173

 ──少し、昔の話をしようか。昔話と呼ぶほどには昔ではない、──されど、既に皆が忘れてしまった“いつか”の話を覚えている者など、……今となっては、オレくらいになってしまった。

 オレが仕える主──海馬は、周囲の子供たちのそれとは、まるで掛け離れた幼少期を過ごしてきた。
 身寄りのないところを海馬瀬人に拾われ、以降は養父の会社の為にと、小さな体で自身の持てる全てを懸命に費やしてきたのだ。
 精霊が見える、という奇特な性質を持って生まれたが為に、孤児院に居た頃も周りの子供は怖がって主と遊びたがらず、また、海馬家に引き取られた後も、友と戯れるような時間は主にはなかった。……友と言う存在を作ろうとさえ、あの少女はしなかった。
 昔からずっと、彼女の何もかもは──、の行動理念、目的意識は、全て、──父・海馬瀬人ありきのものだった。
 自分の為の何かを、幼い少女は決して望まなかった。その願望は押し殺され、或いは、彼女の内からは生まれてくることさえもないものだったのだろう。
 そんな主が、アカデミアに編入して、最初に作った学友。──彼女の初めての友人、精霊が見えるという特殊体質を共有できて、誰にも話せなかった秘密も何もかもを気兼ねなく打ち明けられる、……生涯において、唯一無二の理解者。産まれて初めての、彼女の親友。
 ──それが、藤原優介だった。

「──ねえ優介、このカードをデッキに組み込めないかと思ってるんだけど、どうかしら?」
「……そう言うのは俺より、丸藤の方が詳しいんじゃないか?」
「それじゃだめなの! 次は私が亮をコテンパンにしてやるんだから、本人に相談しても仕方ないじゃない!」
「でも、俺よりきっと……」
「……ねえ、優介。あなたって、私達の中で一番カードのこと詳しいし、優秀じゃない」
「それは、座学とか知識だけの話で、実技はお前にも丸藤にも劣るだろ……?」
「それでも、私は優介に相談しているのよ? ……あなたはいつも、誰も思いつかなかったようなコンボを考えては、私たちに提案してくれるし、カードのシナジーについてだって誰よりも詳しいじゃない。……私が優介に相談したいと思ったの、私は優介が一番的確なアドバイスをくれると思ったの。……それとも、もしかして迷惑?」
「っ、そんなわけないだろ!?」
「じゃあ、一緒に考えてくれる?」
「……ったく、仕方ないな……どのカードだよ?」
「ありがと、優介! ……それでね、このカードなんだけど……」

 ──と藤原優介とは、決して似たようなタイプではなかったし性格もかけ離れてはいたが、ふたりはとにかく、境遇があまりにも似通っていたのだ。
 両親を幼くして、喪っていること。それからはカードの精霊のみが、心の支えだったこと。そして、──お互いが初めての理解者で、初めての友人であったこと。
 気が合う訳でも、趣味が合う訳でも、ソリが合う訳でもなかった。そういった意味合いでならば、は天上院吹雪や、丸藤亮とのほうが気が合っていたし、それはまた藤原優介も然りだった。
 ──だが、実際にはその片割れが度々嫉妬めいた目を向ける程度には、藤原優介と仲が良かったのだ。
 元より暇さえあれば四人で過ごしていたが、から奴らの部屋へと押し掛けていくときには、大抵は藤原優介の元へと出向いていたため、必然的にか、いつの間にやら奴の部屋が四人の溜まり場のようになっていたのを良く覚えている。
 ──オレはでなければ、藤原優介でもない。……だから、客観的な憶測でしか彼らを語ることは出来ないが、ふたりは何処か、きょうだい、のような通じ合い方をしていたのだろうと思う。
 もしも片割れが、幼い日の自分の傍にいてくれたなら、きっと幸福だったことだろうと。今更ある筈もない仮定の、在り得たかもしれない過去を埋め合わせるかのように、ふたりはいつでも一緒だった。

「……優介といると、なんだか安心するのよね……」
「はぁ? なんだよそれ……」
「ふふ……でも、もしも兄様がいたら、こんな感じだったのかも、ね」
「……俺は、みたいな妹いらないけどな……兄のメンツが保てなくなりそうだ」
「ふふ、じゃあ私が姉様になってあげようか?」
「……いや、俺はそれよりも、もっと……」
「……優介?」
「──いや、なんでも、ない……」

 ──いつしか、彼女も知らぬうちにその片割れから向けられている情緒は、家族と言う枠を超えて。……藤原優介は彼女へとざらついた衝動を、堪え切れなくなるほどに抱いていたとは、露とも知らずに、は奴を信じていた。
 ──当然だ、にとって藤原優介は、その頃にはとっくに、大切な家族になってしまっていた。……何も特別な名前などがなくとも、彼女にとって藤原優介は唯一無二の存在だったのだ。

 ──だからこそ、あんなことになった時に、オレは酷く自分の責任を感じ、不徳を恥じた。
 主が騎士として重宝してくれているオレこそが、或いはこの事態を事前に防ぐことも出来たのではないか、と。……傲慢にもオレは、そのように思ってしまった。
 ──考えてみれば、至極簡単なことだったのだ。の初めての安寧を壊したくはないからと、自分が気付いていた藤原優介の抱える真意を、に伝えることもせずに、彼女に勘付かせるように仕向けることもなく。
 我が主君は鈍感な箱入りで、海馬ではなく、只のとして他者と接することも、一対一で互いの感情を向け合うこともは初めてだったのだと、……オレはそう、知っていたのに。
 ──主はまだ、知らないだけだ。人が人に向ける感情など、決して不変ではない。他者と触れ合い、相手を知るたびに、その数だけ人は人に落胆するし、期待もする。
 ──そうして、ずっと一緒に過ごしているうちに、その分だけ良くも悪くも、人の感情というものは変化するのだ。が不変を望んだとしても、その先にある関係の変化などは想定さえしていなかったのだとしても、相手も同じだとは限らないのだということを、……あの頃の主は、未だ知らなかった。
 ──結果として、それが藤原優介を追い詰めた一端になってしまっても。……には、分からなかったのだ。……誰よりも我が身を省みなかった少女は、言葉にされなければ、我が身に降り注ぐ特別な想いになど、気付ける筈が、なかった。──オレが、彼女に気付かせなかった。

「──ふたりとも、何を言っているの……?」

 ──そうして、震えた声で親友二人を見つめて瞳を見開いた、彼女の呆然とした表情を見た時に、──オレは、主が可愛い余りに、……決して許されない決断を、下してしまったのだ。
 かたかたと絶え間なく震え続ける華奢な指には、一枚のカードが握られている。……精霊の宿るそのカードは、藤原優介の忘れ形見だった。奴が最後に、へと託した魂のカード。
 ……あのときに奴は、せめて精霊だけには幸多かれと、願ったのだろうか。或いは、そのカードさえ持っていれば、だけは自分を忘れないことに、気付いていたのだろうか。
 いずれにせよ、奴のその選択は、を追い詰めた。──訳も分からないままに、半身とさえ信じていた親友が、居なくなってしまって。取り残された三人で事態を解決しようと望んだところで、自分を除く二人は、いつしかその親友の存在を、忘れてしまって。……一体、何が起きているのかも分からずに、手掛かりさえもろくに残さず。
 ──あの頃、一人ではとても解決できなかったであろう窮地に、は、たった一人で立たされてしまったのだ。

「──優介、藤原優介よ! 私達、優介の親友だったでしょう!? ……どうして覚えてないの、冗談でしょう? とぼけないでよ……そうやって驚かせようとしたって、無駄なんだから!」
、落ち着け。……一体、どうしたんだ? その、藤原……? という男は一体……吹雪、そんな生徒は特待生寮にいたか?」
「うーん……僕も知らないなあ、一般生徒だとしても、名前くらいは覚えがありそうなものなのに……外部のひとなのかなあ……?」
「……亮も吹雪も、何言ってるの……? ねえ、嘘でしょ、本気で言ってるの……? もう、やめてよ……」
「俺達がお前に嘘を吐いてどうするんだ。……それより、顔色が悪いぞ、体調が優れないんじゃないのか?」
「ああ、本当だ! きみってばすぐに無茶するんだから……さ、早く部屋に戻って休みなよ、、きみはもっと自分を大事にしなきゃいけないよ?」
「いや、いや……やめて、だって水曜日はいつも、放課後にあそこの、優介の部屋で、みんなで卓上デュエルして、それで……」
「……? あの部屋は、空き部屋だろう? 俺達が入寮してからずっと、誰も使っていない部屋だった筈だが……」
「……ねえ、やっぱり疲れてるんじゃないのかい? ほら亮、を部屋まで送ってあげなよ。僕は食堂から、何か冷たい飲み物でも拝借してくるからさ、先に二人で行っててよ」
「ああ。、行こう。……歩けるか? 辛いなら肩を貸すぞ」
「……う、うう、あああ……なんで、どうして……?」

 ──強い者ほど、不意に打たれたのならば、決壊は一瞬だ。
 ──ましてや、本当は人並みの弱さを持っている癖に、日頃から必死に強がって堂々と振舞っている、そんなが壊れたのは、本当に一瞬だった。
 自分だけが覚えている、大切な大切な人間の存在を、他の誰もかもが覚えていない。学園に籍も残っていなければ、そんな人物が存在していたという証拠すらも、何一つ残されていない。
 ……自分は何処か、おかしいのか。……それとも、おかしいのは、世界の方なのか。
 必死にを支えようと奮闘した親友二人の優しさは、皮肉にも、他の何よりを追い詰めた。
 ──天上院吹雪と丸藤亮に、自分の言葉を否定されればされるだけ、心配されればされるだけ、は自分だけがおかしいのかと自分で自分を疑ってしまう。……だが、本当は分かっているのだ。自分は何も間違えてはいない、おかしいのは世界のほうなのだと。
 しかし、世界がおかしいと確信できたところで、果たしてその時、に何が出来たというのだろうか。……世界を変えることなど、追い詰められた少女一人には、到底、成せる所業などではなかったのだ。

 ──そうして、最早オレに出来たことと言えば、そのカードから精霊を切り離し、精霊界へと追い返すことだけだった。
 親友の忘れ形見が、只のデッキパーツになったときに、は全てを忘れて、……そして、彼女は楽になった。……そうだ、オレは、たった一人の主君が可愛い余りに、主に出来たかもしれない救済の道をこの手で叩き壊したのだ。
 救いを求めていた精霊を、救世主となり得た最愛の少女から、オレのこの手で引き離した。……もう、それで良いとさえ思っていたのだ。主さえ健やかであってくれたなら、──最早、オレは何もかもが、どうでもいいとさえ、あの時に──。

「──ねえ、カイバーマン?」
「どうした、主?」
「このカード……オネスト、って……元から私のデッキに入っていたカードよね?」
「……ああ、そうだが。それがどうかしたのか、主よ」
「そうよね……なんだか変なのよ、私、オネストの精霊だけ、どうしても見えないの。カイバーマンも乙女も青眼も、他のみんなは見えているし、亮や吹雪のデッキの精霊だって見えるのよ? ……なのに、この子は私のカードのはずなのに、どうして……」

 精霊界に追い返したことで、オネストからへの干渉が止み、──親友の失踪以来、常に真っ青だった主の顔色に、ようやく幾らかの血色が戻った頃。……主はダークネスの影響下に入ったことで、綺麗さっぱり、全てを忘れていた。
 その精霊と共に過ごし、笑い合った記憶も。そのカードとの、初めての出会いも。そのカードをデッキに入れることとなった経緯も、その何もかもを忘れて、残された仮初の平穏を、は取り戻したのだ。
 ──そしてオレは、の身体の不調を口実に、怪しげな研究を行っていた錬金術の授業の専攻は取り消すようにと彼女を誘導し、天上院吹雪だけがその授業に一人で出席を続けるのを見過ごし、──故に奴が居なくなったときには、やはり後悔した。……或いは、他に手立てがあったのではないのかと、己の選択を悔やんだ。
 だが、天上院吹雪は結果として、と丸藤亮の元へと帰ってきて、再び平穏は訪れたのだ。
 正直、オレはあの時、自業自得だとさえ思っていたのかもしれない。全ては藤原優介の独断行動であり、あんなものはや友人達への甘えでしかない、と。
 ……あの男は、一度は自らの意志で巻き込んだ友人を放置することで二次被害を呼び、一度は身勝手に連れ去ろうとしたを、今度は傍迷惑な理由で置き去りにして、背負いきれないほどの重荷を彼女に負わせた。
 全てはあの男の自業自得だ、世界から忘れられたこととて、そもそもは奴が望んだことなのだ。……奴が居なくなるだけなら、が変わらず笑っていられるのであれば、それならそれでよかろう。
 何も、彼女は一人になってしまったわけではないのだ、──オレが居て、親友が居て、好いた男も居る。……それならば、もう、それ以上に何を望む必要がある、と。

 が破滅の光の影響を受けたことで、徐々にダークネスによる忘却の影響から免れたあの時には、肝を冷やしたが、しかし、──結局オレはあの時も、異世界の過酷な環境で心身をすり減らすが、今このタイミングで藤原優介のことをすべて思い出してしまったらどうしようかと、そればかりを考えていた。
 ──その結果、俺は主が丸藤亮と企んでいた何事かを見落とし、──主を守り切れなかったどころか、最後には失意の中、只ひとりで谷底へと失墜する苦しみを味わわせてしまったのだ。
 故にこそ、異世界から戻ってすぐにオレは、消滅した破滅の光と入れ替わるようにして凛の心の部屋を陣取り、藤原優介に纏わる記憶を覆い隠した。
 ──それで、もうは苦しまずに済むのだとそう信じていた、──それこそが正しい選択なのだと、そう思っていた。

 ──だが、果たしてオレは今でも、そのように言い切れるのだろうか。……こんなにも真っ青な顔色で、後悔に満ちて泣きそうな顔をしているを前にして、オレは、もう──。


 ──ああ、そうだ。全て、思い出した。……あの夢も、その前の夢も、全部、夢なんかじゃなかった。やっぱり全部、本当に私の身に起きた出来事だった。──夢に会いに来てくれた彼は、確かに存在する。
 ──私にとって彼は、私の心の部屋に住むもう一人の自分に値する、それほど大きな存在だった。

 ──そうだ、今までずっと過ごしてきた、平穏だと信じていた昨日までの日常こそが、……本当は長い長い夢、だったのだ。
 カイバーマンからの贖罪を聞き、私の前に傅いて処罰を乞う彼を見ている間、私はもう、胸が痛くて仕方がなくて。……だって、この騎士は、誰よりも私を想っていてくれたからこそ、こんな独断行動に及んだのだ。
 私の騎士失格だ、と首を垂れるその姿は今でも紛れもなく、私だけのヒーロー。──だってこの騎士は、また知らないところで、ずっとずっと、強大な脅威から私を護り続けてくれていたのだ。

「……カイバーマン、顔を上げて」
「……主よ、それは……」
「いいから、上げなさい。あなたは私の騎士なんだから、護るなら最後まで護って!」
「……
「……ねえ、もう私、逃げられないわ。……外ではきっと、目を背けられない事態が起きてる。……だから私、決着を着けに行く。そして、絶対に全部取り返してみせる」
「……主、貴様は……」
「だから、私を護って、カイバーマン。……いつもみたいに、あなたが私の道を先導して。今日も昨日も明日も、……何があっても、私はあなたを信じているから」
「……貴様は本当に、強くなったのだな、よ」
「……ばかね、あなたがいてくれるからよ?」

 ──本当はね、私だって、何もかも怖くて仕方がなかった。
 急に取り戻した記憶も、ずっとずっと、騙されていたという日常も、それで完結していると思い込んでいた、幸せな日々も、苦悩の日々も、何もかもが、……すべて、偽りだったのだと言うその事実が、怖い。
 亮の姿が見えないことも、翔くんからのメッセージも、見知った筈の校舎なのに見覚えがないほどに人気のない学び舎も、今は酷く不安を煽る。すべてが、──何もかもが、本当に怖かった。
 それに、──この先に待っているものが何なのかも、ずっと目を逸らし続けてきてしまった私には、まるで分からない。……でも、きっと、必ず、前に進めば、あなたに会える。……それだけは、確信しているのだ。
 それに、もしも今此処で走るのを諦めてしまったのなら、きっと私は後悔する。……此処でこの恐怖に、足の震えに、自分自身に負けてしまったのならば、私は一生、後悔し続けることだろう。或いは、後悔さえも忘れるほどの無限の闇の中で、きっと永遠に、私は謝罪を繰り返すことになるのだ。


「──もう、茶番はやめだ。……お前、俺が誰か気付いているんだろう?」
「……ああ。ダークネスのカードを持つ、僕以外の唯一の人間……」

 ──カイバーマンに手を引かれながら、縺れそうな足で必死に走って、走って──そうして、校舎の正面玄関前まで走ったところで、私は其処に、吹雪の後ろ姿を見付けた。劣勢に追い込まれている吹雪に対峙している黒衣の男は、あの、冷たい冷たい紫色の、瞳は──。

「っ、……優介! 待って!」

 ──確かにあの頃、誰より優しくて穏やかな目をしていると信じて疑っていなかった、──大切な大切な、私の初めての、親友のものだった。 inserted by FC2 system

close
inserted by FC2 system