汚れることがないので悪い夢は見ません

※幼少期捏造。


 氷山に隔たれ、石垣のような岩山に囲まれる山岳地で、トドメと言わんばかりに古ぼけた吊橋によって隔絶された閉鎖空間。それが、おれの生まれ育ったフスベという田舎町だった。地元はそんな場所だったから、幼少のみぎりには子供だけでこおりのぬけみちを抜けるのも、老朽化した吊橋を渡るのも危険だと言われて、実質的に一族の子供がこの土地から出ようと思ったなら、長に認められてドラゴンを育て、自力で空を駆る力を得ることでしか叶わなかったのだ。尤も、そんな風に研鑽なんて積まなくとも、大人になるのを只待って、只の人として里を出ていくことも、出来た。実際におれは、そういう大人だって幾人も見たさ。トレーナーとしての才が無いだとか、一族の人間として生きていくだけの覚悟がない、だとか。或いは、遠い分家の人間だったりすると、古臭い風習には其処まで縁が無かったりもする。……だが、おれはその限りではなかった。本家の嫡子に生まれたからには、おれが次の里長だ。おれの意志とは無関係に定められていたその処遇を、疎ましく思ったことも、正直ある。まだ子供だった頃は、修行が嫌でじいさんと何度も何度も喧嘩したさ。どうしておればかり、こんなにも理不尽な修行を強いられなきゃいけないんだ? と思ったことが、何度だってあった。そんな風に不貞腐れている子供に向かって、周囲の大人たちはしきりに、ワタル様は長老様の若い頃にそっくりだ、と。そればかりを、唱えるものだから。だったらおれじゃなくて、じいさんでいいじゃないか、と思っていたのだ、昔はずっと。ワタル様、ワタル様、と遥かに年上の大人たちから、一族中どころか、里中から向けられる“特別な人間”という期待と重圧が、煩わしくて仕方がなかった時分が、おれにだってあった。一族の風習、伝統なんて言葉でそれらしく語っているけれど、子供に全てを背負わせて、誰かの偶像を押し付けるやり方は、正式に代替わりしたときにおれが変えていかないとなあ、と今でも思っているくらいには、当時の幼いおれは、そんな毎日にうんざりしていた。

『……ワタルくん! やっぱりここにいたのね!』
『……。身体は? もう、平気なのか?』
『へいきへいき。どう? 何か釣れた?』
『いや、なかなか釣れないな。場所を変えたほうがいいのかもしれない』

 ワタルくん。そう呼ぶ声はいつだって、厳格に凍て付いたこの里には、酷く不釣り合いな程に暖かかったように思う。はおれの従姉妹で、単純な“序列”で言えば、おれの次席に当たる女の子だった。もしもおれが、一族の継承権を放棄して、何処かに姿を消したなら、恐らくがその席に座ることになるのだろう。事実、おれより少し遅れて長老からミニリュウを託されたは、順当にハクリューまで育て上げてしまっていたし、ハクリューは彼女によく懐いていた。そんなドラゴン使いとしての天賦の才のようなものが、彼女には確かに備わっていたと思う。手持ちに限らず、おれのカイリューや他のトレーナーのポケモンであっても、にはよく懐いていたから、竜の寵愛を受ける加護が、備わっていたのかもしれない、なんて風にも今は思う。

『……昨日も、此処で釣りをしてたんだ』
『? そうなの?』
『ああ。が来るかもしれないと思って、場所を変えずにいたんだよ』
『あ、……ご、ごめんね、ワタルくん……』
『謝るようなことじゃないだろう? 叔母さんに聞いたよ、三日ほど、寝込んでいたって。……本当に、もう平気なのか?』
『うん、大丈夫! ……たまには、バトルしてみようと思ったんだけどね。疲れちゃったみたい』
『そう、か。あまり、無理はするなよ? ……心配、するからな』
『! ……ありがと、ワタルくん。あ、ねえ、釣り場、変えないの?』
『ああ、そうだな。とは言え、此処以外に、良い場所と言えば……』
『りゅうのあなは?』
『……じいさんに見つかったら、どやされるぞ?』
『大丈夫だよ、岩陰なら見つからないよ!』
『……はあ、仕方ないな……も、おれと共犯だぞ?』
『ふふ、いいよ! 行こう、ワタルくん!』
『ああ。……ほら、手を出すといい』
『? はい』
『……は、一人にしておくと危なっかしいからな。こうしておけば、転ばないだろ』
『! うん、ありがとう、ワタルくん……』

 片手に釣り竿とバケツを持って、空いた片手で、小さな手を引いて。おれは子供の頃からずっと、いつでも、のことが心配で仕方がなくて、彼女のことはおれが護ってやらなきゃ、と思っていたような気がする。もっと小さな頃は、まだの身体が弱いこともよくわかっていなくて、おれの遊びに付き合って風邪を引いたが寝込んでしまって、おれはじいさんにしこたま叱られて、なんてことも度々あったけれど、成長していくうちに、どうやらおれにとって普通に出来ることでも、には出来ないことがあるらしい、ということを理解し始めてから、おれは次第に彼女に対して、慎重で過保護になってしまっていた。ミニリュウが釣れるりゅうのあなの泉ではなくて、フスベジム前の池でばかり釣りをしていたのも、がおれを見つけやすいようにするため。がひとりでりゅうのあなにおれを探しに入って、怪我をしたりしないようにするため。本家の嫡子だからといって、まあ里にはそもそも、同年代の子供は少なかったけれど、その数少ない子どもたちにも遠巻きに見られていたから、いつも一人で釣りばかりしていたおれに、だけはずっと変わらずに接してくれていた。おれにとって、彼女の存在がどれほど得難かったことか、なんて。語るまでも、ないだろう。

『ねえ、ワタルくん』
『ん? どうした、
『あのね、……私も、ワタルくんって呼ぶのやめたほうがいい?』

 ……昔、一度だけ、にそんなことを言われたことがある。おれはその時一瞬、彼女が他の人間みたいに、おれから距離を置こうとしているのだと、そう思ってしまって。まるで体中の血液が凍てついたような、ぞっ、と全身が冷えるような感覚を覚えたことを、今でもよく覚えているのだ。だからきっと、あのとき、既に。おれにとっては、掛け替えのないただひとりであったのだろうと、思うのだ。

『……それは、どういう意味だ?』
『だって、ワタルくん、私のこと昔はちゃん、って呼んでたのに、今はもう呼び捨てになったでしょ?』
『え、……ま、まあ、それはそうだが……』
「私も、ワタル、って呼んだほうがいいのかなって……もしかして、ワタルくん、もう子供じゃないからって、そういうの嫌になったのかなって思って……』
『……っ、はは、なんだ、そんなことか……』
『わ、わたしは真剣に聞いてるの!』
『……いいよ、そんなの、の好きに呼んだらいい。いいよ、そのままで』
『え、いいの? ……ワタルくん、いやじゃない……?』
『いやじゃないよ。……おれをくん付けで呼ぶのなんて、くらいだからなあ。……そのままで、いてほしいな、にだけは、さ』

 きみがそうやって、変わらずに接してくれたから、さ。おれは本当に嬉しかったし、それだけでどれほど心が軽くなったことか、分かったものじゃなかった。きみの前では、まるで何のしがらみもなくなったようで、肩が軽くて、何処まででも行けるような気がして。……けれど、事実、はおれみたいに飛び回ったり出来なかったから、里の中でいつも、ふたりでいられる場所を探していた。最初のうちは、大人に見つからない場所を探して。成長するにつれて、大人に見つかっても怒られない場所を選んで。少しずつ、変化しながら、どうにかしておれたちは、一緒にいようとしていたのだ。
 は、おれの従姉妹なのだから当然だが、分家の長女で、家系図的には序列二位で、竜使いとしての潜在能力も申し分なく、勉学も怠らず、……只、周囲と比べると身体が弱くて、厳しい訓練には参加できず、結果としてポケモントレーナーとして、バトルが余り得意ではない、という難しい立場にあった。何も、一族の人間の全てがバトルを得手としているわけでもないが、やはり立場上の理由もあり、彼女にはその腕前が求められてしまうのだ。だからこそ、おれは、自分の立場を不動のものとすることで、彼女に向かう外野の声を振り払おうとした。おれが次の長になる、という確固たる事実が出来上がれば、誰もを責めたりしない。どうしてワタルのようにできないのだ、なんて誰も言わない。……良いじゃないか、はバトルが出来なくたって、ポケモンを育てる知識は天下一品だ。最低限の戦闘しか積んでいないのに、彼女のミニリュウはハクリューに進化している。それこそが、の努力を物語っているだろう。そういう人間が居たって、良いんだよ。全員が同じ地平を目指す必要なんて無い、がいたからおれが居るように、おれがいるからが居るのだと、そうきみも思ってくれたら良いと思う。思想も能力も全然違う人間が集うからこそ、築ける何かもあるのだろう、それこそが、おれたちの一族が築き上げてきた伝統の結晶、じゃないのか。
 そうして、やがて彼女の妹、――イブキが頭角を現したことにより、事情は少し変わってきた。その頃には、おれがセキエイ高原に四天王として招集されることが決まり、おれが里を離れることになったから、自動的に、フスベのジムリーダーを、……彼女たち姉妹のいずれかから選定する、という運びになって。

『……里を、出る?』

 ……そんな矢先、だった。が、そう言い出したのは。

『うん……ワタルくんにだけは、話しておこうと思って』
『……なぜ、そんなことを?』
『……私が居ると、イブキちゃんが苦しむことになっちゃう。イブキちゃんがジムリーダーになったときに、私からその席を奪ったのだと、勘違いしてしまうでしょ。だってイブキちゃん、優しいもの』
『…………』
『私が家に居ると、私が姉だと、あの子を不幸にする。だから、里を出るの。……里を出たらね、どうしようかなあ。旅は難しいから……何処かに引っ越してね、お店屋さんをしようかな。お菓子屋さんとか、お花屋さんとか……ワタルくんは、何屋さんが良いと思う?』

 どうしてそんなことを言うんだよ、と言い掛けて、彼女にそう言わせてしまったのは、彼女を追い詰めてしまったのは、他でもないおれでしかないよな、と思い知った。おれが長になったとしても、イブキがジムリーダーになったとしても、はじめから席がふたつ用意されていた以上、がその板挟みで苦悩することになるのは変わりがないのだ。どうしたって、自分がもっと頑張れていたなら、と。とっくに頑張ってきたくせに、きっとは永遠にそう想い続ける。分家の後継として、生きている限りは、ずっと。はその重責と罪の意識で苦しんで、妹の足を引っ張っていると、そう思って生きていかなきゃいけなかった。どうしたって、何処までも付き纏う血統の業とも言うべきそれを、断ち切るには、何かを変えるしかない。揺るがない血の事実を変えようと思ったなら、選択肢は少なくて。

『私が、家から居なくなったら、きっと全部、上手く行くの』

 ……ふざけるな、そんなわけがないだろ。

『……、確認するけど、きみがきみの生家から出ることが叶えば、……例えば籍を抜いて、正式に今の席から退ければ、それがイブキの為になるし、も自由になれる、と。そう、言いたいんだよな?』
『う、うん。そういうこと、だけれど……』
『分かった。、おれがもうじきセキエイに行くのは知っているよな?』
『……うん、寂しくなるけど、応援するね』
『……これからも、さ。は、おれの隣で、一番におれを応援してくれないか』
『……? ワタルくん?』
『おれと一緒に、里を出よう。それで、戻ってくる時には、おれの家に籍を入れて、生家ではなく、本家の人間になってくれ』
『……え、っと。それって、あの、』
『おれの妻になってほしい、ということだけど……だめかな』
『え、あ、あの、でも……』
『……嫌だった?』
『……いや、じゃないよ。でも、私のために、ワタルくんにそんなことまで、してもらうのは……』
『……おれは、ずっと昔から、を嫁に貰うつもりだったよ』
『……ワタル、くん』
『だから、きみを護るために強くなって、四天王にもなった。……もしも、おれと居ることがの心の負担になるなら、無理強いは出来ないが……』
『……で、も。ワタルくんは、私でいいの? だって私、バトルも出来ないし、ワタルくんやイブキちゃんみたいには……』
『はは、おれは以外なんて考えたこともなかったよ。は、違うのか? きみには、おれじゃ駄目なのかな』
『……そんなこと、ない。私、ほ、ほんとは、ワタルくんともイブキちゃんとも、離れたくない。で、でも、私が居たらって、思っ、ちゃって、わ、わたしね……、』
『……うん。大丈夫だよ、誰もそんなことは思わない。おれもイブキも、きみが必要だし、おれの提案に頷いてさえくれれば、ずっと三人で居られる。……外野が何か言っても、おれとイブキで黙らせてやるさ』

 例え、この先に何があっても、幼いおれの心を護ってくれたきみのことは、生涯を掛けておれが護るって決めていたよ、おれは。きみは何も心配しなくていい、泣いたり悲しんだりする必要はない、どんな逆境の嵐の中に立たされたとしても、握った手は離さないと、幼い日に、そう誓ったのだ。


「……ワタルくん! おかえりなさい!」
「ああ、ただいま、。……今日は随分と、上機嫌なんだな?」
「そうなの、今日ね、イブキちゃんがこっちに来るって! ジムのお仕事終わってからだから、もう少しかかると思うけれど……今日は三人で、お夕飯食べようねってさっきね、電話で約束してね……」
「へえ。それは良かったな、おれも楽しみだ。……だが、」
「うん?」
「……おれの奥さんが、旦那の帰りよりもそっちを喜んでいるのは、なんだか複雑だな。ううむ、どうしたものかな……」
「ふ、ふふ、ワタルくん何言ってるの、もう……わたし、ワタルくんが帰ってきてくれて、嬉しいよ?」
「……本当かい?」
「ええ、とっても?」
「そうか……だが、残念だったな、
「え?」
「奥さんに出迎えられて嬉しい、っておれの気持ちのほうが大きいからさ。ほら、おれの勝ちだな?」
「えー!? そんなことないよ! 私のほうが嬉しいもの!」
「そうかな? おれの方が嬉しいと思うけど」
「ぜーったい、私だもの!」

 竜を愛し、竜に寵愛されていると、彼女はそう呼ばれていた。ならばこの結末も、なんら咎められることではなく、当然の帰結だったのだと、おれはそう思っているよ。きみはきみのままでいい、隠れて泣いたりしなくていいんだ、きみに降り注ぐ火の粉はすべておれが打ち消してみせる。それが竜という生き物の愛し方、らしいからね。 inserted by FC2 system


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