幸福が帰る場所

 ──幼い頃からずっと傍で見ていたからこそ、俺は彼女のことを本当に強い子だなあと、そう思っていた。
 ……だって、初めて出会った日のと同じ年の頃、俺はまだ、兄サマの陰に隠れてばかりだったような気がしたから。

『──、です。かいばさまの子どもとして、引き取られることになりました。よろしくおねがいします、モクバさま』

 ──未だ、幾らかのたどたどしさが残る話し方で言葉を紡ぐ、俺よりも何個か年下の女の子は心から不安そうに、それでも、この家に相応しい人間になろうと子供ながらに必死に振舞っていたのだろう。
 ……だからなんとなく、俺はさ、……ああ、その気持ちわかるなあ、なんて風に思ったのだ。
 海馬の家に引き取られた頃の俺は、剛三郎にとっては兄サマのオマケみたいなもので、兄サマの努力のおかげで家に居られたという、それだけだった。
 やがて、会社経営の権限が兄サマに移ってからも、俺は大した貢献は何も出来ずに、いつも兄サマだけを頑張らせて、兄サマに護られてばかりで、……俺が副社長と言う自覚をしっかり持てたのは、多分、それからずっと後になってからのことだったような気がする。
 ずっと、兄サマの手助けになれない自分が嫌だとは思っていたけれど、だからと言って、兄サマのためにああしよう、こういう形で俺がサポートに回ろう、だとか具体的なことを考えられるようになったのは、まだつい最近のような気がするのに、なあ。
 だと言うのに、──という女の子はと出会ったときには既に、その心構えを固めていたのだ。……震える声で、それでも、海馬の家に相応しく堂々とあろうと、必死になって少女はその場所に立っていた。
 ……だから、すぐに分かったんだ、兄サマがを気に入って、引きとることにした理由が。
 ……きっと、は、あの日の兄サマなんだな、って。

『かいばさまのごきたいに、そえるように、わたし……』
『──うーんと、、そうじゃないだろ?』
『え……?』
『海馬様、じゃなくて父サマ、だぜぃ。は兄サマの娘になったんだからな!』
『とう……さま?』
『で、俺はそうだなー、流石にまだ叔父サマって歳じゃないもんな、……あ』
『?』
『俺のことはさ、兄サマ! って呼ぶといいぜぃ! 俺は今日からの兄サマだ!』
『にい……さま?』
『おう! 、これからはモクバ兄サマになんでも頼っていいからな!』
『モクバ……にい、さま……』

 震える声で、噛み締めるように呼ばれたその呼び名は、……本当に、誇らしかった。この子が俺を兄と呼び慕ってくれることが、俺は心から嬉しかった。……だからさ、俺は思ったんだ。

『モクバにいさま……!』

 ──が、あの日の兄サマだって言うのなら。……あの日、兄サマにしてあげられなかったことを全部、俺はにしてあげたい、って。

 海馬の家に引き取られてからのを待っていたのは、来る日も来る日も勉強漬けの日々だった。
 学校で習うような勉強は勿論、経営学から帝王学、護身術や馬術に至るまで、何から何までの教育を受けて、更には開発者、メカニックとしての知識も教え込まれていたを見ていれば、兄サマは本気で後継者としてのを育て上げるつもりなのだということは、俺にも分かった。
 ──只、それは一歩間違えれば、兄サマ自身が剛三郎から受けた仕打ちと大差がなくなってしまうことだって、兄サマにも自覚はあったのだろう。
 もちろん、兄サマは決してを虐げたりしていないし、兄サマのそれはを娘として大切に思い、将来に期待を寄せているからこその行動、だったわけだけれど。
 ──でも、それをがどう受け止めるかというのは、兄サマの気持ちとはまた別の話なのだ。……小さな女の子にその環境を受け入れろと言うのは、正直に言って難しい話だった。

「……っう、ひっく……」
「……、大丈夫か?」
「!? も、もくばにいさ、ま」
「あー、目、真っ赤だな、ほら、こすっちゃ駄目だぜぃ」
「う……」

 はまだ小さかった頃、つらいことがある度に、屋敷の中、人気のない場所でひとり声を殺して泣く癖があった。
 俺と磯野はそのことを知っていたけれど、……恐らく、も兄サマの前では泣きたくなかったのだろう。きっと彼女は兄サマに落胆されるのが、愛想を尽かされるのが、怖いのだ。
 そんな彼女を見ていた俺はというと、絶対にそんなことにはならないって分かっていたけれど、のその気持ちには俺自身、身に覚えがあるからこそ、彼女の不安だって嫌と言うほど分かるから、……が泣いていたことも、どうしても兄サマには教えられなくて。

「……また、うまく、できなくて……っ」
「……うん、そっか」
「せっかく、とうさまが、おしえてくれてるのに、わ、わたし……」
「大丈夫、次は出来るようになるよ。な?」
「で、でも……」
「……よし! ! モクバ兄サマとパフェ食べに行こうぜぃ! チョコレートのやつ!」
「え……」
「パフェ、も好きだろ?」
「う、うん……でも……」
「よし、決まり! あ、そうだ……、今日のワンピース可愛いな、スッゲー似合ってるぜぃ!」
「そ、そうかな……?」
「……それな、兄サマが選んだんだ。に似合うだろうからって、には一番可愛いのを着せてやりたいからって、兄サマ言ってた」
「……え?」
「な? ……不器用だろ、兄サマはさ。……だから、大丈夫だ。ほら、行こう、。帰ってきたら、分からないところを俺が教えてやるよ!」
「……うん……」

 ──多分、はこの屋敷での生活が嫌だったとか、苦しかったとか、そういうわけじゃなくて、……只々、あの小さな女の子は、自分の現状を悔しがっていたのだ。
 ……俺にもその気持ちは、よく分かるよ。でもさ、悔しいってひとしきり泣いて、次の日からはまたひとりでも頑張れるあの子は、俺よりずっと強い子なんだ、って思ってた。
 ……だけど、泣きたいくらい悔しくて、どうしたらいいかさえも分からなくなってしまったとき、明日への自信を無くしてしまったとき。……なんでもいいから、少しでもこの子の力になってやりたいと、そう思った。
 が欲しがっているものが、環境の緩和などではなく、それを乗り越えられる自分になることである以上は、俺には精々励まして、背中を叩いてやるくらいしか出来なかったけれど。
 ──俺がしてやれるのは、これっぽっちの幾何かのことだけ、……それでも。きっと、何もないよりはマシだ。だって、誰もいないのと誰かがいるのとでは、全然違うだろ。……それを俺が知っているのは、俺には兄サマがいたから。だからこそ、彼女をひとりぼっちにはしたくなかった。
 は頑張っていることは、俺がちゃんと知っているから、って。あの子にそう、教えてやりたかった。……泣いてもいいんだ、誰かに甘えてもいいんだって、……俺はせめてに、そう言ってやりたかった。

「……ありがとう、にいさま」
「当たり前だろー! 俺は、の兄サマなんだからな!」


 ──幼い日、は俺のことを、屋敷の人間たちの中ではかなり信頼してくれていた、というか、頼ってくれていたと思う。
 だけど、俺がどんなに甘やかしてみても、の方から甘えてくることは殆どなかった。
 それは、が元々、甘え下手な性格だったのもあるし、……寂しいけれど、あの頃のにとって、俺や兄サマは甘えても許される相手、ではなかったと言うところでもあるのだろう。

 ──月日は過ぎて、現在。
 海馬瀬人の後継者として育て上げられた彼女は、リーグ所属のプロ決闘者として活躍している。

 ……多分、あの頃のは、そんな未来が訪れることなんて想像もしていなかったんだろうなあ。
 実際に、昔から決闘者として強くなりたい、という意志こそあれど、は楽しみながら決闘に打ち込むというタイプではなかったから、当時の彼女にはその道だけをひた走るという選択肢はなかった筈だ。
 ──だけど、どうやらそんなを見守り続けてきた兄サマの考えは、彼女とは違ったらしい。

『……何もオレは、その可能性も考えていなかった訳ではない。……只、将来を前にしたときに選べる選択肢は多い方がいいと思ったまでのことだ』

 ──兄サマは、が海馬コーポレーションを継がずにプロになることも、分かってたの? って、俺がそう訊ねたら、あっさりとそのように語っていた兄サマは、……つまるところ、が将来、何になりたいと願っても、その夢を叶えられるだけの器に彼女を育ててやりたかった、というのが、この十年弱の真相だったらしい。
 ……そんなの、そう言ってくれなきゃ分かんないよなあ、と思うけれど。最終的には、兄サマととで話し合って、彼女はプロへの道を選択したのだった。
 その折、一度真剣に話し合ったことが功を奏したのか、以来ふたりは、すっかりと親子らしくなって、……今ではもう、誰の仲介がなくとも仲良しだったし、お互いを本当に大好きなのは誰の目にも明らかなくらいで。

 ──手元でぱらぱらと捲る、今月号のデュエルマガジン。その表紙を飾るは今、旧リーグを脱退し、亮の立ち上げた新設リーグの看板選手として、大会連覇記録を打ち立てる、正真正銘のデュエルクイーンだ。
 リーグ新設の折に、彼女は飛び出すように家を出て行ってしまって、結局は今でも、事務所兼亮の自宅で彼との二人暮らしをしている。
 当時は家出同然の急な行動に、兄サマは酷くショックを受けていたし、磯野も大慌てして、うちは大騒ぎだったんだけどさ。……俺はというと、なんだか、おかしくて笑ってしまったのだ。
 ──だって、ってば亮のことが大切だからって医者を手配して手術の準備を整えて、挙句にはが費用を全額負担しようとしたんだってさ。それで人生を棒に振っても良いと言い切ったは、流石にそれは校長に止められたらしいけれど、結局術後のリハビリにはが付き合って、亮の入院生活もすべてサポートするためにと、旧リーグを脱退してしまったのだ。
 そんなにもとんでもない行動力、どう考えたって、有言実行の鬼である兄サマの背中を見て育ってきた証拠だろ、とそう思ったし、……かつては兄サマがすべてだったあの子に、今はそんなにも大切な相手が居るだけじゃなくて、……それは、兄サマにとっての遊戯のような、最高のライバルなんだぜぃ?
 ──きっとさ、あの日泣いていた少女が、こうも大胆に未来に飛び出せるようになったのは、……兄サマが何もかもを導いて、あの子のちいさな手に掴み取らせてきたからだろ、って思って。……なんだか、俺はそれが凄く嬉しかったんだ。の成長を、改めて感じて、さ。──まあ、それは勿論、またいっしょに暮らせなくなったのは、寂しかったけど。

「──、元気かな」

 彼女が再び家を出てからも、俺達家族は全く会わなくなったわけじゃない。
 今も変わらず、磯野はのマネージャーを務めているし、がうちの屋敷に遊びに来ることも、よくある。──だけど、もすっかり大人になってしまったんだなあ、とこうして噛み締めたとき、……ふと、寂しくなることが、今でもあるのだ。
 ……なあ、、俺はさ、少しでもお前の兄サマになれていたのかなあ、……なんてな。

「──モクバ兄様!」

 ばんっ、と大きな音を立てて突然開け放たれた、副社長室のドア。……天下の海馬コーポレーションでこんなことが出来る人間なんて、どう考えてもこの世に二人しかいない。一人目は勿論、兄サマだ。……そして、二人目は。

「……えっ、わっ、!? ど、どうしたんだよ急に!」
「よかった! 兄様、いたわ! これ、どうしても直接渡したくて……」
「これ……? リーグのチケットか?」
「そうなの、モクバ兄様と父様にね、渡しに来たの!」

 ──そう言って、から手渡されたのは、プロリーグのエキシビジョンマッチのチケット、のようだ。
 突然現れた彼女に驚きつつ、デスクに座ったままで彼女の顔を見上げると、の頬は上気して少し息も上がっているようで、そうも急いでいたのか、……それとも、これはそんなにも見せたい試合のチケットなのか。

「あのね、亮がもう大分回復したからって、今度ね、選手として、復帰することになったの! その復帰戦の相手が、私なのよ!」
「じゃあ、これは……」
「そう! そのVIP席のチケットよ! 父様とモクバ兄様と、それに優介と吹雪にも渡すのだけれどね、どうにか抑えたのよ! 四枚! 絶対に二人には、見に来て欲しいから!」

 ──ああ、多分。……いいや、絶対に、昔のなら、俺や兄サマに、そんなことは言えなかっただろう、言わなかったことだろう。
 だからきっと、をこんな風に明るい女の子に変えてくれたのは、間違いなく彼等だ。こうして、その在り方の変わり様を見る度に、……俺はどうしようもなく、本当に良かったなあ、と何度でも噛み締めてしまうのだろう。
 ──そして、同時に俺は、昔の兄サマのことを、兄サマが、遊戯──アテムと、出会ってからのあの輝かしい日々のことを、思い出すのだ。……彼女のこんな顔を見ていると、どうしようもなく、あの日々が思い起こされてしまう。
 きっと、にとっての彼は、眩くて掛け替えのない存在なのだろう。そして、その彼とずっと競い合って、寄り添い合って生きていくことを決めた彼女は、きっと、ずっと、こうして笑っていてくれるのだろう。
 そして、──そんなにも大切な一戦を前にして息を乱し、真っ先に。……俺と兄サマに見に来てほしい、とこの子がそう言ってくれたこと、俺達に甘えてくれたこと、……その全部が全部、俺は本当に嬉しくて仕方がないんだよ。

「──おう! 勿論行くぜぃ! 兄サマのスケジュールもこの日は空いてるしな!」
「本当!?」
「当然だろ! ていうか、予定埋まってても無理矢理空ける! 大事な試合に、が呼んでくれたんだからな!」
「モクバ兄様……!」

 ──嬉しそうに、目を輝かせるのその周囲が、何故だか酷く、きらきらと輝いて見える。うつくしい、優しい光が彼女を包み込んでいるようで、──それでいて、彼女からその光が放たれているようだった。……それは只、眩しくて。そんなにも優しい視線で、甘えた目で俺を見つめてくれる、彼女は。

「ありがとう、兄様! 大好きよ!」
「おう! なんたって俺は、の兄サマだからな!」

 ──大切な大切な、俺達の光。は俺の、大好きな妹だ。 inserted by FC2 system

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