降伏せよ世界は開かれている

『体調管理も仕事のうちだからな、も気を付けるように』

 未だワタルさんが四天王の大将で、私が彼の属するセキエイリーグの職員をしていた頃のこと。情けない話だけれど、当時、かなり頻繁に体調を崩していた私は、度々ワタルさんからそう言われていたし、咎めるようにその言葉を投げかけられる度に、不甲斐なさに肩を落としていたのを、よく覚えている。でも、まあ、今思えば、だ。セキエイで仕事をしていた当時、私は四天王の皆さんと一緒に働けることが嬉しくて、相当無茶な働き方をしていたように思う。当時はなかなか気付けなかった、そんな色々を私に自覚させてくれたのは、外でもないワタルさんだった。殿堂入りを果たした少年たちが立て続けに出た後で、ワタルさんは自分を鍛え直すために、一度故郷に戻るのだと言って、四天王の職を辞することになり、そのときのことだった。ワタルさんは、私にセキエイの職員を辞めて、彼のサポートに回って欲しい、と言ったのである。おれと一緒に来てくれないか、と差し出された手を、自分でも驚くほどにすんなりと私は取ることが出来た。そうして、そのまま、共にジョウト地方のフスベシティに向かい、リーグに居た頃と同様に、ワタルさんのマネジメント業務に徹することで彼の修行をサポートして、……やがて、そんな日々が実を結び、ワタルさんはセキエイ高原のチャンピオンとして頂点に返り咲いた。今までよりも、ずっと強く頼もしく、逞しい背中で玉座に立つ彼とともに、私もセキエイに戻る……ことになるかと思ったけれど、そうはならなくて。

『……これからはこうして、おれだけを支えて、おれの側に居て貰えないだろうか?』

 先がどうなるかも分からなかったのに、ワタルさんがそう言うなら、そうしたいなら、と二つ返事で退職を承諾し、それまでの生活を捨ててフスベまで同行したのは、私がワタルさんを尊敬していたから、敬愛していたから。彼のことを、好きで仕方がなかったからだ。そんなワタルさんに、そう言われてしまっては、断る理由など何処にもなくて。……その折、私は晴れて彼の妻になり、現在はワタルさんの留守を守ったり、日々の生活面から彼をバックアップしたりしている。外に働きに出なくなっても、まあ、家の仕事はあるわけで。とはいえ家事自体は、独身の頃だってしていたのだし、体力的には以前より余程楽になったように思う。セキエイで働いていた頃、労働環境が其処まで悪かったわけではなかったと思うのだけれど、私はとにかく、要量が悪かった。手を抜くのが下手、というか、力加減が下手というか。他の人に任せればいい、分担してもいいような仕事まで、何もかも一人で完璧にこなそうとして、毎日残業ばかりしていて。結果、体調を崩しては、そんなことで休んでられないからと言って無理をして、その無限ループを見ていたからこそ、ワタルさんにも度々咎められていたわけで。きみはやろうと思えば、何でも一人で出来てしまうひとだから。なんて、ワタルさんは言ってくれたけれど、それだって彼と比べれば全然……と、昔なら、そう思っていた。でも、今は。ワタルさんがそう言ってくれるなら、きっとそうなのだろうな、と思う。多分、四天王だった頃から、ずっと。彼は私が思っている以上に、私を好きで居てくれているようで、想われすぎて、大切にされすぎて、近頃ではめっきり、私は思い上がりの激しい女になってしまった気がするくらいなのだ。けれど、まあ、それでもいいかと思う。私がそうして、ワタルさんに愛されていることに対する自信があることを、当の彼が一番喜んでいるように思うから。

 ……ふと、目が覚めたとき、部屋の中が随分と暗くなっていることに気付いた。何時になったのだろう、と慌てて端末のディスプレイを見ると、ワタルさんから数件の連絡が入っていたことに気付く。「大丈夫かい?」「何か欲しいものはあるかな?」と、こちらを気遣う内容ばかりがいくつも並んでいるのを見て、今朝出掛けに、「今日はおれも仕事を休んで看病していようか?」なんて言っていた、我らがチャンピオンを思い出す。
 今朝、妙な気怠さを感じつつも朝食の支度をしていると、日課である早朝のロードワークから戻り、シャワーを浴びて髪を拭きながらダイニングに顔を出したワタルさんに、顔色が悪いが大丈夫なのか? と効かれてしまって。大丈夫ですよ、なんて宥めたつもりが逆に宥められ、熱を測ってみると、案の定、三十八度を少し超える発熱だった。そしてもうそのまま、ベッドの中に押し戻され、今日は大事にしているようにとチャンピオンから仰せつかったわけである。多分、私のはちょっとした風邪なのだけれど、自身は非常に頑丈で健康体なあのひとは、私が少し体調を崩すと本気になって心配して、いつもこうなのだ。昔はこんなに過保護じゃなかったのになあ、なんて思いながら、そろそろ起き上がって夕飯の支度をしないと、ワタルさんが帰ってきてしまうなあ、と、ベッドサイドのテーブルの上に置いた体温計に手を伸ばし、再度熱を図ってみる。やがて、ぴぴ、と短く鳴った音に、体温計のパネルを見てみると、熱は三十七度八分。代謝が良いからなのか、基礎体温も高めのワタルさんと違い、私は平熱も低いから、これだけあったら結構な発熱だ。この様でキッチンに立っていたのがバレたなら、きっと後からお説教だなあ、なんて思いながら、私は今一度静かに目を伏せる。未だ意識も半覚醒のままで、発熱も相まって頭がぼうっとする。目を開けているのもつらいけれど、目を閉じると瞼の裏がぐらぐら回ってきて、やっぱり気持ちが悪い。確かに私、体調崩しがちだけれど、ワタルさんと生活を共にするようになって、大分生活習慣も矯正されて、前より健康だし、それを差し引いたってこんなに具合が悪いの、久々な気がした。気分が悪いし、なんだかお腹も痛くて、不安になってくる。ワタルさん、早く帰ってこないかなあ、なんて思っているうちに、またうとうとしてきて。

「……ん、」
「……お、目が覚めたかい? それとも、起こしてしまったかな」

 ぼんやり、ゆらゆら、不確かに揺れる視界の奥で、ゆうらりと赤い炎が燃えている。……ひどく、寒かったから、その炎が暖かそうに見えて手を伸ばしたら、炎の方が私に近付いてきた。ぼやけたあかいいろが、目の前まで近付いて、そうしてようやく、熱っぽい頭はその赤の正体を認識する。

「……わたる、さん……?」
「ああ。気分はどうかな、正直に言うように」

 そんな、尋問みたいな言い方、って思ってから、そうでも言わないと私、誤魔化そうとするのばれてるの、全然誤魔化せてないんだなあ、なんて思った。いつの間にかまた眠ってしまっていたらしい私の手は、眠っている間に帰宅したらしいワタルさんの温かくて大きな手にしっかりと握られていて、帰ってからずっと側に居てくれたらしい彼は、マントすら羽織ったままで着替えもしないで、私の看病をしていてくれたようだった。額に貼られた冷却シートは新しいものに貼り替えられたのか、未だ冷たいし、ベッドサイドのテーブルには飲み物のペットボトルと新しいグラスが置いてある。

「あんまり、よくなくて……ごめんなさい、夕飯がまだ……」
「それは、いいから。夕飯は適当に買ってきたけど、食べられそうかな? 熱は?」
「さっきは、三十七度八分で……」
「今朝よりは下がったか……だが、まだ高いな。うん、まだ寝ていたほうがいいね」

 お弁当を買ってきたけれどちょっと無理そうだね、食べられそうなものはあるかな、なんて言って、お惣菜やさんの袋と、スープスタンドの袋と、ケーキ屋さんの箱の中身を次々に見せる彼に、私のためにこんなに買ってくるなんて本当に心配性だと思いながらも、温かいモコシのポタージュと、それからプリンを指差してみせると、食べられるものがあってよかった、と心底安堵したように笑う。今朝、出掛けていく際には眉を下げて、これ以上ないくらいに心配性、といった表情をしていたけれど、多分今は私を安心させようとして、こんな風に振る舞っているのだろうなあ、という気もした。

「……ごめんなさい、ワタルさん明日も仕事なのに、市販のお弁当なんかで……」
「おれは、そんなこと気にしてないよ。まあ、確かにの手料理は好きだけれど……きみが無理して作ってくれても、おれは嬉しくないからな」
「……怒ってる?」
「怒るわけないだろ? どうしてそんな風に思うんだ?」
「……昔、セキエイで働いてた頃は、体調崩す度にワタルさんに、叱られてたから……」
「……ああ、なるほど。そういうことか……否、違うんだよ、……あれはさ……」
「? ワタルさん?」
「……当時も、叱りたかったわけじゃないんだ。只、きみが体調を崩して仕事を休んだり、それどころか、体を壊して辞めてしまったり、なんてことになったらさ、その……きみに会えなくなるだろ?」
「……はい?」
「それが嫌だったし、きみが心配で……口煩く言ってしまったんだ。やっぱり、怖かったよな……すまない」

 今度はまた今朝みたいに、しゅん、と眉尻を下げ、気落ちした様子のワタルさんに、私はしばらく、ぽかん、と口を開けたままで惚けることしか出来なかった。……当時、私は。自己管理も出来ないやつだとワタルさんを失望させてしまったのではないだろうか、と毎回気に病んでいたけれど、実際にはそんなことはなくて。あの頃はワタルさんにとって私と一緒にいる口実が、上司と部下であること、だけだったから。見舞いに行ったり、仕事外で会うような口実が無かったから、倒れられては困る、と。多少きつく言ってでも無茶をしないようにと言い聞かせようとしていた、だけで。そんな必要が無くなった今でこそ、こんなにもでろでろに甘やかしてくるのは、ワタルさん自身丸くなったこととか、昔よりも私を好きになってくれたからなのだとばかり、思っていたけれど、……つまり要するにそれは、彼の気持ちは今も当時と何も変わらないということ。寧ろ、当時は手放しで甘やかせなかった反動で、現在、此処まで過保護になってしまった……と、いうこと?

「……ふ、ふふ、やだ、もう。ワタルさん、かわいい」
「な。……何を、言っているんだ。おれは真剣に……」
「……怖かったよ」
「…………」
「怖かったな、ワタルさんにがっかりされるのも、仕方ないやつだと思われるのも、怖かった」
「思っていないさ、そんなこと」
「うん。でもね、それより、さっきひとりで寝てたときが怖かったの。心細かった、でもあなたは、ちゃんと駆け付けてくれたから……」

 怖くないよ、何も怖くない。ちょっぴり、過保護すぎるかな、と思うこともあるけれど、それだけあなたが私を好きで居てくれることの照明だと、知っているから。嫌だと思ったことなんてないし、そんなあなただからこそ、私も、なんでもしてあげたくなってしまうのだ。私の全身全霊で、ワタルさんのために出来ることを必死で探して、つい頑張りすぎてしまう悪い癖。何時だってこんな風に倒れるまで気付けない私の悪癖に、私よりも先に気付いて止めてくれるあなたがいるから、わたし、安心して頑張れるのだと思う。あなたがとなりにいてくれないと、安堵して眠れなくなってしまったくらいには、あなたの愛を私、酸素みたいに必要としている。

「……夕飯、どうする? は此処で食べてもいいよ」
「……ううん、ちょっとだけ起きて、ダイニングまでいく。ワタルさんといっしょに、食べたいもん」
「そうか。それなら、おれが運んであげるよ」
「……歩けるよ?」
「……おれが、きみを甘やかしたいんだよ、

 ふわり、毛布に包まれたままで、がっしりと逞しい腕に抱きかかえられて部屋を出る。夕飯もおれが食べさせてあげようか。あーんしてくれるの? なんて戯れみたいな会話をしながら、少しだけ冷たい廊下の空気が頬に触れるのが心地良い。でもそれよりも、熱っぽい身体に溶けるように染み込む体温の高い彼の腕が、胸が、心地よくて、此処が私の安息の場所だと、確かにそう思った。 inserted by FC2 system


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