163

「……あれっ? さん、今日も来てないのか?」
「ちょっと、アニキ!」
「……いい、気にするな、翔」
「はは……きっとも、大変なんだろう。エドくんも異世界から戻って忙しそうだしね、プロって大変だなあ」
「そうなのかな。……でも、さんならカイザーを優先しそうなもんだけどな」
「……そうかもな」

 ボク達が異世界から戻った、その少し後のこと。
 ──兄さんが、こちらの世界で無事に発見された。
 緊急手術で一命を取り留めて、難航しながらもなんとか治療が続けられている兄さんに、さんが会いに来たのは、最初の手術の日。……その、たった一度きりのことだった。

 兄さんの手術が終わるまで、さんは、ボクと一緒にずっとずっと、手術中のランプが灯る部屋の前に座って、兄さんのことを待っていてくれて、──その横顔は、終始不安に満ちていたし、恐怖に取り憑かれているようにさえも、ボクには見えていた。
 異世界から帰ってからというもの、仕事だって忙しかったのだろう、──何だか、ボクの見知ったさんより、随分と痩せてしまった気がするし、顔色だって、今日さんがアカデミアに着いたときから──いや、プロリーグの中継、モニターの向こうに彼女の姿を見ていた頃から、ずっと悪かった筈だ。
 ……強引にスケジュールの都合を付けて、今日ここに来てくれたことさえ、どんなに苦労したんだろう。
 海馬コーポレーションの自家用ジェットで文字通り飛んできたさんは、手荷物一式をマネージャーに付き渡すと、ヘリポートから全力疾走で手術室まで走って来てくれた。リーグでの仕事着のまま、肩で息をしながら、赤く点灯した手術室のランプを見て、……鮎川先生と校長先生から状況の説明を受けるその間、──さんは、ずっとずっと、泣いていたのだ。
 
 そうして暫くしてから、ボクの隣にへたり込んでしまっても、さんは弱々しく必死で笑って、どうにかボクを、勇気づけようとしてくれたのだろうと思う。
 ──絶対に、大丈夫だから、と。……ボクと、それから自分自身に言い聞かせるように彼女は繰り返して、それでも涙声を隠しきれていないさんの姿を見たときに、……ボクにはようやく、彼女のことを理解できたような気がしたんだ。
 ──羨望の眼差しを一身に受けて、気丈で強かに振る舞う決闘者である、さんというひとも、……本当はこんなにも、ボクと同じ人間なのだ、と。
 彼女は弱さだって人並みにある、普通の女の人で、……兄さんがこの人を好きになった気持ちが、ボクにも少しだけ分かったような気がした。……そして、あのときにボクと一緒に兄さんを案じてくれた人が、さんで、本当によかった、と。……そう、思ったのだ。

 ──さんが異世界から戻ったのは、ボクたちの帰還よりも少し後のことだった。
 彼女は発見された際、大怪我をしていた上に大分消耗しきっていて、暫くの間は保健室での生活を余儀なくされたものの、やがて意識の戻ったさんは、アカデミアで養生した後に、──本土、プロリーグへと帰って行った。
 医務室にいた数日間は、ボクも何度かさんのお見舞いに行ったけれど、さんはボクたち後輩の前では終始気丈に振る舞っていて、……だからあまりボクたちが押しかけては、彼女も気が休まらないんじゃないかとそう思って、基本的には吹雪さんが代表でさんの元を訪ねていた。
 その後、まだ療養していた方が良いという鮎川先生の反対を押し切って、これ以上寝込んでは居られないと言いながら、さんはアカデミアを去った。
 そうして、当然のような顔をしてリーグに復帰して、モニターの向こうで戦うさんのことを最初に見たときは、やっぱり彼女は強いひとなんだと思ったような、……そんな気がするけれど。
 ──でも、モニターの向こうのさんが、日に日にやつれてしまっているような気はしていたから、ボクも心配になってプロリーグのエドから様子を聞き出そうとしていたのだけれど、──手術室の前で対面したときには、ボクのその不安は正しかったのだと確信したし、さんは決して、いつだって強い訳じゃないことにも、……ボクはその日、ようやく気が付いたのだった。

 ──無事に手術を終えて目を覚ました兄さんは、傍にさんが居ることに気付いたとき、一瞬取り乱していたけれど、さんの無事が確認できて本当に嬉しかったみたいだった。
 異世界で兄さんが力尽きる直前、──さんはユベルによって連れ去られて、それきり二人は会うことも叶わずに、消えてしまった。
 僕はその後、さんがどうなったかを知っていたけれど、──兄さんは、さんが生きているかも分からない絶望の中で死んでいったのだから、──さんの姿を見つけたときには本当に安心したんだろうな、嬉しかったんだろうなと、ボクにだってそれはよく分かる。
 
 ──でも、そんな悲痛な別離があったことを知っているからこそ、目が覚めた兄さんとさんのことを、少し二人きりにしてあげようと、気を利かせたつもりで少し席を外したボクと吹雪さんの行動は、──どうやら、二人にとって逆効果だったらしい。
 兄さんがさんに何を言ったのか、詳細には聞かされていないけれど、──どうやら、兄さんは悪気なくさんに酷いことを言って傷付けてしまったようで、さんは泣きながら病室を出て行ってしまったのだ。
 ……そのあとで、慌てて吹雪さんが追いかけて行ったから、少し落ち着いたら病室に戻って来てくれるかな、と淡い期待を抱いていたけれど、……結局、ボクがモニター越しのプロ決闘者としてではなく、一人の人間として振る舞うさんの姿を見たのは、その日が最後になってしまっていた。

「兄さん……」
「……なんだ? 翔。」
「兄さん、いいの? さんのこと、本当にこのままで……」
「……あると思うか?」
「え?」
「思えば俺は、何度、あいつを置き去りにしてきたのだろうな……なぁ、翔、を引き留める資格が、……そんな俺にあると、お前は本当にそう思うのか?」

 そう言って寂しそうに、自嘲するように目を細める兄さんは、……決して本心でそう思っているとは、……兄さんがさんとのことを諦められるようには、到底思えなかった。
 ──ねぇ兄さん、本当にこのままでいいのかな。……彼だって、さん、泣いてたんだよ。医者の前で、教師の前で、後輩の前で。人前で絶対に泣いたりしなさそうな、あのひとが。……兄さんのために、泣いていたんだ。……まるで小さい子供みたいに、悲痛な声でわんわんと、泣いていたんだよ。


「──磯野、例のものを頼むわね。……それと、先方と連絡は?」
「はっ! 先方もすぐに此方に到着するとのことです。……しかし、様」
「なにかしら?」
「本当に、よろしいのですか? ……瀬人様に一度、ご相談なさるべきでは……」
「ばかねぇ、それじゃ意味が無いのよ。……大丈夫、この先一生タダ働きになったら、流石にその時は父様に、衣食住くらいは頼るから」
「……っ、様……! 私は、私は……っ!」
「やだ、何泣いてるのよ? ……全くもう、磯野ったら、心配性なんだから……」

 ──久々に訪れた、デュエルアカデミア、そのヘリポート。
 ──海馬コーポレーション、というよりは私個人のものである自家用ジェット機から降り立ち、私はとある人物を待っていた。
 本当は、一刻も早くあいつを口説き落とすために、すぐにでも走り出してしまいたかったけれど、その場で少し待機して、目当ての人物と落ち合うと、彼と合流してからまず私は医務室へと向かうのだった。

「──鮎川先生、海馬です。お久しぶりです」
「まあ、ちゃん!? どうしちゃったのかと思ってたのよ、そう、亮くんが実は……」
「先生、その前にこちらの方を紹介します。……そのあとで、亮の容態を教えてください」
「……そちらは?」
「紹介します、こちらは──……」

 ──鮎川先生には状況を手短に説明して、磯野にその場を任せると私は一旦その場を離れて、亮の病室まで走る。
 ──途中で声を掛けてきた後輩たちとの会話も簡単に打ち切って、ひたすら目的の部屋まで、一直線に走って、──やがて、視界に入ったその部屋の扉に手を掛けると、……下手に心の準備なんてしていては一生開けられないような気がしたから、勢い任せに思いきり無遠慮に開け放つ。
 ──すると、その瞬間、ベッドの上で沈んだ表情をしていた亮と、目が合って。……私を見初めた途端にその目が丸く見開かれたのが、少し離れた位置からでもよく分かった。

「……まさか、……なぜ、此処に……」
「何故も何もないわよ、帰ってきちゃ悪いの? 私は亮を毎回待っていたって言うのに?」
「い、いや、何もそういう意味では……」

 どん、と手に持っていたアタッシュケースを床に置くと、亮が居るベッドの縁へと私は腰掛ける。
 未だ私の登場に動揺しているらしく落ち着かない様子の亮は、私の姿を確かめるように、……じっ、と。静かにこちらを見つめていた。……存在を確かめるかのように輪郭をなぞるその視線を受けていると、どうにも居心地が悪くて、次第に此方も耐えかねて、──本題を切り出す前に歯切れの悪いその言葉だけは追及しておこうと、息を整えながらも私は亮に向かって尋ねるのだった。

「……何よ? 何がおかしいの?」
「……もう、お前は俺の前には現れないだろうと、思っていた」
「……はぁ……? 何考えてるわけ……?」
「……流石に、先日は俺に非があった。俺は本当に、の存在を軽んじているつもりは無かったんだ……だが、目が覚めたばかりで状況が読み込めていなかった。……お前の顔色だとか、窶れていることだとか……それらに気付いたのは、を怒らせてしまった後でな……」
「……ふうん、一応それは分かった訳ね……それで?」
「俺は、自分の行動を後悔してはいない。……だが、俺が死ぬことでお前がどうなるのか……はっきりと理解できてはいなかったのだろう。だから……流石に今度こそ、愛想を尽かされたのだろう、と……」

 ……そんな弱気な言葉、今の亮から聞きたくなかった。まるで学生の頃みたいに、私の意見ばかり尊重して、下手に紳士ぶって。亮のそんな態度、二度と見たくなかった。
 私は亮に、もっと執着されたい。私の自由なんて考えてくれない身勝手な亮から、私は、力業だけで自由を奪ってしまいたい、奪い合いたいという只のそれだけなのに。
 ──だと言うのに、私だけが優位、優先、なんて。……そんなもの、私は欲しくないから、この分からず屋にこのまま覆いかぶさって、嫌と言うほど理解させてやろうかとも思ったけれど、仮にも相手は病人なのだ。
 ……どうにか、自身の微かな良心で怒りを押し殺しながら、掻き消しきれなかった衝動で、少しだけ身を起こしていた亮の入院着の襟元をぐい、と引き寄せる。

「あなたって本当に、周りが見えているようで全然見えてない……もう少し人の気持ちを考えなさい、デリカシーがなさすぎるのよ、本当に無神経だし、言葉が強いし足りないし、それに……」
「待て、……言いたいことは分かるが、少し落ち付け……」
「それに、……私に甘えすぎ。……ばかねえ、愛想が尽きるくらいで捨てられるなら、もっと昔に、あなたなんて捨てて他に乗り換えてるわよ……っ、この、ばか……っ」

 ぎり、と亮の襟首を握りしめて、奥歯を噛み締めても、目頭が熱くて熱くて仕方がない。やがては亮を叱り付けながらも、ぼろぼろと泣けてきてしまって、そのまま私は上手く言葉を繋げられなくなってしまう。
 私が泣き出したことで更に慌てはじめた亮は、ぎょっとした様子で、おろおろと迷った挙句に、……握り締めた私の手を、随分と血色の悪くなった自分の手で、襟元から外した。
 ……そして、ぎゅっと静かに手を握られてしまえば最後、……亮のせいであんなに怒って泣いていたって言うのに、私はあっさりと気を良くしてしまうのだから、……本当に、馬鹿みたいね。

「この間、亮に言われたこと……本土に、戻ってから色々と考えたの……」
「……ああ」
「……あなた、どうしてもデッキもデュエルも捨てられない、そうよね?」
「……ああ、すまんが、それだけは……」
「だったら、……あなたは好きにすればいい。私も自分の好きにする……あなたがデュエルを続けながら、私の傍で生きる道を、私が作るわ」
「……?」
「要するに、あなたの身体がデュエルに……デッキに耐えられるようになればいいのよ。それが不治の病だと、一体誰が決めたの? 現にあなたは、異世界から生還できているじゃない」
「いや、しかしだな……」
「素人は黙りなさい。……医者を、連れてきたわ。……多少、法外な額ではあるけど、十分に私一人で払える額よ。……それに、腕は確かな人。……亮、再手術を受けてほしいの。そうすればあなたは絶対に、死なない。デッキと心中してやろうなんてあなたの気持ち、私は知らないわ。……あなたの人生、デッキが総取りだなんてそんなの許さない、……お願いだから、何としてでも、この先も私の傍にいてよ……ちゃんと、あなたのライバルとして相応しい決闘者になるから……」

 ──私が紡いだその言葉に、亮の瞳が今度こそ、驚きに満ち溢れるのが分かった。
 ヘリポートで合流し、今頃は医務室で、鮎川先生から亮の状態を詳しく聞いているのであろう、その人は。……社交界や裏社会でも、良く名の通った名医だった。
 どうしても死にたくなければ、彼を雇え、と。そう、噂に名高い評判を聞くあの医師は、財界、政治界でも支持されている人物で、……それだけの人間だからこそ、助ける命を選ぶ余裕が、あちらにはあるのだろう。
 ──幼い頃、何度か彼をパーティー会場で姿を見かけたことがあったから、彼の存在、容姿に名前も、私は知っていた。──亮の手術後、口論になって病室を飛び出した矢先にその存在を思い出したことで、どんな手を使ってでも亮を黙らせてやるつもりで、本島へと飛び帰ってから私は急いで医師に連絡を付け、亮のことを相談したのだった。
 ……結論として、助けることは可能だろう、と医師は言った。ただし報酬は安くない、とも。
 ──普段からその程度の額でやっているに過ぎないのか、私が海馬コーポレーションの令嬢で、プロ決闘者であるからこそ足元を見て、その額を吹っかけたのか、……その判断は、私には出来ない。
 ──ただし、それは、ギリギリ私にも払える額だった。プロとして稼いだ貯蓄を全部崩して、それに、当面のスケジュールを仕事で埋め尽くした上で全勝出来たならば、……それは私に払える額だ、と。
 一刻を争う状況で、私の判断は早く、私は医師に全てを任せることにしたのだった。──そうして、数週間後に彼とアカデミアで落ち合った後に、亮が承諾して、手術を決めたときに、術前に報酬は一括で支払う、と。……そのように、契約を交わして。

 ──私が医師と交わしたその契約の詳細を知っているのは、磯野だけだ。
 無論、磯野からは良く考えるようにと諭されたし、契約の前に、父様に相談してみるべきだ、とも磯野からは言われた。……確かに父様は、私を助けてくれるかもしれない。でも、今度ばかりは、父様の手を借りてはいけないのだと、そう思う。
 だって私が助けてほしいのは、私のことじゃない。私は、亮を助けてほしいのだし、亮を助けるのは、私じゃなければ、意味が無いのだ。
 ──或いは、もしかすれば手術後も、医療費、リハビリ費、と。……医師から続けて要求される可能性とて、考えていない訳でもない。でも、もしもそうなったとしても、私が払えばいい。今後一生医師にたかられて、タダ働きも同然でプロを続けたって、私は別にそれで構わない。
 私にとって最も重要なのは、亮が生きているということなのだ。亮の居ない世界で、富や栄光を得たって私は何も嬉しくない。……このまま黙って亮を死なせたのでは、明日、試合に勝つ意味さえ、今の私には、見付けられないことだろう。

 ──それだけ、あなたは私にとって、大きな存在になってしまった。だから本当は、私の人生のすべてをあなたにあげたっていいけれど、そんなことを言ったら亮はまた何処かに行ってしまいそうだから、今は言ってあげない。
 でも、何度見失って、何度探して、何度、亮が困り顔で私の元に帰ってきたとしても。……本当は、とっくに許しているのだ。
 ……ずっと前から、変わらずに。あなたが生きて其処にいてくれるなら、もうそれだけで構わない。……もしも、私を選んでくれなくたって、別に構わないから、なんて。──そんな風に思っていたこともあったけれど、それらは全部嘘だったらしい。
 ──私は、カードに嫉妬するくらいに、あなたのことが欲しくって、堪らない。

「契約よ、亮。私の人生の半分をあげるから、あなたも人生の半分を私に頂戴」
「……後の、半分は?」
「互いに決闘に……デッキに捧げましょう。それで、あなたの意向も汲んだことになるわよね?」
「いや……だが、待ってくれ……俺は、お前に負担を掛けたいとは思わない」
「亮に死なれた方が、私にとって負担よ。それはもう、よく分かったでしょ?」
「しかし……俺の心臓は決して病ではない、これは、裏デッキに蝕まれているからこそで……」
「だから、私が連れてきたのは、病を治すための医者じゃない。……亮の心臓が、この先も決闘に耐えられるように治療してくれる医者よ」
「……だが……」
「……ねえ、亮。……あなたはそもそも、私のものだって、そう言っていたわよね?」
「何を突然……まあ、そうだな。俺は、お前以外の誰のものにもならん」
「そうよね。……じゃあ、亮の心臓だって私のものだわ」
「俺の心臓が……?」
「亮のそれを止めて良いのも……生かしていいのも、私だけよ。……だから、絶対に許さないって言ってるの、私の許可なく死ぬのも……決闘が出来なくなるのも、許さない」
……、俺は……」
「……それに、私だって亮のものなんだから、何も気に病む必要、ないじゃない? ……頼ってよ、亮。生かされてよ、私に。……おかえりって、この先、何度でも言ってあげるから……もし、また居なくなったっていいから、……ちゃんと、帰ってきて……此処にいて」

 ──亮に言いたかったことも、彼に言わなきゃいけなかったことも、ちゃんと全部言えた筈だ。……とはいえ、即決しろ、というのは、流石に無理だろうとは思う。
 真相を本人に教えるつもりは更々ないし、亮が自分で払うと言い出したとしても、それでは私の善意の押し付けにしかならないから、許可する気はない。亮にこれ以上負担を掛けたくないのは、私だって同じだ。  ──ともかく、それだけの額が動いて、亮自身がもう一度手術を受けるリスクだって負わなければならなくなるのだから、亮に即決してもらえるとは最初から思っていなかった。
 医師には、三日ほど待ってくれるようにと事前に頼み込んである。……もしもその結果、亮が断ったとしても、その際にはキャンセル料として全額を支払う、という契約の元で、長考のための時間を強引にもぎ取ったのだ。
 ──だから、ここまできたのなら、私の方はとっくに覚悟が出来ている。……あとはもう、亮を永遠に失うか、生かすかという、私にはその二択だけなのだ。
 ──そうして、暫しの間、葛藤する亮をじっと見つめて、私たちは無言で向き合っていた。──不意に咳払いがひとつ聞こえて、鮫島校長が部屋に入ってくるまでは。

「──すまない、立ち聞きしてしまった。許してくれ」
「! ……鮫島師範、どうしました。怪我の具合は……」
「いや、私は大事ない。……アカデミアに戻ったら、亮が無理をしたと聞いてね、見舞いを、と思ったのだが……」
「……亮が無理をした? どういうことですか? それに校長、その怪我は……」
「ああ、これは……いや、その前にくん、それに亮。……私の話を聞いてくれないか」
「……校長……?」


「──翔くん!」

 ──サイコ流とサイバー流、互いの看板を掛けたその決闘を、ボクが兄さんから引き継ぐと宣言してから、明けて二日。
 ──島内の海岸で岩場に座り込んで、一人でデッキを調整しては特訓を繰り返していたボクは、……最近聞いていなかった声、少し前までは頻繁に聞いていた気がする、とよく通るその声の主に不意に名前を呼ばれて、思わず弾かれたように振り返った。

「──さん!? い、いつからアカデミアに!? そうだっ、それより兄さんが! 兄さんが、さんをっ!」
「……翔くん……?」
「早く! 兄さんに会いに行ってあげてくださいっス! 兄さんなら、病室にいるっスから! 職員寮の一室を借りてるんだ、ボクが案内するよ!」
「ま、待って、翔くん。……私、さっきまで亮のところにいたのよ、だから平気だし、今は翔くんを探していたところなの」
「えっ!?」
「……亮と校長から聞いたわ、サイコ流との決闘のこと。……ありがとう、翔くん。亮を止めて、庇ってくれたのよね……亮が無事で、本当に良かった」

 ──そう言って、穏やかな表情で、ボクへと笑い掛けてくれるさんに、……ぽかん、と口を開けたままでボクは、正直に言うと呆気に取られていた。
 彼女がボクを探していた、というのもそうだけれど、……兄さんはずっと、さんのことで大分落ち込んでいる様子だったし、さんもあの日に飛び出していったきり、島内では一度も姿を見かけられずにいたから。
 ──けれど、今の彼女はこの様子で落ち着いているし、更には兄さんとはもう会ってきた、というところを見ると、……どうやら、ふたりは上手く落ち着いたのだろう。……ああ、よかった。本当に、よかった……。
 何も、そう本人たちからはっきりと断言された訳ではなかったけれど、さんがあの日とはまるで別人のように、落ち着いていたから。それも、冷たい雰囲気を纏った、冷静さなどではなくて。それはとても、穏やかなものだったから。……きっと、彼女と兄さんは、上手く行ったのだと、そう思えたのだ。

「まずは私から、説明するわね。……本島から腕利きの医者を連れてきたわ、……今後、亮が決闘をやめるとは到底思えないし、私も辞めさせたくない。……でも、あの医師に再手術を任せれば、今よりも亮の心臓への負担は軽減できるわ」
「っ、本当っスか!?」
「ええ。私が全額、費用も面倒見るつもりで連れてきたんだけどね……鮫島校長に、怒られちゃった。結局は、校長が負担してくれることになったわ」
「えええ……色々追いつかないんスけど、さん、一体それはいくら……」
「……まあ、そんなことより。……裏デッキとサイコ流のことも、亮から聞いたわ。翔くんがそのデッキから、亮を解放しようとしている、ってことも」
「……はいっス、でも、上手くデッキが回らなくて……」
「仕方ないわよ、そんな乱暴な構築で回せるの、亮だけだわ。40枚どころの枚数じゃないでしょ? そのデッキ……確か、60枚構築だったかしら……だから翔くん、私に手伝わせて。一緒に、突破口を探しましょう」
「え……?」
「私も、あなたと同じ気持ちだから。……亮を、そのデッキから開放したい。身を削らずとも、決闘を楽しめるようにしてあげたいの。私には精霊の声も聞こえるし、亮のデッキの内容も知ってる。……翔くんの助けに、なれると思うわ」
さん……いいんスか……? プロリーグだって、最近忙しかったみたいだし、本当はすごく疲れてるんじゃ……?」
「平気よ、翔くん。私が手伝いたいだけなの。……それにさっき、校長から散々怒られてね……少しは周囲の年上を頼れないのか、って。……初めてだったわ、校長に怒られたの……だから、翔くんも少しは先輩を頼ってみもいいんじゃないかしら?」

 ──それとも、やっぱり私は怖い?
 ……そう、困ったようにまなじりを下げて笑ったさんを見て、ボクは思い出した。……そうだ、すっかり最近は忘れてしまっていたけれど、ボクは以前、ずっとさんのことが怖くて、彼女が苦手だったのだ。
 例えば、ボクが彼女から怒られたり、責められたり、突き放されたりだとか、そんなことがあった訳ではなかったし、……寧ろさんは、幾度も、ボクを助けてくれた。……だと言うのにボクがこの人を、苦手だ、と思っていたのは。
 ──それは、さんがいつも、自信と気迫に満ちた、力強い決闘者だったから。
 ──伝説の白き龍を操り、圧倒的なゲームマスターとして立ち続けるさんは、あまりにもボクからは遠い存在で、──そんな彼女は、兄さんの隣へと、他の誰よりも堂々と立っている人だった。
 彼女が身に纏っている冷たい空気は、冷血な印象さえ受けてしまいそうなほどに涼やかで、ボクはそれが怖くて。……それなのに、兄さんと親しくしながらも、ボクのことを毎回助けてくれるさんのことが、怖かった。
 だから、ボクは一度、さんに向かって、兄さんの弟だからボクを助けたのか、と。……そんな風に、酷い質問を投げ掛けてしまったことがある。けれど、そのときだって、さんはボクの質問を否定も肯定もせずに、ボクが一番、罪悪感を覚えずに済むであろう答えを、ボクに掛けてくれたのだ。
 ──でも、今ならはっきりと分かる、──あの答えは、嘘だったのだ、と。
 今までずっと卑屈だった、後ろ向きだったボクには、さんの真意を、差し図ることができなかったけれど。……あの頃も、きっとさんはボクという個人を尊重して、真摯に接してくれていたんだ。
 さんが何度も助けてくれてきたのはボクだけれど、今助けたいのは兄さんで。……けれどきっと、彼女は同時に今、……ボクのことも、助けようとしてくれている。……それだけ、相手を思いやる繊細な配慮、柔らかな心の動きがこのひとにも当然ながら存在しているのだということは、……ボクだって、もう、理解出来ている。

「──そんなわけないっスよ! さんは、怖くなんかない! ……さんがいれば心強いし、お願いします! ボクと一緒に、兄さんを助けてください!」
「……ええ、この私に任せなさい! ──やるわよ、翔くん!」
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