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 ダークネスと一体になり、時間の感覚さえも闇に融けていた頃、──あるとき、突然目の前に真っ白な扉が現れた。
 暗闇の中で不自然なほどに燦然と輝くその光は、触れると何処かあたたかく、──俺は無意識のうちに、その場所に向かって手を伸ばしていた。
 そして、長方形の枠線のあちら側を俺が覗き込むと、扉の向こうには、──彼女の姿が見えた。
 ……ずっと、忘れてしまいたくて、……それでも、一度はダークネスの世界へと共に連れ去ってしまおうかと思ったほどに、大切だった彼女が、──海馬が、白い部屋の中に座っていたのだ。

「…………?」

 どうやらは、俺が彼女を見ていることに気付いていないらしい。──もしも、俺がこの扉を潜り抜ければ、彼女は俺に気付くだろうかとそう思いながらも、自らの意思でダークネスへと踏み込んでに背を向けた俺は、今更どんな顔をしてに話しかけたら良いのかが分からなくて、……その扉の向こう側から、只ずっとを見つめていることしか俺には出来なかった。
 白くて塵のひとつも見当たらない、明るくて暖かなその場所が──の心の部屋だとそう気付いたのは、彼女を観察してしばらく経ってからのこと、だっただろうか。
 の心の部屋はこざっぱりしていて碌に荷物が置かれておらず、──けれど、壁には幾つかの光が飾られている。
 それは、彼女が大切にしている人々から貰った掛け替えのないかがやきの結晶なのだと、──それに気付いたのは、あるときから、が毎日心の部屋で膝を抱えて泣いているようになった為、だった。
 
 その頃、彼女の部屋からは、ひとつの光が消えていて、──どうやらそれは、吹雪がに与えていた光だったらしい。
 吹雪が失踪した頃、──は現実世界では気丈に振る舞いながらも、心の部屋では毎日、一人で泣いていて、俺は隠れてそれを見守りながらも、彼女の為にどうしてやれば良いのかがまるで分からなかった。
 ──今こそ、に話し掛けるべきだろうか。駆け寄って、もう大丈夫だと慰めるべきだろうか。……でも、吹雪が失踪したのは元はと言えば俺が、あいつにダークネスの力の断片を手渡したからじゃないのか? ……それは、俺の所為なんじゃないのか? ──と、そうして二の足を踏んでいるうちに、──どうやら、現実世界では、丸藤がの手を取ったらしい。
 
 そうして、その頃から、の心の部屋には今までの彼女は持ち得なかった光が増えた。
 ──その光源の名前が、“恋”だと俺がそう気付いたのは、……本当に簡単な話で、……他でもない俺自身が、に恋をしていたから、だった。

 海馬と言う同級生と俺が初めて出会ったのは、デュエルアカデミアの入試会場で、──当時の俺にとって精霊の見えるデュエリストと出会ったのは人生で二度目のことだったから、あのときは本当に驚いたのだ。
 ──そう、実は、俺はと出会うよりも以前に一度だけ、精霊の見えるデュエリストと出会ったことがある。

「──あんな小さな子を置いて……可哀想にな……」
「せめて、親戚のひとりでも居れば……」
 
 ……まあ、出会ったとは言っても、それは幼少期、両親が亡くなった際の葬儀場での出来事だったから、……本当に、“彼女”とは只すれ違っただけに過ぎないのだが。
 ──俺は昔、俺と同い年くらいの女の子が喪服に身を包みぽつんと立ち尽くして泣いているところを、デュエルモンスターズの精霊に慰められている光景を、目撃したことがあったのだ。
 でも、その時は俺も失意の只中にあったし、向こうも俺がオネストを連れていることには気付いている様子だったけれど、現状に精一杯だったのはきっとお互い様で、俺たちが会話をすることは無く、……本当に、只すれ違っただけの話で。
 ……でも、そんな経験があったから、だったのかな。デュエルアカデミアへと向かう船上で、勇気を出して必死にへと声を掛けたのは、……もう二度と、こんな機会を逃してはいけないと、そう思ったからだったのかもしれない。

 ──俺はずっとずっと、あの時に葬儀場で見かけた女の子に話しかければよかったと、そう後悔していた。
 だって、あの時に彼女と友達になれていたら、俺の人生はこんなにも孤独じゃなかったかもしれなくて、……それに、もしかしたらあの女の子はだったんじゃないかって、……と出会って彼女の境遇を知り、同じ時期、同じ街でひとりぼっちになったことを知った頃から俺はずっと、そんな期待を抱いている。
 ──でも、どんなに境遇が似通っていたとしても、幼少期に出会った女の子が、現在の海馬である確証は何処にもない。
 は重度のショックからか幼い頃の記憶を覚えていなかったし、子供の頃と今とでは使っているデッキも違うし、俺もあの子の名前を聞かなかったから、手掛かりは何も無いのだ。
 ──だから、かな。──丸藤から、ジュニアリーグ時代にの姿を見掛けたことがあるのだと、その頃からずっと彼女とデュエルをしてみたいと思い願っていて、デュエルアカデミアで再会してとライバルになれたことが本当に嬉しいのだと、──まるで、初恋の美しい思い出のようなその話を聞かされた時に、俺は丸藤に嫉妬して、それはに言うべきでは無いと、……咄嗟に、友人として最低なことを言ってしまった。
 そんな俺の思惑などは知らずに、丸藤は素直にそれを助言として聞き入れてくれて、──俺はそれでますます、に気持ちを伝えられなくなってしまったのだ。
 
 俺は自分の思ったことを他人に伝えるのが下手だったから、丸藤も吹雪も、それにも、きっと気付いていなかったと思うけれど、──特待生寮で過ごしていたあの頃からずっと、俺はのことが好きだったよ。
 もしも、幼少期からこの子が俺の側に居てくれたならどんなに良かったことだろうと何度も思ったし、の家族になりたいと、飽きるほどにそう思い願ったよ。
 俺が誰よりも彼女を理解していて、とは俺が一番仲が良いと言う自負もあった、──でも、にとって俺は魂の片割れであり、兄弟であり、──恋焦がれる相手にはなり得なかったのだと、彼女を見つめているうちに、俺はそう気付いてしまった。
 ──いつからだろうか、が丸藤を見つめる目が、微かに熱を帯びていたのは。
 と丸藤はいつもデュエルで競い合って、それどころか筆記試験の結果や体育の授業、ドローパンの引きでさえも二人はいつも子供みたいに張り合っていて、周りがハラハラするほどに口論ばかりしていたけれど、──でも、二人がそうして喧嘩ばかりしているのは決して不仲だからと言う訳じゃなくて、お互いを尊敬し合って対等な間柄を築いているからだって、──その根底には互いへの好意があるからだって気付いていたのは、……多分、二人の周りでは俺と吹雪だけだったと思う。
 そして、の方は長らく無自覚だったみたいだけれど、──丸藤の方は、早い段階でへの好意をしっかりと自覚できていた。……そりゃそうだよな、丸藤にとっては、数年越しに再会した、初恋の相手みたいなものだったんだから。
 だからこそ、吹雪は二人の仲を囃し立てて、恋仲にしようと企んでは俺のことまで巻き込んできたけれど、──俺は本当にそれが苦痛で、でも、嫌だとも言い出せなかったのだ。……だって、俺は一番近くでを見ていたから、……が丸藤を好きなことだって、最初に気づいたのは、俺だったから。
 
 ──ああ、このまま順当に行けばきっと、二人は恋人同士になるんだろうなあ、……嫌だなあ、そんなの見たくないなあ。
 だって、恋人が出来たらもう、俺のことなんかどうでも良くなるだろ? どんなに俺と仲が良くても、丸藤がそれを嫌がったりしたら、は俺と一緒にいてくれなくなるんだろう? ……だって、友達よりも恋人の方が大切だもんな? の“好きなひと”になれなかった俺は、……いつか、彼女にとっての一番大切な相手じゃなくなるんだもんな?
 ……嫌だよ、そんなの。が俺を無かったことにするなんて、忘れるなんて嫌だ、友人として俺に良くしてくれた丸藤を嫌悪するようになるのだって嫌だ、吹雪が二人を祝福するのも嫌だ、……全部、嫌だ! ──俺は、そんな未来が来るのは、絶対に嫌だ!
 ……大切だったんだ、忘れられたくないとそう思うほどに、誰よりも大切だった女の子は、……でも、俺のことを好きになってはくれなかった。
 だから俺は、彼女に背を向けた。──俺の方からを忘れて仕舞えば、が誰を好きになろうと平気だとそう思ったのに、──どうして俺は、ダークネスへと逃げ込んで尚、扉の向こうで丸藤が与えた光を大切そうに抱きしめるの姿を見つめて、呆然と立ち尽くしているんだろう……。
 ──どうして俺は、こんな場所に逃げ込んでもまだ、苦しいんだろう。
 ……どうして俺は、今更、が此方に気付いてくれないことが、哀しいんだろう……?
 の心の部屋にもう俺はいない、俺は彼女に光を与えられなかったから、彼女は俺を忘れたんだ、……だったら、俺ものことなんて忘れて仕舞えば良いじゃないか……こんなにも報われない執着なんて、愛なんて、恋なんて、……全部ゴミだと思って投げ出して仕舞えば、それだけで済む話じゃないか……。

「──優介?」

 ──それでも結局、俺はを見つめることをやめられなくて、それからどれだけの長い時間、彼女が白い部屋の中で泣いたり笑ったりしているのを俺が傍観していたのかは分からないけれど、──あるとき、突然の心の部屋には、得体の知れない光が転がり込んだ。
 それは丸藤でも吹雪でも、他の誰かでもなく、──その光が放つ気配は妙に気味が悪くて、──俺はあのとき、本能的にそれをに近づけてはならない気がして、咄嗟に扉を潜ってその光源──破滅の光の残滓からを庇ってしまったのだ。
 ──どうして、そんな風に身体が勝手に動いたのかは分からなかった、……いや、認めることが出来なかっただけかもしれない。
 でも、──突然部屋の中へと押し入って彼女の手を掴んだ俺を見上げて、──は、まるであの日から一日も時間が空いていないかのような素振りで笑って、俺の名前を呼んだのだ。
 ──それは、あまりにも幸福で、夢のような時間だったし、実際、ほとんど夢のようなものだったのだろう。
 彼女の心の部屋で行われている誰も知らない逢瀬の間、が俺の名前を呼んでくれる間は、どうしてか俺の服装はデュエルアカデミアの制服に戻っていて、ダークネスの黒装束ではなくて、……お陰でその時間だけは、あの日からの延長線上のように、自然な素振りでに接することが出来た。──ダークネスの力に縋らなくとも、苦しいことを全部忘れられるような気がした。
 ──けれど、が俺へと語り聞かせるのは、デュエルアカデミアを卒業して、プロリーグで戦う彼女の日常についてばかりだった、から。

「──それで、昨日の試合の後で、亮ったらね……」

 ──恋焦がれる相手から──好きすぎて気が狂いそうだからこそ、存在ごと忘れてしまおうとまで思っていた女の子から、……恋人の話を聞かされる俺が、その時間にどれほどの苦痛を感じていたことか、無邪気に笑っていたはきっと知らないのだろう。
 ──俺が彼らの前から姿を消した数年の間に、──は、丸藤と恋人同士になっていた。
 あの頃、まだ感情の機微に疎く自身の恋心にさえも無自覚だったのは最早嘘のようで、今のは丸藤のことを好いている自らの気持ちをはっきりと自覚できていて、二人はライバルとしてだけではなく、恋人としても上手く行っている様子だった。
 ──そんな風にの話を聞きながら、俺は此処まで来て尚も、その事実に心底嫉妬していて、……でも……。

「──優介、もうすぐね、亮は死んでしまうのですって……」
「……は? そんな訳無いだろ、丸藤は滅多に風邪も引かない奴だったのに……?」
「うん……でもね、デュエルを続ける限り、もう長くないって……」
「……だったら、デュエルを辞めてくれ、って言ったのか?」
「そんなの、言えないよ……」
「どうして、そんなこと……が頼めばきっと丸藤だって考え直すだろ? あいつは、お前のことが好きなんだし……」
「無理よ……だって亮、私と同じくらいにデュエルが好きじゃない。……それに私も、デュエルをしているときの亮が、一番好きだもの……」
「…………」
「どうしよう、優介……私、亮に引導を渡してやるって言っちゃった……そんなの、全然自信ないよ……だって、死ぬのは痛いよ、亮を殺すなんて、そんなこと、私には出来ないよ……」
「……そんなこと、しなくて良い! だって……がそんなことする必要ないだろ!? 丸藤だって、まだ助かる道があるかもしれないだろ……!?」
「でも、約束したもの……私がやらなきゃ……ちゃんと送り出して、いつまでも亮のことを覚えているって、大好きでいるって……そう、約束したんだもん……」

 ──なんでお前は、そんなに真っ直ぐなんだろう。……なんでお前らは、そんなにも歪みない軌道で生きていけるんだろう? ……俺には、そんなのって全然叶わなかったのに。
 やがて、異世界へと旅立ったは、現実では気丈に振る舞いながらも、心の部屋では毎日泣いていた。仲間たちを次々に失って、吹雪が死んでしまったと泣いて俺に縋るを見たときに、──もしも俺が、ダークネスへと手を伸ばさずに彼女の側に残っていたのなら、を支えることが出来たのだろうかと思わずそう考えて、──すぐに、そんなはずがない、俺はにとってゴミと同じなのだとそう思い直したけれど、──でも、丸藤が異世界で死んだときには、流石にもう、黙って見ていることが出来なかった。
 丸藤が死んで、その直後にユベルの手で攫われたもまた命の危機に晒されて、──俺は咄嗟に、やっぱりを此方側に連れ去るべきだと考えて、全部忘れてしまおうと彼女への説得を試みたものの、──結局は彼女の精霊、カイバーマンの妨害を受けて、──俺は、心の部屋の中から、が谷底に堕とされるのを黙って見ていることしか出来なかった、から。

 ……俺は、どうすればよかったんだ?
 ダークネスへと手を伸ばさなければ良かったのか、……そんな訳がないだろ、今更そんなことを言ったってもう遅いだろ、……俺は、正しかったはずだろ!?
 ──なら、俺は今から、どうすれば良い?
 現実世界へと辛うじて生還したは傷付き切っていて、──それを見た瞬間に俺は、……ほら! やっぱり丸藤のことを忘れた方がは幸せだったんだ! ──と、そう思ったのに、さあ。
 それなのに、──あれほどの絶望に晒されて、再度手に入れた未来をまたしてもダークネスに奪われたと言うのに、どうしてお前は──この期に及んで、丸藤との未来を夢見ていると言うんだろう。……どうして、お前は、その未来に吹雪を、──俺のことを、含めようとするんだろう。
 ──どうしてお前は、こんな暗闇の中でも、まだ眩しいんだ?

 ──バトルロワイヤルルールにお前を誘ったのは、──俺がを味方と思いたいからだって、そう十代から指摘された瞬間に心が凍り付いたのは、……結局、それが図星だったからなのだろう。
 だって俺は、……を助けたかったんだよ、守りたかった、お前にこれ以上苦しんで欲しくないって、本当はそれだけだったはずなんだ。
 それなのに、お前は俺の手を払い除けて、自分を殺して見せろとそう叫んで、──そうして、俺は本当に、のライフをゼロにしてしまった。
 ──違う、違うんだよ、
 俺はお前を殺そうとした訳じゃないんだ、……だって、お前は残りライフ700まで追い詰められていたんだぞ、普通に考えればさあ、そこまで追い詰められたら、俺に寝返ろうってそう思う筈だろ? 旧知の仲である俺なら、縋れば助けてくれるって、お前は賢いんだから考えたらそのくらい分かるだろ? ……なんでだよ、。俺はお前を苦しめたかったわけでも、殺したかったわけでもないのに、……あんなに勝利への執着で気を違えていたお前が、どうして。……丸藤にも譲らなかったそれを、俺なんかに易々と差し出せたんだよ……。
 ……違うんだよ、。俺はお前が降伏するのを見たかっただけなんだ、こんなに眩しくてきれいで穢れないものだと勝手な幻想を寄せているお前も、所詮は俗人だと、俺と同じだとそう実感したかっただけなのに。
 ──どうして、お前は俺に撃ち倒されて、──意識を失って、其処に斃れているんだよ……。

 ──俺は、を、殺してしまったのか?
 ……こんなんじゃ、やっぱりもう戻れない、……どうしようもない、俺はもうやり直せない、もう、全部遅い……。
 ──でも、もう、……ピクリとも動かない彼女を其処に薙ぎ倒したその瞬間から、どうしてか己の輪郭が揺らいで、デュエルは精彩を欠き、ヨハンの、十代の、──オネストの声が、妙にはっきりと頭の中に響いて──。
 
「──そうだ、マスター! 僕たちはあなたを迎えに来たんだ」
「……っ、もう遅いんだ……遅い……!」
「いや、絆がある限りやり直せる! ──見ろ! レインボー・ドラゴンと、ネオスを融合!」
「何……!?」
「レインボー・ネオスを召喚!」

 ──そうだよ、今更奇跡なんて起きるはずがないだろ、希望はとっくに潰えたんだ。
 でも、──でもさあ、十代の言うことが本当だったならどんなに良いことだろうって、……俺は本当はのことを忘れたくなかったんだって……に、吹雪に、丸藤に、──オネストに、俺のことを忘れて欲しく無かった、彼等の輪の中でずっと笑っていたかったんだって、……本当は、只それだけだったんだって、──そんなの、今更気付いたって、もう、取り返しが付かないのに……。

「……ゆ、う、すけ……」
「! 、お前、意識が……!?」
「……優介……お願い、いっしょに帰ろう……?」
「…………」

 ──十代やオネストの声で目を覚ましたのか、倒れ込んでいたが突然、苦しげに起き上がって、ふらふらと俺に歩み寄ろうとするものだから、──俺はもう、それを見ていられなくなって、彼女の元へと、勝手に足が動いていた。
 ──オネストはずっと、本当に、俺のことを忘れないでいてくれたのか?
 ──はこの先ずっと、何度でも俺を思い出してくれるのか?
 俺がの一番じゃなくても、俺は、……こうしてお前に手を差し伸べて貰えるのだと、崩れ落ちるお前を支える役目は俺でも良いのだと、……今更、こんな俺がそう思っても、……本当に、許されるのかな……?

「……オネスト、……ありがとう……」
「……おかえりなさい、優介……」


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