八十弌分の位置の赦し

 珍しいこともあったものだと思う、その日、リーグでの仕事から戻ってきたワタルさんは酷く疲れていて、久々に早く帰れるからきみの好きなケーキを買ってきたよ、なんて楽しげな口ぶりとは裏腹に、しぱしぱと目を瞬かせて、眠気を堪えているのが丸わかりだった。今週はリーグへの挑戦者が多かったり、他地方への出張があったり、帰り道でトラブルを発見して、そのまま現場を鎮圧してから帰ってきたり、だとか、いつにも増してワタルさんは出ずっぱり、働き詰めだったから。疲れているなあ、と思って、私なりに色々と気を利かせて、就寝に合わせてハーブティーと湯たんぽを用意しておいたり、精の付きそうな献立にするように心がけたり、マントやユニフォーム、ボールやブーツなど、さり気なく彼の代わりに手入れを終わらせておけるものは、ワタルさんが入浴している間などに手入れを済ませておいたり、カイリュー達のグルーミングを手伝ったりだとか、……まあ、全部いつもやっていることと何ら変わりがないので、今週のワタルさんにとって、私が特別力になれていたか、と問われたなら、正直分からない。
 そして、そんなこんなで、どうにか今週を乗り切って金曜の夕方、いつもより早い時間にワタルさんは我が家へと帰ってきた。おれもこんなに早く帰れると思わなかったんだけどね、という口ぶりからして、お疲れのチャンピオンを見かねた四天王の方々かリーグの職員さんあたりに、早めの帰宅を促されたんじゃないかなあ、と思う。

「せっかく早く帰ってこられたし、たまには奥さんを労らないとな。なにか手伝うことはあるかい? 夕飯の買い物があれば、ひとっ走り行ってこようか」

 玄関先で、ケーキボックスと彼のマントを受け取ると、ワタルさんはそんなことを言って、笑って見せるものだから、私は怒って、ぐいぐいと彼の背中を押して、寝室へと押し込んでしまった。待ってくれ、おれはそこまで疲れていないから大丈夫だよ。きみが働いているのにおれだけ寝ていられないだろう。なんて、分からず屋のワタルさんには、罰として、たっぷりと休息を取って貰わないといけない。自分を二の次にしてしまいがちのこのひとを、一番に優先して労ることが、妻としての責務だし、私の特権なので。ワタルさんにだって、その権利は侵害させてあげないもの。

「少しお休みになってください、夕飯とお風呂の用意が出来たら起こしますから」
「ああ、分かってる、風呂も夕飯も支度はまだだろう? おれもそれを手伝うよ。そんなに疲れていないし、おれは大丈夫だから……」
「……ワタルさん、いつも私に言いますよね?」
「うん?」
「私のことが大切だから、いくら私自身にでも、私を蔑ろにされるのは許せない。そうなんですよね?」
「ああ、その通りだよ。を粗末に扱われるのは許せないな」
「私も同じです、と言ったら、分かってくれます?」
「……そんなに、疲れているように見えるのか?」
「ええ、とっても」
「参ったな……情けない」
「そんなこと言わないでください。私はワタルさんのお嫁さんなんです、あなたに私の前でも気丈でいて欲しいとは、これっぽっちも思ってません」
「……
「だから、誤魔化さないで。……言う通りにしてくれますよね?」
「……ちゃんと、起こしてくれるかい?」
「当たり前です」
「そういうことなら、少し休もうかな……」

 観念して、寝室に下がるワタルさんに、クローゼットから部屋着を取り出して持って行くと、ベッドに腰掛けているワタルさんは、やっぱり大分ぼんやりした風で、ユニフォームのジッパーを下げる手付きも、何処か覚束ない。ワタルさんの衣装は、耐火やら対戦闘を想定して誂えてあるので、元々ジッパーは普通のものより固く、頑丈に作られており、開けるのにもちょっとしたコツが要るのだ。ワタルさんの代わりに上着のジッパーを下げ、ウエストの部分で切り返しになった、つなぎ型の彼の衣服を腰まで脱がしてから、どうぞ、と言って着替えを手に渡したものの、ワタルさんはぽやぽやした目で、きみが着替えさせてくれないか、なんて言うのだ。本当に眠くてぼうっとしてしまっているのか、私の反応を見て楽しんでいるのか、そのどちらかは分からないけれど、ワタルさんが私に何かをお願いしてくれるのは、とっても貴重なので、良いですよ、と返事してそのまま彼の衣服を着替えさせていく。着替えを終えて、少し乱れた前髪を手で降ろしてあげてから、彼が脱いだユニフォームと靴下を畳みながら、うとうと船を漕ぐワタルさんに横になることを促して、ブランケットを掛ける。

「夕飯、なにかリクエストはありますか?」
「そうだな……きみの作った、茄子味噌炒め、が、たべたいな……」
「分かりました、出来たらちゃんと起こしますから、ゆっくり眠ってくださいね」

 眠いからか、私に念を押されたからか、或いはその両方か。平時より甘えたなワタルさんが可愛くて、ちゅっ、と前髪にキスを落として、ぽんぽん、とブランケットの上から胸を叩き、電気を消して寝室を後にする。よし、決めた、今日はもう、ワタルさんをめいっぱいに甘やかしちゃおう、夕飯もワタルさんの好物ばっかりにしちゃおう、と。そう、ちいさく決意し部屋を出てキッチンに向かうと、私は意気揚々と夕飯の支度に取り掛かるのだった。

 メインはワタルさんのご要望通り、茄子味噌炒めにして、お味噌汁はミョウガと油揚げ、ほうれん草のお浸しと、イカと大根の煮物、冷奴、ご飯はとうもろこしご飯にして、お漬物も出して、食後にはワタルさんが買ってきてくれたケーキもある。良いご飯だ、と達成感に満たされつつ、夕飯の支度の間に、お風呂も湧いたし。そろそろワタルさんを起こしに行こうかな、と。唐紅のエプロンを外して椅子にかけてから、寝室へと向かう。こんこん、と控えめにノックしてから寝所へと入室すると、お布団はこんもりと盛り上がっており、キングサイズのベッドの真ん中で、ワタルさんはすうすうと寝息を立てて眠っていた。本来の彼は、他人の気配や殺気に敏感で、傍に近寄られるどころか物音がしただけで目を覚ます、というような人物らしいのだが、私が部屋に入ってきても、ぐっすりと眠る穏やかな寝顔を見ていると、許されているのだなあ、と。どうしようもなく、胸が満たされる。ワタルさん? とちいさく呼びかけて、つん、と頬を突いてみるけれど、起きる気配は全く無くて、これは、結構深い眠りに入ってしまっているらしい。そう思うと、起こすのは少し憚られる気がする。どうしよう、お風呂に入って身体を解して、ご飯を食べてからもう一度寝てもらったほうが、きっと身体は休まると思うけれど。最低限、楽な格好に着替えてはくれているから、まだ眠っているようなら、そのままにしておいてあげたい気もする。できたてのご飯を食べさせてあげたいなあ、食べて欲しいなあ、とも、思うけれど。まあ、それは私がこのまま起きていて、ワタルさんが起きたタイミングで、夕飯を温め直してあげたなら、それでいいわけだし。起きてほしいなあ、というのはちょっと、私のわがままで。寝ていてほしいのも、まあ、やっぱり私のわがままなのだけれど。

「……ワタルさん」

 規則的な寝息を繰り返す彼は、元々肺活量があるからなのか、胸が大きく上下していて、ゆったりとしたその一定の動作をぼんやりと見つめていると、不思議と心が落ち着く。ベッド脇に膝を付いて、す、とワタルさんの額に手を伸ばし、卸された前髪をかき上げてみる。普段はかっちりと前髪を上げている彼が、リラックスして前髪を卸した姿を見られるのもまた、私の特権だから、平時よりちょっとだけ幼く見えるこの髪型が、私は好きだ。でも、やっぱり前髪を上げてくれたほうが、額にキスがしやすいので、こうして彼が寝ているときとか、私の好きにできるときには、前髪を上げていてほしい気もする。ちゅ、と額に触れて、凛々しい眉が緩く下がった寝顔に、ふにゃふにゃと、頬が緩む。起きてほしいな、でも、このまま寝ていてほしい。どうしよう、と迷いながら、つつ、と指先でワタルさんの顎を伝い、喉元まで滑らせていると、がし、と大きな手に手首を掴まれた。はっ、としてワタルさんの顔を見つめると、ぼんやり、まだ何処か眠そうな目で、ワタルさんが私を見上げている。

「……おはよう」
「おはようごさいます、まだ寝てても大丈夫ですよ」
「……いや、起きるよ。夕飯が温かいうちに食べたいからね」

 くあ、と欠伸を噛み殺して、そんな風に答えるワタルさんに、ああ、私はこのひとの、こういうところが好きなのだよなあ、としみじみ思った。ワタルさんの素敵なところなんて、そんなの挙げだしたらキリがないほど、いくらでもあるのだけれど、このひとは私の気持ちを慮るのがうまい、のだ。私はワタルさんのことが大好きだから、一緒に居られたならそれだけでしあわせ、だけれど、その上でこのひとは、私がストレスを感じたりしないように気遣ってくれる。それはいつも、些細なことなのかもしれないけれど、例えばこうして、食事は極力できたての温かいうちに食べようとしてくれることだったりだとか、帰ってきてから家事を手伝おうとしてくれることだとか、帰り際によく私の好きなお店でスイーツや、きみに似合うと思って、とちょっとしたプレゼントを買ってきてくれたりだとか、洗濯物を無駄に増やさないようにしてくれること、家事は私がやって当然だと一切思っていないこと、服を脱いだらちゃんと畳むし、物を出したらすぐに仕舞う、冷蔵庫の麦茶を飲みきったら新しく作っておいてくれる、だとか、そんな些細なことが、挙げだしたらきりがないくらいにたくさんあって。そんな彼のひとつひとつが、私に彼の隣を快適で心地の良い場所だと思わせてくれるし、私にはワタルさんしか考えられないなあ、と思わされる、のだ。ワタルさんは、良いひとだけれど、時と場合によっては、容赦がないところもあるし、意地の悪い面も持っている。でも、のことは全身全霊で護って、愛すると決めているよ、という彼は、その言葉が真実であることを、瞬間瞬間で教えてくれる、から。わたしはきっと、彼のそんなところに、一生惚れ直し続けるのだと、おもう。

「……、おれをこのまま寝かしておくつもりだっただろ?」
「だって、お疲れみたいだったので……」
「起こしてくれると約束したから、おれはきみに従ったのにな」
「……ワタルさん、拗ねてるの?」
「ああ、拗ねてるよ。確かにおれは疲れていたけど、それ以上に、とゆっくりするのが楽しみで、急いで帰ってきたんだから」

 口調はそんなふうに、ちょっぴり拗ねた風だったけれど。すっかり眠気はなくなったのか、声ははっきりしていたし、表情は酷く楽しげで、彼の顎の下に添えられた私の手に、すり、と首元を寄せて、ワタルさんはゆるやかにまなじりを落とし、温柔な微笑みで笑うのだ。私の手を掴み、もっと触れてみろと少し挑発的に、されど、その表情は温顔で、――竜使いたる彼は、霊獣の操り手であると同時に、彼自身が竜の化身のような存在で。そんなひとの妻になったのだから、私だって知識として知っている。彼が私に触れさせるその場所は、竜の逆鱗が眠る場所であり、同時に人体の急所だ。竜として、人として、彼は私をすべて受け入れて、許して、隣人として迎え入れている。その所作が求愛であり、同時に赦しでもあることを私は知っている、からこそ。やさしい、ふすべいろのひとみの温度が、愛おしくて。ちゅ、っと彼の首元への、小さな口付けでその情愛に応えた。

「……此方には、口付けて貰えないのかな」
「ご飯とお風呂のあとで、いくらでもしてあげますよ」
「本当かい?」
「本当です。今日はなんでもしてあげますよ」
「……じゃあ、食後は一緒に風呂に入ろうか」
「いいですよ。良い入浴剤があるのでそれも入れましょうね、身体がぽかぽかになるそうですよ」
「……、今日、なんだかおれに甘くないか?」
「今日はね、ワタルさんを甘やかす日にしたんです。だからなんでも、してあげます」
「……はは、そんなの、いつだってそうだろ? は毎日、おれに甘いし、なんでもしてくれるし……」
「ワタルさんも、同じですけどね?」
「……そうだな。確かにそれもそうだ、……はは、おれは幸せものだなあ」

 そんなの、私の台詞なのだけれど、でも、ワタルさんも同じことを思ってくれていたなら、彼にとって心地の良い場所を、私が作れているのなら、いいなあ、と思う。私は、私が彼の隣に居ることに関して、無理はひとつもしていない。全部、好きでやっていることだし、言葉通り、ワタルさんのためなら何だってしてあげたいのだ。でも、例えば、私が体調を崩していたり、落ち込んでいる時には、そんな“いつも通り”を頑張る必要はないよ、って、ワタルさんは私の元気が出るように、労って尽くしてくれるから、そこだって、対等な間柄でいたいの。ワタルさんが疲れているときには、私が癒やしになりたいの。私の前では只のワタルさん、只の私の旦那さん、でいいんだよ。って、あなたに少しでも、伝わっていたら良いなあ、と思うのだ。 inserted by FC2 system


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