しばかり自分自身の勢いに放心していると、……向かいのソファーに座る父様が、口を閉ざしたままで静かに、自分の隣のスペースを軽く叩いた。口では何も言わないが、これは、隣に座れと言うサインだ。
 私は父に従いソファから立ち上がると、父様の隣に腰を下ろして座り直す。──すると、父様の片腕が突然、ぐい、と私の頭を抱え込むように腕の中へと引き寄せて、……そのまま私は、乱暴ながら愛の籠った手付きで、父様にぐしゃぐしゃと髪を撫でられていた。

「っ、とうさま!?」
「……いい……実にいいぞ、よ! それでこそオレの娘! 強者たる決闘者の眼差しだ!」
「……父様、それじゃあ、私は……」
「無論、貴様の好きにしろ! リーグに進み、オレを驚かせるほどの決闘者に成長するがいいわ!」
「い、いいの……? 本当に?」
「当然だ! ……オレは確かに、貴様を後継者にするつもりだった。だが、今の貴様には、社長の椅子よりも先に勝ち取るべき、玉座があるだろう。父として、それから決闘者として、オレはそれを応援する。……父親ならば、それも当然のことだろう」
「とうさま……! ありがとう! 大好きよ!」

 私へと向けられる、父様の優しい声と、穏やかなまなざし。──ああ、私は一体、何に怯えていたのだろうなと、そう不思議になってしまうほどに。父様にぎゅうっと強く抱きしめられ、大きな背中を抱き返しながらも、……あの日私は、自分が海馬瀬人の娘で本当に良かった、と。……そう、心から思ったの。
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