066

 地下街で生活するようになってから、二週間と少し。──今朝は、久々にすこぶる目覚めが良かった。

「──あら、起きたの? おはよう、珈琲飲む?」
「……ああ、頼む」
「ちょっと待ってね。……あ、そうだ。このホテル、備え付けの部屋着とかないみたいだったから、悪いけど亮の荷物から勝手に着替え借りたから」
「構わん。そんなものが置いてあるほど上等な宿ではないからな」
「まあ、言われてみればそれもそうね……」

 ──昨日、俺が数日前に出した招待状を受け取り、が地下デュエル場を訪れて、──それで、俺の試合を彼女に見てもらった後で、地下での拠点にしている安宿にを連れ込み、彼女と話をして、──俺が望んでいた通りの言葉をくれたに、俺は心の底から安堵して、──それで、昨夜は積もる話も多かったから、もそのままこの部屋に泊まっていったのだった。
 久々に再会したことで昨夜は何かと盛り上がり、狭いシングルベッドにぎゅうぎゅうで密着して眠ったから、恐らくはも疲れているとは思うのだが、──俺が起きる頃にははとっくに起き出していて、俺の荷物から引っ張り出したのであろう黒いハイネックを一枚だけ、丈の短いワンピースのように身に纏った格好で、彼女は洗い場で現在、電気ケトルに水を入れている。
 ──やがて、電気ケトルがカタカタと音を立て、インスタントコーヒーの安っぽい香りが狭い室内に揺れる頃、簡素なコップをふたつ持ったは片方を俺に手渡して、ぎしりとスプリングの軋むベッドで俺の隣へと腰を下ろすと、優雅に足を組んでコップに口を付けるのだった。

「──亮、身体は平気?」
「……ああ、お前は?」
「私は平気よ、こう見えて鍛えているから」
「そうか。……お前が頑丈だと、俺としても助かるな」
「そうでしょ? 良かったわね」
「ああ」

 ──の零したその言葉は恐らく、俺の方がに掛けてやるべきで、──そもそも、今朝に関しては俺の方が先に起きて労わってやるべきだったのだろうと、そう思う。……実際、以前の俺ならばそのように気を回していたことだろう。
 記憶が正しければ、昨夜、俺が無造作に床へと放り投げた靴や衣服も、俺が起き出した頃にはすべて綺麗に片付いており、俺のコートとのドレスはハンガーに掛けられて、ブーツとハイヒールも部屋の隅に並べられていた。

「──そうだ、あんまり期待は出来ないけど……」
「どうした?」
「このホテル、クリーニングのサービスはある?」
「あるには、あるが……」
「あ、ほんと? だったら、ドレスを頼みたいのだけれど、大丈夫?」
「……やめた方が良いんじゃないか? 安物ならまだしも……無事に戻ってくる保証はないぞ」
「ねえ……地下街って、其処まで治安が悪いの……?」
「俺は今のところ戻ってきているが……お前のドレスは、高価なものだろう? 少し危ないかもな」
「あのねえ……それが分かってるなら、どうして床に投げたのよ!? 皴になるのは分かってたでしょ!? 私、着替えなんて持って来てないのよ!」
「すまん、無我夢中だった。……そうだな、アイロンを借りられるか、後でフロントに聞いてくる」
「そうして。何が何でも借りてきてね」
「……ああ……」

 せっかくのドレスが皴になった、と隣では怒っているが、──しかし、それ以外のお咎めは無いのだなと、曝け出された白い足に残る鬱血痕を眺めながら、ぼんやりと俺は思う。
 きっと、──俺は彼女から、──本当に、心を許されているのだろう。
 そして、それと同時に、──もまた俺と同じように、俺を壊してみたいと思っていたらしいと、──俺は、昨夜にそう思い知った。
 思えば彼女がやたらと挑発的だったのは、そういうことだったのだろう。何も好奇心だとか揶揄いが目的だったのではなく、──俺の隣にいる理由なら幾らでも欲しいと以前にがそう言ってくれたのと同じように、──俺と競い合って喧嘩する方法だって、幾らでも欲しいと彼女は恐らく、そう思っていたのだ。
 ──どうやらこれは、俺が一人で色々と考え過ぎて、そんなにも簡単なことにさえも思い至れずに居たという、それだけの話だったらしい。
 
「……ところで、昨夜は気付かなかったけれど、亮……」
「どうした?」
「……あなた、なんだか傷が多くない? 前からじゃなかったわよね?」
「ああ……地下に来てからだな」
「……此処、注射痕?」
「……そうだ」
「ねえ……もしかしなくても、これって……」
「……ああ、お前の考えている通りだろう」
「……そう、地下街では、そんなものまで流通しているのね……」

 下は履いていたが上は昨夜に衣服を脱ぎ捨てたままだったので、太陽の日差しが差し込む室内では、俺の左腕のあちこちに残る注射痕の存在に気付いたらしい。
 ──明らかに、真っ当な医師が打ったようには見えない乱雑な傷跡を見初めて、は幾らか険しい顔をしながら俺の腕をひと撫でして、「……痛む?」と、──そう、どこか悲しげな声色で俺に問いかけてくる。
 ──その表情には、決闘の最中や昨夜に見せていた加虐的な笑みは、何処にも見当たらなかった。

「……いや、見た目ほどではない。打たれた瞬間も高揚感が勝って、痛みは感じなかったな」
「そう……これは、地下の選手は皆やってることなの?」
「ああ。……地下デュエルは見世物的な要素が強い。選手が興奮して我を失っていればいるほど、客が盛り上がるのだろう」
「……なんだか、気に入らないわね」
「気に入らない?」
「だって、私の所有物で勝手に遊んでたやつらが居るってことでしょ。……ムカつくわね、いずれ絶対に、密売の流通ルートを潰してやるわ……」

 非合法の渦巻く地下街では、──違法薬物のドーピングなども平気で横行しており、寧ろ、地下デュエル場ではこれを積極的に推進している。
 薬物の乱用など、普通に考えれば錯乱してデュエルの戦術が稚拙になるだけなのだが、──それでも、観客は何も“上手なデュエル”を見に来ているわけではなく、そんな目的ならば地上のプロリーグを見に行っていることだろう。
 ──地上では満たせない需要の為に地下を訪れる客たちは、要するに派手に負けてズタズタに傷付く様が見たいだけなのだ。
 ──そのためならば、薬物の使用も黙認され、むしろ積極的に推奨される。俺も何度か打たれたが、──まあ、期待したほどの効果は得られなかったかもしれない。幾らかの興奮はあったが、それでも、……それは、との決闘に勝るほどの高揚ではなかったからな。

「こっちの傷は……もしかして、あの装置?」
「ああ。……衣服の上から着けたところで、毎回同じ箇所に装着するからな、傷は残る」
「……火傷跡?」
「この程度で済んでいるんだ、俺はマシな方だろう」
「……ふうん……」
「……これも、気に入らないか?」
「まあ、ね……だってあなただって、私が他の人間に傷を付けられたら腹は立つでしょう?」
「……それは、想像しただけで不愉快だな」
「そういうことよ。……まあ、怪我人を責めたりはしないけれど……少なくとも、注射はやめて。後遺症が残ったらどうするの? あなたは私の物だってちゃんと自覚してよね」
「……そうだな、肝に銘じておく」

 注射痕をそうっとなぞっていた白い指先が、上腕にぐるりと残る火傷跡を撫でる手付きが、──今ではその指の甘さを知ってしまったからなのか、……やけに、くすぐったく感じる。
 ──かと思えば、絞首跡のように一際色濃く残る首周りの火傷跡へと指を伸ばしたは、──俺の膝の上に跨る形で身を乗り出して、──そうして、ぞっとするほど冷たい眼で此方を射るものだから、──その目付きに俺は酷く興奮して、……しかし、は瞳孔の開いた眼と視線がかち合ったことで、説教としては逆効果だと気付いたのか、小さく溜息を漏らしてから、俺の膝の上から退いてしまった。

「……そうも気になるなら、お前が上から傷を付け直してくれたらいい」
「冗談言わないで、死にたいの?」
「黙って殺されてやるように見えるか?」
「見えない。……それより、そろそろフロントに行ってアイロンを借りてきてくれない? 私、外に出られるような格好じゃないの分かってるでしょ?」
「……つまり、アイロンさえ借りて来なければ、お前は一生、此処から出られなくなるのか……」
「……亮、なんだか今日、悪い冗談が多くない?」
「そうか? ……案外、冗談でもないかもしれんぞ」
「もー、分かったから。早く行って来てちょうだい。……地下街にもカフェくらいはあるでしょ? 誰かさんのせいでお腹空いてるの、着替えて食事に行きたいのよ」
「注文の多い奴だな……仕方ない、少し待っていろ」
「ええ、早く戻ってきてね」

 地下デュエルにてヘルカイザーと呼ばれ、畏怖と敬遠を受けるようになった今の俺に、──こんな風に横柄に、わがまま放題で振舞えるのは、きっとだけだろう。……そして、そんな振る舞いを俺が許すのも、だけなのだ。
 ──だが、最早、俺には何も紳士的にの要望を全て叶えてやろうなどという気もなく、──20分ほど部屋を開けた後に、アイロンは持たずにパン屋の袋を抱えて帰った俺に、は当然ながら「話が違うし、戻ってくるのが遅いのよ!」とそう言って怒ったが、文句を言いながらも、──もう少し此処にいて欲しいのだと、二人きりの時間がまだ足りないのだと言う俺の意図は彼女にも伝わったようで、──どうやら、まだしばらくはこの部屋に居てくれる気になったらしい。
 しかし、も今日は仕事がオフだと言っていたが、売れっ子の彼女は明日もそうは行かないことだろう。──だが、既にこの様では今夜の俺は果たして、本当に大人しくを家に帰してやれるのだろうかと言えば、……それも、甚だ疑問だな。


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