065

 ──それは、世界タイトル開幕から、数ヶ月が経過した頃の出来事だった。

「……これは……?」

 週に一度、磯野がチェックした後に私へと渡されている、プロ決闘者、海馬へのファンレターの束に、プレゼントたちも、プロデビュー後から徐々に増えてきた。
 しかし、その日は──、一際目を引く一通の手紙──他のファンレターと比べると、些かシンプルすぎる封筒がひとつ、紛れていたのである。
 父様の秘書業と同時に、私のマネージャーも兼任している磯野。よく働くものだ、と少し心配にもなるが、どうやら現在は、私が海馬家の人間になった日から、私にとっては殆ど世話役や執事のような存在であった磯野を、私のマネージャーとして父様が殆ど貸し出してくれているような状態らしい。
 確かに磯野は私のことをよく知っているし、私も磯野になら安心して全てを任せられるから、正直なところ、かなり助かっている。
 ──しかし、今の私はというと、その磯野の手腕を、生まれて初めて疑っているのだった。
 ──いや、きっと磯野は、今日も完璧な仕事をこなしていたのだろう。決して磯野の確認が甘かったわけではなく、磯野の目を盗んで私にこれを届けた、この手紙の差出人こそが、磯野よりも更に私のことを知りすぎていたからこそ、──故に磯野も、そして私も、こんなにも簡単に混入……或いは侵入を許してしまったのだ。

「……地下デュエルへの招待状、ね……」

 封筒の中には特にメッセージらしいものは入っておらず、その代わりに観覧席のチケットが同封されており、便箋には会場までの簡素な地図が書かれている。
 ──チケットに書かれた招待先はと言うと、……噂くらいは聞いたことがあったが、地下デュエル、というものの舞台のようだ。
 ──地下デュエルと言うそのステージに私を、観客として招待した人間──磯野の目を掻い潜って、この手紙を紛れ込ませた、招待状の贈り主。恐らく私を、誰よりも知っているのであろうその人間の名前を、何度もまじまじと見つめて封筒を確認してみても、──その封筒には筆圧が強めの見慣れた筆跡で、──ヘルカイザー、と、贈り主の名前らしきものが書いてあるだけだった。

 ──一体どうしたら、こうも怪しい招待状などに、好んで呼びだされたりするものだろうか。
 しかしながら、既に建物の前まで来てしまったのだから仕方がない。……そもそも、この招待状を受け取った時点で、私には誘い出される以外の選択肢など、元より無かったのだ。
 地下デュエルは地上のプロリーグとは違い、非合法の世界である。無論、テレビで中継などされている筈もなく、私はこの先の世界を一切見たことがない。存在を伝え聞いたことがあるのみで、何が起こるとも知れないアンダーグラウンドへと足を踏み入れながら、何度か脳内でイメージトレーニングを試みる。
 ……大丈夫、心配せずとも身を護る術ならば、父からしっかりと叩き込まれているし、私には精霊の存在もある。仮にも海馬コーポレーションの息女たる私が、その手の対策を怠っていると思ったら大間違いだ。──だが、自己への過信などは、この場面では隙にしか繋がらないことだろう。
 ──そうして、再び呼吸を整えると、地下で遊び慣れた女を演じ、青いドレスを翻しながら、私は地下への階段を下りるのだった。

「──お嬢さん、隣に座ってもいいかな?」
「……ええ、構わないわ、ミスター」
「こりゃどうも。あなたもヘルカイザーのステージを見に来たのかい? 美しいお嬢さん。」
「あら、お上手なのね、ミスター。……そうなの、そのために遠方から足を運んだのよ」

 地下デュエル場の内部へと降りて、招待状を入り口のボーイへと見せると、妙な仮面を手渡され、身に着けることを促される。何故こんなものを? と、……まあ勿論、幾らかの抵抗はあったが、海馬という人間が地下に接触した、ということは出来れば業務上隠したいことでもあるので、私は大人しくその言葉に従った。
 ……恐らくだがこの場には、私のように素性を隠したい観客が幾らでも居るのだろうと、そう思う。
 そうして、建物の内部へと降りて、適当な席に腰を掛けてドリンクを受け取ると、見知らぬ男に相席を申し込まれたので、その言葉にも適当に頷いておくことにする。変に突っ撥ねたのでは、地下に慣れていない人間だと勘付かれる恐れがあったからだ。
 ──当然ながら、男へと返したその言葉は、まあ、嘘だけれど。相席を訊ねた男は、納得したように話題を繋げてくれたので、この男を騙せたのなら、この場はともかく、それでいい。
 ──男との会話から察するに、今日の試合は地下デュエルでも非常に人気の選手がリングに立つようで、本日のチケットはかなり値が張るらしい。
 ……なるほど、だからわざわざ“ヘルカイザー”を見に来たのか、と。そう、訊ねられた訳かと思いながら、──つまるところ、そんなチケットを用意できるくらいなのだから、私を招待した“ヘルカイザー”という人間は、地下でも相当の権力者──或いはカリスマ性を持った人物なのだろうということも、想像に容易い。
 ……まあ、その程度は事前に私の方でも予想はしていた。そして、私と同じテーブルに着いた男の口ぶりからするに、“ヘルカイザー”という人間は、今日のステージの主役も同然のようだ。

「──おっと、そろそろショーが始まるらしい。残念だ、もう少しあなたと話していたかった」
「あら、それは光栄だわ」
「どうだい、ショーの後で俺と一杯……」

「──これより、本日のメインイベント、デスマッチ・決闘を開始するぜ!」

「……まあ、ぜひとも、また後で話そう」

 ──見知らぬその男からの誘いなど、私の知ったことではなかったけれど、まあ、丁度いいところで邪魔が入ってくれたものだ。
 ──やがて、地下の照明が落ちる頃、檻に見立てた格子の中、そのリング上へとスポットライトが集中する。
 ──そして、司会者の叫び声と共に、赤コーナーに現れたのは、この地下で最強を誇るという、本日の主役。──その男が、遂に姿を現したのだった。

「──赤コーナーから、地下で生まれし怪物、地獄の皇帝! ヘルカイザー亮の登場だぁ!」

 ──そうして、黒いコートを翻しながら闘技場へと現れた、招待状の贈り主は、──観客席をちらり、と横目で見る。……恐らくは、観客の中に私の姿を、探していたのだろう。
 ──瞬間、ほんの一瞬でも永遠のように長い時間、──“ヘルカイザー亮”と私の視線が、交差していた。その瞳は、まるで今までに一度も見たことがないような色をしていたけれど。……私はと言うと、昔から彼の、……亮の眼には、あの色が潜んでいたような、そんな気がしてしまっていたのだ。

 ──亮と連絡のひとつも取れなくなっていたのは、凡そ二週間ほどの期間だった、だろうか。
 ──世界タイトルの試合にて、亮はエドに負けて、プロ入りして初めての黒星を付けられた。
 一方で私の方はと言うと、トーナメントの決勝までは辿り着けずに、数回戦で敗退したとはいえ、それなりの試合数を勝ち進んでいたがために、……同じタイミングでプロになった私と亮には、世界タイトル後に、大きな差が出来てしまったのだ。
 その間も亮は、連敗のスランプへと陥ってしまい、公式戦の回数が減っていく亮に対して、公式戦でも好調に勝ち星を稼ぎ、雑誌の取材に握手会なども増え、プロとして名が売れてきた私。
 ──こんなことは、今まで一度もなくて、これが初めてだった。亮と私との間に明確な差が生じて、──そのせいで、亮に声を掛けることを、いちいち躊躇うようになったのは、私にとっても初めての経験だったのだ。
 それでも、私も最初の頃は、デッキ調整後の練習相手として、頻繁に亮と決闘をしたりしていたのだけれど、──スランプからか、私相手にも凡ミスのストレート負けを繰り返す亮に、私自身が苛立ちと心配を隠しきれずに接してしまっていたし、……亮のほうはと言えば、私以上に葛藤していたことだろう。

「──ねえ、本当にどうしちゃったの……? 私がリバースカードを伏せているのは、分かってたでしょ……?」
「……っ、すまない、……俺は……」
「それに、私のデッキ内容だってほとんど知ってる筈じゃない。……ねえ、答えてよ、亮……」
「すまん、……俺は本当に、一体、何をして……」

 ──何度も何度も、私との決闘でさえも、代わり映えのない理由で負けを繰り返す亮に、──私は、いつのまにか、練習相手を申し出ることさえも躊躇われるようになってしまって。
 ……全力で叩き潰すことで、亮をどうにか奮い立てようと、積極的に亮から勝ちを奪いに行く私には、何度やっても亮は勝てなくて。……やがて、私は遂に、どうすればいいのかが、分からなくなってしまった。
 デュエルが駄目だとして、それなら、気晴らしに出かけましょう、なんて誘ったところで、互いが何よりも決闘を愛していると知っている以上、そんなことが亮の気晴らしになるとは思えなかったし、……それに、もしも私が決闘者としての心を、折られかけてしまったなら、一番傍に居てほしくないのは、亮ではないだろうかと、……あるときに、私は気付いてしまったのだ。
 ──無論、もしも亮が、戦えなくなった私を、支えようとしてくれたなら、きっとそれほど嬉しいことは無いと思う。……けれど、彼のその優しさに一度でも甘えてしまったら、……きっと、私はもう二度と立ち上がれなくなる筈だ。
 そうなれば、心も、牙も、すべてを完全にへし折られて、私は亮に護られるだけの、つまらない女になってしまうのだろうな、と。──そう、思った時から、私は本当に、亮に声を掛けられなくなってしまったのだ。
 ──だって、亮は私にとってそんな相手などに、私に庇われるだけの存在に成り下がることを望まないだろうと、そう思ったから。

 ──彼と恋人になってからも、ずっと、私が亮へと素直に好意を伝えられたことの方が、少なかったかもしれない。
 けれど、紛れもなく、私は亮を他の誰よりも愛しているし、──そう、思うからこそ、亮には決闘者でいてほしい。
 だって私たちは、互いに決闘者であったからこそ出会えて、共に戦いのロードを走り続けてきたのだ。……だから、亮にはこれからも、私の愛した、決闘者の亮として戦い続けていてほしい、と。……そう、私は思った。

 そうして、亮とて、一気に売れっ子決闘者になった私には声を掛けにくかったりだとか、或いは彼にもプライドがあったりしたのだろうと、そう思う。
 いつの間にか、私たちは顔を合わせる回数さえ減ってしまい、亮から貰った合鍵も、ここ最近はただの鉄くずに成り果てていた。
 それでも、リーグ本部や試合会場で顔を合わせれば、会話はあったし、調子も確認できたけれど。
 ──ある時から亮は、マイナーリーグどころか公式戦の舞台から一切の姿を消してしまったのだ。──それが、今から二週間前の出来事。……その間に私は何度も彼に連絡しようとしたし、……我慢しきれずに一度は亮の自宅まで訪ねたこともある。……けれど亮は、そこにはいなかった。

 だから、この二週間は完全に亮は私の前から姿を消してしまっていて、私はその間も一人、プロリーグの舞台で戦ってきた。
 ──亮が姿を消したことで、私と亮との関係性に勘付いていたマスコミに追い回された日もあったし、共に仕事をこなしているうちにすっかり顔見知りになり、化けの皮も剥がれたエドからは、挑発的な言葉を投げ掛けられた日もあった。
 ──けれど、それでも私は戦い続けてきたのだ。亮が今どこに居ようと、このステージから姿を消そうと、亮のライバルである私がここで勝ち続ける限り、亮は、私が認めた最強の決闘者であることには変わりがないのだ、と。
 ……そう、自分に、言い聞かせて。ただ、負けるわけにはいかない、と。意地と矜持で勝利への執念を滾らせて、私は日々を過ごしていた。

 ──そして、それだけ私を悩ませた亮が、今、目の前にいる。
 ぎらぎらとした欲望が渦巻くこの地下の、薄汚れたステージで、力を振りかざして戦っているのは、……紛れもなく、私が誰よりも欲していた男だった。

「──これで終わりだ! 消え失せろ! サイバー・エンドでプレイヤーにダイレクトアタック!」

 ──まるで、対戦相手を嘲るように酷薄な笑みを湛え、相手のリバースカードを叩き割って、相手のフィールドを丸裸にして、モンスターを墓地から引きずり出して、──そして、容赦なく蹂躙し、捕食する。
 それは、相手を甚振るように、嬲るように。只、ひたすら、相手を敗北と言う絶望へと突き落すために。……只、勝利を奪い取るためだけに。
 それだけを追い求める、今の亮の決闘からは、かつての彼が掲げていた、リスペクトデュエル、という思想などはその何処にも見つけられそうになかった。
 ──只、今の亮は勝利を欲している。……ぎらぎらと乱暴な衝動を振りかざし、相手を踏み躙り、矜持もろともに破壊する。

「──勝者! 赤コーナー、ヘルカイザー亮! これで20連勝だーッ!」

 ──観客席からその姿を見ていて、私は思ったのだ。
 ……今ようやく、私と亮のピースが、完全に噛み合ったような気がする、と。

「……試合は終わりだ。、行くぞ」
「亮、ちょっと、待っ……」

 どうやら、決闘の勝者のみが生きてリングの外へと出ることを許される、というのが地下のシステムらしい。
 檻の外に出された勝者──亮は、ブーツの靴底を鳴らしながら、そのまま観客席の私の元までまっすぐに歩み寄り、私を手を取ると、有無を言わさずに歩き出した。それを見ていた相席の男が、何やら下卑た声を投げてきたのが聞こえたような気がしたものの、そんなことはどうでもいい。
 ──亮が、此処にいる。私の手を、握っている。
 外を歩くには幾らか肌寒いような薄手のドレスでここまで来たから、防寒用に持ってきていたストールを羽織る時間さえも私に与えてくれなかった亮は、私の知っている亮ではないように思えてならなかったけれど、……それでも、彼の歩みは確かに私の歩調を覚えていて、更には、私が普段とは違うピンヒールを履いているからなのか、普段よりもゆったりとした歩調で歩いてくれる亮は、……間違いなく、私の知っている丸藤亮だった。

 関係者ゲートらしき裏口を抜けて階段を上り、会場から地上に出て、道の入り組んだスラム街の街並みを、私の手を引きながら、亮は慣れた様子で歩いている。……亮が何処に向かっているのかは分からなかったけれど、私にとって、そんなことは最早どうでもよかった。
 ──久方ぶりに顔を合わせてからというもの、人気のない道をふたりで歩く現在も、最初の一言以降は、一切の会話もない。
 ──それでも、亮は其処にいて、私よりもずっと大きな彼の手で、私の手を握っている。
 黙り込んだままですり、と私に指先を絡める亮に応えるように、私もまた無言のままで指先を摺り寄せて、──そうして、また少し歩いて行った先に、亮の先導が無ければ廃屋に見間違えてしまいそうな、小さなホテルがあった。
 躊躇いもなくその建物に入っていく亮に手を引かれるまま、私はその一室へと連れ込まれる。──中に入り、部屋を見渡してみると、少しばかり亮の私物が置いてあったので、恐らくこの部屋が、現在、亮の地下での拠点なのだろう。
 地下デュエル場は童実野町の中心部からは、大分外れている。……亮に会いに行っても自宅に居なかったのは、どうやら、そういうことだったらしい。

「……失望、したか?」
「……は?」

 ──そうして、見慣れないその場所に、思わず私が室内をきょろきょろと見渡していると、部屋に備え付けられた安っぽいカップに注がれた熱いインスタントコーヒーを私へと手渡す亮から、唐突に、そう問いかけられる。
 ──それに対して私は思わず、間の抜けた返事をしてしまった。──それほどに、亮の言わんとしていることが、私には理解出来なかったのだ。

「もう分かっているとは思うが……今の俺は、地下で争うならず者だ。……既に、お前と共に過ごした、俺ではあるまい」
「……まあ、そうね、私の知っている亮じゃなかったわ。……私の知ってる亮は、あんなに魅力的な決闘をしないもの」
「……何?」
「だから今まで、私達はライバルであって、気の合う間柄なんかじゃなかったんじゃない。……本当に馬鹿ね、あなたって」

 亮が何を気に病んでいるのかは知らないが、地下での亮の決闘を見て、私が感じたことと言えば、全くもって、只のそれだけだった。
 ──きっと、亮なりに散々葛藤して、私を地下デュエルに招待することにしたのだろう。……その確信はまあ、すぐには持てなかったけれど、亮から向けられた唐突な、……それでいて弱気な言葉で、ようやく確信できた。

 私の知る、丸藤亮という男は、私にとって親友で、恋人で、ライバルで。私に必要なすべてを埋めてくれる、私にとってたった一人の人間。
 ──但し、そうも親密に彼と過ごしながらも、私と亮が似ている、と感じたことは、今までに一度たりともなかったのだ。
 私と亮とは、寧ろ、相反する性格をしているな、とさえ思っていた。
 優等生で、それは間違っている、という拒絶さえ抱かなければ他者を決して否定はしない亮と、強者であれ、勝者であれと教えられ、そもそも何事も従うことを良しとしない、反抗的な姿勢で生きてきた私。
 決闘においてもそれは、私達に明確な価値観の差を生み出していて、相手に敬意を払いながらパーフェクトな決闘が出来ればいい、という亮に対して、勝たなければ意味がない、と考える私との間には、決して埋めようがない、深い溝にも似た差があった。
 ──私との決闘においては勝ち負けを張り合う癖に、それ以外はパーフェクトと称して涼しい顔で当然のように勝ちを収めて、勝利への喜びどころか、あまり感情を動かさない亮に、苛立ちを覚えたことが無かったかと言えば、それは嘘になる。
 そんな彼の信念に反するように、私が父の教えに倣い攻撃的で暴力的、相手を一方的に叩きのめして蹂躙し、勝利を奪い取る決闘をした後は、私の方とて亮に咎められたことは、何度もあるのだ。

 ──決闘に、勝てばいいというわけではない。
 ──決闘には、勝たなければ意味がない。
 その価値観の相違を産んだのは、きっと生まれ育った境遇だろう。
 とはいえ、どちらかの理想を論破すればいいという簡単な話ではない、ということも私達にはわかっていたから、互いに踏み込んではいけない領域だと身を引いて、必要以上には口出しをしなかっただけなのだ。
 決闘者であれば、誰しも自分が信じる決闘のセオリーや美学を掲げている。私は亮が持ち合わせている大半の部分が好きだったし、一緒に居られたならいつだって、それだけで楽しかった。
 ──けれど、勝敗への価値観と言うその一点だけは、私と亮との間でずっと交わらない、この先も交わることはないとさえ思っていた大きな差だったし、私は自分自身が“何があろうともサレンダーだけはしない”と確信しているからこそ、──カミューラとの戦いで、亮が私を庇うことを予想することさえもできなかったのだ。
 積み上げてきた価値観というものは、そう簡単に壊れるものでもない。……ましてや私は、海馬家の人間としてそれを絶対のルールとしてしまっている。……だからきっと、これからもその一点で分かり合えることは無いし、何も無理に分かり合う必要はないはずだ。
 ……私は私で、亮は亮。どれだけ愛し合ったとて、結局互いは他の生き物に過ぎないのだから。それが、この関係性に歪みを生むほどの差ではないのならば、……そんなもの、どうだっていいじゃないか、と。

 けれど、──四年間、そう思って諦めていたものは、今日、唐突に崩壊した。……だから、私にとって地下で得た情報において必要なものは、只のそれだけだったのだ。

「いい決闘だった。まあ、正直に言えば、あれを地上で見たかったけどね。……少し、怖かったのよ? 地下に一人で出向くなんて……治安だって、良くないと聞くし……」
「あ、ああ……すまん、何も問題はなかったか?」
「平気よ、観客に溶け込む準備はちゃんとしてきたし、……だって言うのに、よくまあ、すぐ私に気付いたわね、亮」

 二人掛けのテーブルセットやソファーなんてものが存在しない簡素な部屋で、隣に腰を掛けて座っていたベッドから立ち上がると、古びたスプリングがぎしりと音を立てる。
 そうして、亮の前に立つと、ひらり、とドレスを翻して私はその場で軽く回ってみせた。──トパーズブルーのスワロフスキーが夜空のように散りばめられている青いミニドレスに、平時ならば下ろしている髪もアップにして、先ほどまでは仮面だって着けていた。
 その上、照明だって薄暗くて隣人の顔すらよく見えないようなあの場で、今の私の出で立ちを見て、一瞬でその正体に気付く人間など、いるはずもない、と。……そう、思っていたのにな。

「そうか? リング上からでもすぐに見つけられたがな」
「……なーんだ、残念だわ。……変装が甘かったのかしら?」
「地下を訪れるような女に、そうも気品のある奴はいない。……それに、俺がを見間違う筈が無いだろう」
「……まあ、それもそうね。……でも、ずっと会っていなかったじゃない……だから尚更、見つけられないかも? と思っていたのに」
「馬鹿を言え。……だが、そうだな。……会いたかった、

 正しく完璧な変装だ、と思っていた自信が破られたことに、なんだか急に気恥ずかしくなって、誤魔化すように亮の隣に座り直す私が佇まいを直す間もなく。
 ──突然、私の肩を掴んできた亮は有無を言わさずに、ぎゅうっと痛いくらいに私を抱き締めてくる。些か乱暴で手荒なその振る舞いには、少し前までの亮の私への接し方に見受けられていた、紳士ぶりなどは微塵も見受けられない。
 ──けれど、だからこそ。最高に、気分が良かった。……動物的な衝動で、相手を求めていたのは、……何も、私だけではなかったのだと、そう思えたから。
 すっかり気を良くした私が、上機嫌に亮の背へと腕を回すと、普段の服装と比べて露出の多いミニドレスを纏っていたために、素肌を晒していた首筋へと亮が顔を埋めて、そこに一度キスを落としてから、私の瞳を覗き込むように亮は顔を上げる。
 ──そうして、熱を帯びた声で言葉を紡ぐその眼は、ぎらぎらと欲に濡れた獣の色をしていて、……向けられたそれは、この上なく満ち足りていた。

「……地下に落ちてから、何となくだが、お前を理解できたような気がしたんだ」
「……私を?」
「ああ。……お前が掲げていた、勝つための決闘、というものを、身をもって理解したからな……」
「……そう、だったの」
「まあ、全てが理解できたとは言わん。実際、のそれは俺よりも、洗練されたものだと思う。……だが、勝ちたい、と初めて思った時に、な」
「……うん」
「お前を理解できたような気がして……俺は、興奮した」

 ──その言葉に、なんだかもう、私は堪らなくなって、……少し顔を上げていた亮の頭を、胸に抱きこむように、きつく抱き締めてみる。
 ……何も、互いの全てを分かり合う必要なんてないと思っていたし、相互理解だけが人間関係ではない、と。やはり今でも、私はそう思っている。……けれど、そうか。
 ──自分が愛した男に自身の性を理解されて、今まで以上に深く欲される、ということ。……それは、こんなにも、心を激しく揺さぶられるようなことだったのか、と。──底知れない充足を感じて、思わず心臓は早鐘を打っている。
 亮にも当然、それは聞こえてしまっているのだろうし、私が歓喜していることにも、とっくに気付かれているだろうけれど。……今は、それすらも知ったことではなく、照れ隠しをする気にもなれなかった。動じていないふりをしようだとか、もう、そんなことも、まるで考えられないくらいに、……私は今、高揚の只中にいる。

「……だから心底、に会いたかった。だが、……そうだな、お前に今の俺を否定されたら、俺はどうするだろうか、と考えてしまってな」
「……馬鹿ね、そんなことするわけないじゃない。このままずっと、放っておかれるのかと思ってたわよ……寂しかった」
「すまん……何も、そんなつもりでは……」
「もう、分かってるわよ。……それで?」
「ああ……今度、地上のプロリーグで、俺の公式戦が組まれることが決まってな。……どうせもうじき、お前に会うことになるなら、今すぐにでも会いたい、と思ったんだ」
「亮……」
「……それに、もしもお前が今の俺を軽蔑して、お前に突き放されたとしても、どうせ俺は諦められんとも思っていたからな。ならば、いっそのこと、さっさと全てを見せてしまった方がいい。肯定するも否定するも、一度はっきり示された方が動きやすい、と思ってな。……まあ、正直、この結果には安堵しているが」

 ──私の胸元から再び顔を上げて、私の肩を掴みながらも、真剣なトーンでそう語る亮が見せた、諦められない、という執着は、……かつての亮は、決して持ち合わせていなかった感情だろう。
 昔の亮なら、きっと、私に突き放されたとしても、私の意見を尊重して身を引いていた筈なのだ。
 ──思えば、この男のそういうところが、私は気に入らなかった。
 あまりにも淡白で、本心では私に執着して、他人との距離が近ければ、しっかりと嫉妬はするくせに、それでいて私の気持ちばかりを尊重して、私本意で動こうとする。此方から煽って仕掛けてみたところで、真っ当な理由を付けて窘めてくる。……それは、よく言えば、紳士的だが、悪く言えば、つまらない男だった。
 ……だから、そう。こんな風に亮の腕の中に捕まえられて、束縛し、私の意志などお構いなしに引きずり回してやろうとする今の亮から向けられる態度が、……私には、とても心地良いと感じられるのだ。

「……でも流石に、私のこと放ったらかしすぎよ。ほんっと、信じらんない」
「それは……! その、が急に、有名人になってしまったから、だな……」
「それでも待ってたのよ、私。一度は家にも行ったし……」
「何……!? そう、か……そうだったのか……」
「ほんっと、馬鹿なんだから。……探していたし、……待っていたのに」
「……だが、最近はエドと仲が良いようだったな」
「はぁ……?」
「それに地下でも、相席の男に馴れ馴れしくされていただろう、控室のモニターから見えて……」
「あのねえ……ばっかじゃないの? ……あなたって、嫉妬範囲が広すぎなのよ。……まあ、もう慣れたけれ、どっ!」
「っ!?」

 私の肩を掴んでいる亮の胸を、体重をかけて強く押せば、拘束されたも同然の私の身体ごと、亮はベッドに倒れ込む。
 安宿の古びたパイプベッドはその衝撃でぎしぎしと強く軋んで、──突然、私に押し倒されて、無遠慮に腹の上へと乗られた亮は、不意を打たれて幾らか驚いたように目を見開いて、私を見上げていた。……それでも、今やその目には、薄らと期待が、滲んでいるものだから、……本当、それでこそ私の終生のライバルだわ。

「……言わなきゃわからないなら、言ってあげるわ。私には亮だけだし、亮しか欲しくない。……コソコソと嫉妬してる暇があるなら、早く迎えに、きなさいよ、全く……」
「そう……だな、もう二度と、お前の前から姿は消さんと約束する。みすみすを、誰かに渡したいとは思わんからな」
「……絶対よ、破ったら許さない、殺してやるから……」
「ああ、約束しよう」
「うん……ねえ、亮?」
「ああ、何だ?」
「……おかえり、会いたかった」
「……ああ、ただいま、


「──そういえば、地下ってダメージ体感式の決闘なのね、初めて見たわ」
「ああ、知っているのか?」
「いえ、噂に聞いたことがあるだけよ。きっと、闇のデュエルから着想を得たのでしょうね……この装置から衝撃波が出るのよね? どんな感じ? 闇のデュエルに似てるの?」
「いや……闇のデュエルで得るような苦痛ではなく、これは電流による純粋な痛みだな。……あまりそれに触るなよ、怪我をする」
「……でも少し、面白そうよね。決闘が盛り上がりそうだし、エンタメ向きで……ねえ? 亮? これを使って、私と……」
「絶対に駄目だ、お前には触らせん」
「なによ……ほんっと、堅物ね……」
「……ふ、残念だが、それは生まれつきだ」 inserted by FC2 system

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