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「──、どうか、お前に──……」

 ──ぼんやりとした意識の中、何処か懐かしい声が聞こえたような気がして、私は顔を上げる。
 ……目の前に立っていたのは、紫色の目に、くすんだ若草色の髪をした、あの青年だった。差し出されたその手を包む制服の袖口は不自然に破れていて、ぽたぽたと血が滴っていることに気付いて私は、酷く慌てる。
 赤の他人であっても、眼前の相手が怪我をしていれば慌てもするだろう。──けれど、私は。この人が、……この青年が怪我をしていることが、何故だか堪らなく怖いと思ったのだ。
 早く、差し出されたその手を取って、彼の怪我を手当てしなくては。そう思って私は彼の手を取るものの、白いてのひらに手を重ねた私の指先を絡め取りながらも、──しかして彼は、そのまま私の手を離した。

「──ごめん、やっぱり、俺は……お前には、どうか、……どうか……」

 ──まるで、突き放されるようにして解かれた手、……この手を今此処で掴み取らなくては、……何か、取り返しが付かなくなるような気がしてならなかった。
 ……私は知っている、魂が覚えているのだ。彼が私にとって、特別な人であることを。
 ……なのに、私には思い出せない。彼の名前がどうしても、私には思い出せなくて、──彼の名前を呼んで引き留めることも叶わない私に、青年は引っ込めたてのひらの、その反対側の片手を差し出す。
 ──その手の中には、一枚のカードがあった。美しい翼を湛えた天使の描かれた、一枚のカード。──ああ、そうだ、このカードは、──あのとき、あなたが私に託したのだ。

「……お前にだけは、俺を、忘れて欲しくなかったんだ……ごめん、最後まで俺、お前には迷惑ばかりかけてるな。……こんなことを言ったところで、もう、何もかも遅いのにな……」

 そっと握らされたカードをまじまじと見つめて、その存在を確かめる私からは、次第に青年の姿が遠ざかっていってしまう。
 ──待って、と叫んだ筈の喉は音を成さず、追い縋るように伸ばした手は空を掻く。
 ──だめ、だめよ、行っては駄目、あなたが居なくなったら、私は、私は、……名前を呼んで、止めないと。何に代えてもあなたを此処で引き留めなければ、──そう、そうだ。やっと、思い出した。──あなたの、名前は──。

「──待って! 優介!」

 ──あの日、それが私の、最後の記憶だった。



 ──揺蕩う意識の中からずるりと引き上げられた意識に、はっと私は我に返る。
 ──今のは、一体。白昼夢か何か、だったのだろうか。

 今は、確か──そうだ、今日はアカデミアの特待生枠の実技試験の日で、今はまさに、試験の真っ最中なのだった。
 だと言うのに、試験中に一体私は、何を呆けていたのだろう。決して、今はそんな場合ではないはずだ。──只でさえ受験番号一番のあいつの、見事な決闘を見せつけられたばかりなのだし。
 確か、筆記試験では彼と私よりも更に成績上位者が一人いたはずだから、……この実技試験だけは必ず、私は一番で通過しなくてはいけない。──だってそれこそが、今の私が父様の貯めに出来る精一杯の筈だ。それに何より、私は誰にも負けたくない。……そう、今はちゃんと、目の前の決闘に集中しなくては。

「──私のターン! ドロー!」

 ばっ、と引き抜いたカードを確認して、思わず頬が緩む。
 ──そうよね、あなたはいつも、ここぞという場面で必ず私の手札に来てくれる。──だからこそ、私にとってあなたは、間違いなく無二の相棒で、──そして私のナイトなのだ。

「──来て、私のヒーロー! 正義の味方カイバーマン、召喚!」

 デュエルディスクにセットしたそのカードが、ソリッドビジョンシステムによって姿を現す。
 ──そうして、私にだけ分かるように、彼はそっと此方を振り返った。その頼もしい視線を受けながら、私も彼に向かって目で合図を返してからそっと頷くと、カイバーマンもまた、同じ仕草で私に向かってサインを送る。──任せておけ、と。

「え……!?」

 ──そのときのこと、だった。……ギャラリーの中に居た、学生服に身を包んだ少年。──恐らく受験生だ、その少年が、突然私に向かって身を乗り出したのを私は見落とさなかった。
 ──確かあれは、筆記試験一位の受験生、だったはず。……一体、どうかしたのだろうか。私に注目しているようだけれど、何か私の行動で、気に掛かる点が? ……と、自分のプレイングミスなどを疑ったわけでは決してなかったものの、筆記一番の彼が私を凝視する理由がどうにも気になり、ちらり、と幾らかばかりそちらに視線を向けてみると、──なんとそこには、……少年の隣に、虹色の美しい翼を背負った、天使が立っていたのだ。
 ──ギャラリーの中、決闘の最中ではない少年の、隣に。天使が立っている。──つまりあれは、決してソリッドビジョンではない。……それが、意味するところは。今、あの少年が私を見ている理由は、……まさか、それは。

「──勝者、受験番号002、海馬!」

 ──審判が下した私の勝利宣言を聞きながらギャラリーの歓声を浴びて、──私は、カイバーマンとふたり、他の誰にも見えないはずのハイタッチを交わすと、……見えないハイタッチが見えていたであろう先程の少年へと、もう一度視線を向ける。
 ──少年はやはり、未だ私を見ていた。まるで、信じられないものを見るような目で、……されど酷く高揚して、頬を染めてきらきらと瞳を輝かせながらも、私を見つめている彼に向けて、そっと片目を伏せてサインを送ってみせると、……少年は一度固まって、けれど傍らの天使と目配せをしてから、……おずおずと、私に向かって手を振ってくれた。


「──な、なあ! あの、きみって、さ……!」

 ──そうして、それから少し時は流れて、私がデュエルアカデミアへと旅立つその日に、島へと向かう船上にて。──私はあのとき、ふたりだけの秘密を共有したあの少年と、無事に再会した。
 どうやら船上で私の姿を見付けてくれたのだろう、控えめに、躊躇いながらも私へと掛けられた声に気付いた私は彼へと振り向いて、それからすぐに、見覚えのある顔に気付いた私は思わず破顔する。
 ──潮風で翻る白い制服をはためかせながら、私は呼ばれた方へと駆け寄って、興奮気味に少年の手を取ると、再会の喜びを伝えるべく、私は口を開いたのだった。

「あなた、あの時の……! あなたも、デュエルモンスターズの精霊が見えているんでしょう? 私、海馬って言うの、あなたの名前は?」
「え、えっと、その、俺は……」
「あ……ごめんなさい、一人ではしゃいでしまって。……私、あなたと話すのとても楽しみにしてたのよ、だから、舞い上がってしまって」
「……っ、藤原優介、……で、す……」
「……藤原、優介?」
「あ、ああ……そうだよ……」
「……素敵な名前ね、優しい目をした人だと思ってたから、あなたにぴったりな名前だと思うわ。……ねえ、優介と呼んでもいい?」
「え、……う、うん、いいよ、ええと……、でいい?」
「ええ、もちろん。……ふふ、これからよろしくね、優介!」
「……うん、よろしく、

 ──あの受験会場で、私は。アカデミアに編入することが楽しみだと、心からそう思った。決闘に浸る日々が訪れることも、まだ知らない世界が、待ち受けていることも、受験番号一番のライバルとの出会いもすべて、楽しみだったけれど、──なによりもあなた、優介と話をするのが、私は楽しみで仕方がなかった。
 そうして、無事に船で再会して友人となった優介は、私にとって初めて出会った精霊が見える決闘者だったから、……だからこそ、絶対に彼と話がしてみたい、と。あのとき、受験会場で私は、そう強く思ったのだ。
 それに、その後すぐに再会して私と優介の友人となった亮と吹雪も、受験会場でも既に、決闘者としての興味をそそられる腕前だったし。
 アカデミアに編入すれば、あんなにも刺激的な面々と切磋琢磨していくことになるのだ、と思うと、……私は生まれて初めて、込み上げてくるワクワクを止められなかったのだ。
 それまではずっと、父様の為だけに戦ってきた私が、彼らと競い合うことを望み、決闘へと改めて向かい合うようになって、まるで怪物のように、天才的なデュエルタクティクスを持ち合わせた彼らと競い合っていくというのは、……まあ当然ながら、楽ではなかったけれど。
 ──それでも、私は彼ら三人と出会えたことは、私の人生の中でも最上級に喜ばしい巡り合わせだったんじゃないか、と。……私は、そう思っている。

 精霊が見えるという共通の秘密を持つ初めての親友、優介。世間知らずの私にも呆れずに色んな世界を見せてくれた、ムードメーカーの吹雪。
 ──それと、あの頃はまだ自分の本心に気付いてなくて、只々ライバルだと思って張り合っていたけれど、……思い返してみれば、あの頃から既に私は、何かと競い合っては衝突と和解を繰り返していた亮のことが好きで、……だからこそ素直になれなくて、負けたくなくて、彼の前では勝気に振舞っていたのかもしれないと、そう思う。
 そんな三人と、特待生寮で毎日、笑って、決闘して、喧嘩もして、……楽しいときもそうじゃないときだって、とにかくいつだって彼らと一緒に下らない話で盛り上がっては、毎日毎日、明日が来るのが楽しみで、……私はこの日々が愛おしくて、大切で。
 ──私は四人で過ごす時間が、大好きだった。

 ──だから、だからね。

「──お前達を巻き込んで、すまない……」

 ──優介、私、あなたのそんな顔、見たくなかったの。
 いつもは躊躇いがちにでも、最後には必ず私へと伸ばしてくれたあなたの手を、なかったことにしようとするなんて、……そんな悲しい仕草を、私、見たくなかった。
 ──ねえ、優介は何が苦しかったの? 私はあなたに、どうしてあげればよかったの? 何をしてあげられたの、──その手を伸ばして、本当のあなたは私にどうしてほしかったの。……優介、あなたは何を望んでいたの、……ねえ、何か言って。……お願い、そんなに苦しそうな顔で、黙り込んだりしないで。
 ──私に出来ることがあるなら、してほしいことがあるなら、ちゃんと言って。隠し事なんてしないで、……だって、だってあなたは私の、初めての。

「俺、のことは一緒に連れて行けばいいと、そう思ってた。……でも、違ったんだな……俺はお前に忘れられたくなくて、お前は俺みたいに弱くなくて。なのに、それなのに──……」

 ──友達、だったの。

「……俺なんかがお前を好きになって、ごめんな……」


 ──泥の中から意識を取り戻して、弾かれたように私は飛び起きる。
 ──深い、まるで底なし沼のような夢を見ていたかのような、そんな気分だ。心臓はばくばくと激しく跳ねており、身体が寒くて寒くて仕方がない。
 それでも、身に纏わりついた毛布を蹴り飛ばして、枕元に置いたデッキケースへと無我夢中で手を伸ばす。──そして、私のデッキに眠っている筈のあのカードを探してデッキを確認し、──やっぱり、案の定あのカードはデッキから消えたままで、思わず焦燥が募る。
 ──どうして、どうして忘れていたんだろう。……そうだ、あのカードはあのときに、彼から託されたもの、だった。……けれど今、あのカードは──オネストは、少し前から私のデッキケースから消えている。
 ……何故もっと早く、気付かなかったのだろうか。何故、兆候があったのに今になってオネストのことを見落としたのか。
 破滅の光を受け入れてから、徐々に戻りつつあった優介の記憶。──思えばあれは、ダークネスの闇による浸食を破滅の光が塗り替えていたからこその、現象だったのだろう。
 どうして、私はいつも手遅れになってから気付くのかと、そう思えばこそ自分で自分が許せなくて、腹立たしくて、亮の病室に置かれた折り畳みベッドから転げるように降りると、私は、まだ眠っている筈の亮を早急に叩き起こそうと、彼の眠る寝台から布団を引っぺがした。

「亮! ……りょ、う……?」

 ──いない、亮が。……なんで、どうして? まだ全然、一人で出歩けるような身体じゃないし、車椅子だって変わらずに部屋にあるから、亮はまだ寝ているものだとばかり思っていたのに。
 ……第一、今の亮に限って、私に何も言わずに出歩こうとする筈がない。だって、約束したばかりだ。それはまあ、平気で約束を破るのが亮ではあったけれど、……それでも、もうきっと亮はそんなことをしないのだろう、と。再度の約束を経て私は、彼に対して確信めいたものを感じていたし、きっとあの感覚は、私の思い過しや気のせいなどではない。
 ──でも、だったらなぜ、亮が居ないの? ……もしも自分でいなくなったわけじゃないのだとすれば、……一体、誰に。

「っ、そうだ、翔くん……!」

 ともかく、一度翔くんに連絡しよう。もしかすると、亮は彼といっしょに居るだけなのかもしれないし。
 そう思った私は、デッキケースの横に置いていた携帯端末を手に取って電話帳を開こうとするものの、着信履歴に気付いて其方を確認してみると、まさしく翔くんからの着信と、留守電が入っていたことに気付いて驚いた。
 ……一体どうして、私は彼からの着信に気付かなかったのだろうか。……そもそも、外は妙に薄暗く、何故自分がこんな時間まで眠っていたのかさえも分からずに、……何もかも、今この場を取り巻く状況は全てが奇妙で、不可解でならなかった。

さんっ、今すぐ兄さんを連れて、逃げて──うわあああああっ!』

 要件を確認するべく翔くんからの留守電を再生してみるものの、ぶつり、とそこで途切れる留守番電話に、私は呆然と立ちすくむ。
 ツー、ツー、と機械音が繰り返されるのが耳障りで仕方なくて、……されど、泥のような眠りに飲まれていた頭が、彼の放った断末魔で急速に覚醒した。
 ……一体、何が起きているの。──でも、とにかく今は亮を探して、それから翔くんを助けに行かないと。
 その一心で震える身体と冷たい背筋に喝を入れて、私は亮の病室の外に踏み出そうとした、──けれど。

「……待て、我が主よ。……今は、外に行くな」
「……そこをどいてちょうだい、カイバーマン」

 ──其処には、カイバーマンが、私の行く手を阻んでいたのだった。 inserted by FC2 system

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