零れたらすくえばよかっただけの話

 ――たった一度の、過ちだと思っていた。

 一年前、職場であるセキエイ高原リーグの忘年会で、四天王のワタルさんと、隣の席になる機会があった。全く接点がない、というわけでもないけれど、裏方の私と違って、ワタルさんは、四天王だし。四天王の面子では最年少ながら、大将役を務め、フスベの由緒正しい家柄のご出身だというワタルさんは、――まあ、なんというか、平たく言うと当時、少し、職員から恐れられている方、だった。決して、悪いひとではないのだけれど、一般人からすれば、近づき難いところが、どうしても、あったから。――だから、私がワタルさんの隣に座っていたのは、一種の人身御供のようなもの。でもまあ、四天王のみなさんがいてくれるから、私たちはリーグ職員としてやっていけているわけだし、こういうときくらい、まあ、接待しますよ、良いですよ、と。そう思って、ワタルさんにお酌をして、返杯を受けて、そのうち揃って、出来上がってきてしまって。
 ワタルさんが私を送っていくと言ったのか、職員の立場上、私が責任持って、ワタルさんを送り届けようとしたのか、そのどちらだったのかさえ、正直、定かではない。記憶に、ないのだ。――翌朝、何故、ワタルさんの自宅で、彼のベッドの上で、ふたり揃って裸で、すよすよと寝息を立てて眠るワタルさんの腕の中で、自分が寝ていたのか、私は全然、覚えていなかった。そんなまさか、何かの間違いかな、とも思ったけれど、シーツの上には、使用済みのコンドームがいくつも落ちていて、脱ぎ捨てたように、衣服が床に散らばっていたし、足の付け根にはなにか液体が乾いたような、べたべた半乾きの不快感が、纏わりついていて。

 ――結果から言うと、私は逃げた。
 だって相手は、四天王なのである。何をやらかしたのか分からないけれど、下手をしたら、私の首、飛ばない? と、思いっきり保身に走ってしまった私は、手早く身支度を整え、散らかった部屋を片付け、ワタルさんが起きない内に、彼の自宅を抜け出した。戸締まりをしていないのが、少し心配だったけれど、まあ、ワタルさんなら平気だろう。あのひと、誰かが入ってきたとしても、不審な物音があれば、すぐに目を覚ましそうだし。――あれ、だったらどうして、私が抜け出したの気付かなかったんだろう……なんてことも、思ったけど。

 一度自宅に戻ってシャワーを浴びて、服を着替えて、化粧をして。何事もなかったかのように、職場に出勤する。もしかしたら、顔を合わせないかも、と、思ったりもしたのだが、――なんと、関係者用ゲートの前に、ワタルさんが立っていたのだった。――まあ、普通に考えて、どんな理由があろうと、素通りなど出来るはずがない。相手は四天王で、私は一般職員なのだ。偉い人と、したっぱなのだ。ばちり。ワタルさんと目が合うと、彼は此方に向かって、大股で歩み寄ってくる。ああ、いっそこのまま、バトルが発生してくれたら、ボコボコにされるだけのイベントだったなら良かったのに、社会的にボコボコにされるのは、――やっぱり、ご勘弁願いたくて、咄嗟に平然を装い、私はワタルさんに向かって、いつもどおりに、にこやかに挨拶を投げかける。

「あ、おはようございます。ワタルさん」
「……ああ、おはよう、
「忘年会だったっていうのに、今日も仕事なんて大変ですよね」
「それは、お互い様だろう?」
「あはは、まあそうですね。お疲れ様です」
「……なあ、きみ」
「はい、なんでしょう?」
「……なにかおれに、言うことがあるんじゃないのか?」

 そう、投げかけられた言葉に、ぞっ、とした。――いや、だって、ねえ。どんな言葉を、お求めだというのでしょうか……。返答次第によっては、生きて帰さないとか、許してはおかないとか、そういう……?

「……あ、」
「…………」
「……あ、はい。本日も公式戦、頑張ってください。応援しておりますので!」
「……は?」
「え? ですから、応援しています、と……」
「……それだけ、なのか?」
「ほ、他に何か、お求めでしたかね……」
「……いや、そういうことなら、構わないさ。じゃあ、おれは持ち場に戻るよ」
「あ、はい……お疲れ様です」
「ああ、ご苦労さま」

 ――決して許されない、失礼なことをしてしまったのだろうな、ということは、よく分かる。ワタルさんは、謝罪を要求していたのかもしれないし、私も大人しく、頭を下げるべきだったのかもしれない。――でも、ここは、ひとつ。……無かったことにしていただけると、正直、滅茶苦茶ありがたいわけですよ、私的には! これ、もしも男女が逆だったら、本当に洒落にならないけど、女側は私だし、だったら、まだ許されるんじゃないか!? お互いに、良い大人だし、ということで、どうかここはひとつ……と、そう、思ってしまって。――そうだ、只、お互いに、無かったこと、にしてしまえば、それだけで、解決できるんじゃないか、って。この後に及んで、私は自分の都合を、ワタルさんへと押し付けたわけである。――ワタルさんは、悪い人ではないし、基本的に良い人で、ただ少しだけ、気難しくて、気位が高い。ドラゴンタイプを従える彼は、竜の如きプライドの高さを、併せ持っている。だからやっぱり、白黒付けて罰さなければ、気が済まないのかな……とも、思ったのだが、――結局、そのままワタルさんは、私を見逃してくれたようで。その日以降、問い詰められることもなければ、その話題に触れてくることすら、無かった。そうして元通り、特に何の問題もなく、私はセキエイでの仕事を続けて、ワタルさんもそれは同じで、まあ、そもそもワタルさんは、日頃、リーグ最奥で控えている人だから、顔を合わせること自体が少なく、あれ以降は、大きな飲み会の席も無かったので、何事も起きなかった。――それが、大きく動いたのが、一ヶ月前。ワタルさんがチャンピオンに就任したことで、リーグの体制が変化し、彼の姿を施設内で、よく見かけるようになってきたこと。――それから、ワタルさんから、以前のような気難しさが減ってきて、話しやすいひとになってきたことが、理由だった。

「あ、おはようございます、ワタルさん」
「ああ、おはよう、

 何事もなかったかのように、というか実際にもう、何事もなかったものとして、ワタルさんとお話できているし、最近は少し、話す機会が増えてきたくらいだ。いやあ、あんな真似をしておいてどの口で? という感じだけれど、最近のワタルさん、本当に話しやすくて、時々、私を見かけて話しかけてくれたりするのが、ちょっと嬉しかったりも、するのだよねえ。給湯室でお茶を淹れていたら、同じ目的で立ち寄ったのか、マグカップを片手にワタルさんが現れて、成り行きで、ワタルさんの分も珈琲を淹れることになり、その流れで、彼と軽い雑談をしていた。お湯を沸かしながら、珈琲豆の封を開けて、ああ、ついでに戸棚のクッキーもお出ししようかな、なんて。――ワタルさん、お茶汲みなんて、その辺りの職員に任せればいいのに、自分で出向く辺り、本当に律儀なひとだなあ。

「あ、そういえばワタルさん、タマムシに新しく出来た店、知ってます?」
「ん? なんだい?」
「ポケモンのおやつを扱ってるらしいんですが、他の地方の珍しいものも色々と置いてるみたいなんですよ。私も今度、自分の手持ちに買ってあげようと思って」
「へえ、そんなに評判が良いんだ?」
「みたいですよ。あ、よかったらワタルさんの子たちにも買ってきましょうか? 次の休みに、行こうと思っているので」
「……いや、それはお断りしようかな」

 本人には、絶対に言えないけれど。あの宴会の席で話したときから、実は案外、話してて楽しい人だなあ、なんて思っていた。少しばかり気難しくもあるけれど、気さくで、良いお兄ちゃん、といった人柄で。私があのとき、咄嗟に逃げてしまったのは、そういう理由もあったのだと思う。――こんなに良い人に、なんてことをしてしまったんだろう、とか、好かれずとも嫌われるのは嫌だ、とか、そういう、理由だ。ワタルさんの人柄が、私は結構好きで。だから、職員として、でしかないけれど、こうして時々、構ってもらえることが嬉しくもあって、欲を言えばもう少し、仲良くなりたい、と。――そう、思っての提案を、退けられてしまって、――はっ、とした。いや、そりゃそうだよ。ちょっと勘違い、しちゃってたな。水に流して、普通に仲良く、なんて。いくらなんでも、虫が良すぎた。口を利いてもらえているだけでも、感謝しないといけないくらいなのに。

「……すみません、調子に乗りましたね。お店の場所をお教えするので、気が向いたら覗いてみてくださ、」
「いや、そうではなくてさ。……おれも一緒に行ってもいいかな? って、そう、言いたかったんだ、おれは」
「え? あ? ご、ご一緒に、ですか?」
「うん、なにか不都合があるかな?」
「いや、……えーと、不都合、ではないですが……」
「……また、おれと二人きりになったら、何かあるかもしれないから、かい?」

 ワタルさんと一緒に出かけるの、まあ、楽しそうではあるし、嫌なわけではないの、だが、――と、言葉を濁していたら、突然、核心を突かれて、ひゅっ、と小さく喉が鳴った。え、今、ワタルさん、なんて、いや、ばっちり聞こえてましたが……。

「え!? い、いや違いますよ!? まさかそんな、大丈夫ですよ! ワタルさんにも、選ぶ権利があるのは重々承知してますし、やだなあ、はは……」
「……そうだね、おれには選ぶ権利があるよ。それに、果たすべき責任もある」
「はい……?」
「プライドが邪魔をして、はっきり言えなかったんだ、当時は。……、おれは、きみと結婚しようと思ってる」
「……はい!?」

 急に何を言い出すんだ、このひとは!? え、もしかして、ワタルさん、責任を感じていらっしゃる感じ!? いや、よく考えれば、それはそうか……曲がったことが大嫌いで、卑怯者は許せない、と公言する、我らがチャンピオンだもの、そうだよ。……それは当然、責任だって感じる、よね……?

「い、いやワタルさん、大丈夫ですよ、早まらないで……」
「何が大丈夫なのかな? おれは、大丈夫ではないよ。きみがあまりにも必死でおれを避けるから、全然、大丈夫じゃなかったとも」
「さ、避けたわけじゃないんですよ!? で、でも、その、無かったことに……したほうが……お互いのためだと……」
「……お互いのため? 嘘だな、きみのため、だろ」
「……いや、それは……」
「……当時、おれは四天王として、結構、気疲れもしていてね。あの晩、久々にぐっすり眠れたんだよ。が隣に居ると、不思議と安心した。それこそ、おれが寝ている間に、きみが居なくなったことに気付かないくらいにね。傷付いたよ」
「……あの、」
「当時の俺は、ここまで神経が図太くなかったからね。突き放されて、それ以上、追う気にはなれなかったけど。……でも、今のおれは、違うよ?」
「……な、何が……違うんでしょう……?」
「ん? 知りたいかな?」
「い、いえ! 謹んでご遠慮します……!」

 ワタルさん、にこやかに笑っているけれど、――目は全然、笑っていない。珈琲を淹れるために、火にかけていたケトルが、しゅんしゅん、と音を立てていて、――ああ、沸騰させすぎて、このお湯、すぐには使えないな、と。ますます、気持ちが焦る。この状況、この部屋から、どうにか抜け出したいのに。――ワタルさんから離れる口実が、見つからなかった。

、これだけは言っておくよ」
「は、はい? なんでしょう?」
「おれは、自分に責任があると思っている。でも、その責任を盾にしてきみに迫るのは、卑怯者のやることだ」
「は、はあ……」
「……それと、きみは、一晩の過ちだと思っているようだけど。……おれは、そう思っていない。そもそも、そこまで酔っていなかったしね。きみもそうだと思ってたんだけど、口調はしっかりしてたし……まあ、酔いも動揺も、あまり、顔に出ないタイプなんだと、次の日よく理解したけど」
「……えーと」
「きみが思っているよりもおれは本気で、あの日、きみを抱いたってことだよ、。……きみの肌の手触りも、甘い声も、全部、鮮明に思い出せる」

 壁に背を預けて、少し離れた位置に立っていたはずの、ワタルさんが、気付けば、私の真後ろに立っていて、とん、と彼の指先が、私越しにシンクの向こうの壁を突く。前方には壁、後ろには彼と、横は彼の腕に塞がれて、逃げ場が何処にもない状態で、低く、しっとりと色気を帯びた声が、耳に響いて。腰に響く甘い声に、動悸がして、――私は、思い出してしまった。

『――好きだ、……っ、なあ、どうかおれのものに、なってくれ……っ』

 ――あの晩、私を組み敷いたこの人が、――獲物を狩る竜の眼をしていた、ことを。

「……おっと、おれはそろそろ戻らないと。書類整理の途中でね」
「……そ、そうですか……」
「悪いけど、珈琲、持ってきてもらってもいいかな? おれの執務室に来てくれたらいいから」
「え、」
「そのときに、次の休日の細かい予定を決めようか。じゃあ、よろしくね」
「……え、ちょ……」

 嵐のように去っていったそのひとは、去り際、罠に掛かりにおいで、という恐ろしい言葉を残して、さっさと出ていってしまった。混乱と、困惑だけを残して。ぐるぐると煮えたぎる頭はもう限界で、たとえお湯が冷たくなるまで待ったって、この熱は引いてくれそうにない。ああ、でも、これも、因果応報か。――きっと、一年前に私が、彼に与えた動揺は、これよりもずっと、質が悪かったのだろうから。そう考えれば、やっぱりワタルさんは、優しい方なのかもしれない。――だって、残念ながら、全然、悪い気がしていないのだ、私。それどころか、この後で竜の巣を訪ねることに、浮足立ってさえ、居る。――何しろ、思い出してしまったもので。竜に捕食されることの、心地よさを、だ。逆鱗に触れられた竜のそれは、きっと一等に、凄まじいのだろうと思うと、愚かしいくらいに、心臓が跳ねる。――どうやらわたしは、竜の花嫁になるらしい。 inserted by FC2 system


close
inserted by FC2 system