召し上がれってわたしの悪魔が言うから

「今日は丑の日だから、おれが帰りに鰻を買ってくるよ。夕飯の支度はしなくていいから、きみは休んでおいで」

 そう言い残して、ワタルさんが仕事へと出掛けて行ったのは、今朝の出来事である。……丑の日、もうそんな季節かあ、なんて思いながら、私も今日は外で鰻の蒲焼きを買ってきて夕飯を作ろうと思っていたのだけれど、あっさりとワタルさんに先を越されてしまって。どうにも、あのひとを気遣いで出し抜くのは難しいなあ、なんて妻としての不甲斐なさを覚えながらも、優しくて気配り上手な彼が私の旦那さんであることへの誇らしさが、どうしても勝ってしまう。……さて、気を取り直して。メインはワタルさんが買ってきてくれるそうだけれど、それでもやっぱり、副菜とお吸い物くらいは欲しいかな。肝吸いなんて上等なものは作れないけれど、三つ葉を浮かべてシンプルなお吸い物を作ろう。それと、お新香もほしいし、ワタルさんはよく食べるから、鰻だけじゃ足りないかもしれないし、炊合せと、おひたしと、茄子の煮浸しとか、ブロッコリーのナムルとかでもいいかな。和食ばかりでは飽きるかもしれないから、ナムルの味付けは薄めで、他にも箸休めの副菜をいくつか用意しておこう、なんて考えて、ワタルさんが喜んでくれたらいいなあ、気配り上手の奥さんだと思ってもらえたらいいなあ、……なんて、私は期待に胸を膨らませていたのだけれど。

「……わ、ワタルさん……? これ、量が……」
「ああ、せっかくだから特上にしたんだよ。美味しそうだろ?」
「は、はい。でも、こんなに……」
「……多かったかな?」

 夕方、家に帰ってきたワタルさんが提げた袋から、どんっと取り出された大きなお重箱がふたつ。その中には、みちみちに詰まった鰻とごはんが二重になって、これでもかと言わんばかりに、ぱんぱんに敷き詰められていた。「きみは少食だからなあ」と少し眉を下げるワタルさんには、「私が少食なんじゃなくて、ワタルさんがよく食べるだけですよ!」なんて、とてもじゃないけれど言えなくて、食べきれるかなあという不安を抱えながらも私は言葉を飲み込み、副菜とお吸い物を盛り付けて食卓に並べると、私はワタルさんの向かい側の席に、腰を下ろしたのだった。

「……あれ、副菜はおれだけかい? の分は?」
「あ、私はちょっと、鰻だけでいっぱいなので……」
「そうか……ごめんね、きみが喜ぶかと思って、一番いいのを奮発してしまったんだが……もう少し控えめのほうが良かったか?」
「い、いえ! ……ワタルさんの気持ちはうれしいです、ありがとう」
「……そうかい? でも、無理はしなくていいからね、食べ切れなければおれがの分も食べるから。大丈夫だよ、おれはたくさん食べるからさ」

 白い歯を見せて悪戯っぽく笑ってみせるワタルさんは、こんなときですら頼もしい。流石はチャンピオンだなあ、なんて場違いの感想を浮かべつつ、いただきます、と手を合わせてから、私は意を決して、お重箱の蓋を開けた。すると、ふわり、と甘いタレの香りが立ち上ってきて、まだほかほかと湯気の立つ艷やかな鰻の蒲焼きが白いごはんの上に綺麗に敷き詰められていて、とても美味しそう。すると、わあ、と思わず漏らした私の感嘆に、ふ、と口元を緩めたワタルさんが、お箸を手に持ちながら、口を開いた。

「この店はね、フスベでも老舗の鰻屋なんだ」
「え……わ、ワタルさん、仕事の後でフスベまで買いに行ってきたんですか……!?」
「ああ。……どうしてもに、おれが慣れ親しんだ味を、知って欲しくてね。まあ、セキエイからフスベまでは、カイリューでひとっ飛びだからな」
「そう、だったんですか……あの、ありがとう、ワタルさん。私、すっごく嬉しい……」
「それはよかった。……でも、おれも嬉しいよ」
「え?」
「こんなに色々、作って待っててくれたじゃないか。きみの負担を減らそうと思って、ああは言ったけれど……やっぱり、こうも歓迎して出迎えられると、嬉しいよ」

 ワタルさんはそう言ってはにかむと、真っ先にお吸い物に手を付けて、茄子の煮浸しに箸を伸ばす。……ああ、どうしよう、こんな些細なことが、こんなにも嬉しくて、嬉しくて、胸がきゅっとなって、私も思わず、まっすぐに鰻へと箸を伸ばす。ぱくり、と口に運んだ温かな蒲焼きの、甘辛いタレが香ばしくてふわっふわの鰻の身に絡む、この味がおいしい。柔らかいのにしっとりした蒲焼きはご飯ともばっちりと合っていて、ピリリと効いた山椒の風味が、全体の優しさをきりっと締めてまとめあげてくれる。山椒がよく効いているから、舌もだれないし、もしかするとこれなら、全部食べられるかもしれないと言う気がして、自信が湧いてきた。流石老舗の鰻だなあ、なんて思って私がその味に感動していると、にっこりと笑ったワタルさんが、口いっぱいに頬張った鰻とご飯を飲み込んでから、「おいしい?」と、私に向かって訊ねてきた。

「はい、とっても……! こんなに美味しい鰻、初めて食べた気がします!」
「それはよかった。……焼き立てはね、もっと美味しいんだよ。今度、フスベに帰るときにはふたりで行こうか」
「……はい! 楽しみですね!」
「ああ。……あ、でもきみを連れてあの店に行くと言ったなら、イブキも着いて来たがるだろうな……」
「ふふ、そのときは、三人で行きましょう?」
「……ああ、そうだね。それも、楽しそうだ」

 鰻、そう頻繁に食べるものではないけれど、たまに食べるとやっぱりおいしい。きっと、たまに食べるから尚のことおいしくて、ワタルさんと一緒に食べるから、ワタルさんが私に食べさせたいと買ってきてくれたものだから、もっとおいしいのだ。そう思うと、胸の奥がじゅわりじゅわりと暖かくて、この嬉しさを噛みしめるみたいに、私は鰻をちまちまと口に運ぶ。合間にお吸い物を飲んで、ワタルさんがぱくぱくと豪快に、けれど綺麗に平らげていくのを見るのも嬉しくて、毎度ながらいい食べっぷりだなあと感心してしまう。ワタルさん、お箸の持ち方も食べ方もきれいだけれど、ひとくちがとてもおおきいから、存外、食べ進めるのが早いのだ。その証拠に、副菜も食べながら鰻重を食べているのに、私よりもずっと、食べるのが早い。それに焦って、少し早めに食べようとしていたら、……ワタルさんはそんなことにも、すぐに気付いて、

「ゆっくり食べなさい。急がなくていいから、無理しないで」
「は、はい……」
「食べられる分だけ、ゆっくり食べてくれたらいいよ。焦ると消化に良くないぞ」

 ……本当にワタルさんには、私の何もかもがお見通しで、敵わない。ワタルさんを待たせまいと焦ったことに目ざとく気づかれてしまったのも、いつの間にか食べ終わってしまったワタルさんが、熱いお茶を飲みながら、じいっと私が食べるのを見つめてくるのも、なんだか恥ずかしくて仕方がなかったけれど、ワタルさんが美味しそうにご飯を食べていたら、私だって思わず見つめてしまうしからその気持ちも分かるし、……同じ気持ちなのだと言葉にされずとも伝わって、うれしい。「なんだか、頬をふくふくさせて、パチリスみたいで可愛いなあ」それに、悪気なくそんなことを言いながらも笑って、いとおしげに見つめてくるその瞳には、何も言い返せなくて。恥ずかしいけれど、この時間がうれしくて堪らなかった。ワタルさんはチャンピオンとして、それに正義の味方としても、多忙を極める人だけれど、私といっしょにいるときは、こんな風に私のことだけ見つめてくれるのが、私はいつも、嬉しくてどうしようもなくなってしまうのだ。……やがて、食べ進めているうちに、結局は案の定でおなかがいっぱいになってしまい、食べきれなかった私に、「あとは俺が貰うよ」って、漆塗りの重箱を取り上げたワタルさんに、食べ捺しを押し付けることには、夫婦になってしばらく経つ今でも尚、抵抗があったけれど、……ワタルさん、そういうの全然気にしないひと、なのだった。別にこれは、誰にでもそう、なんじゃなくて、私だから平気なのだろうな、ってことも分かっているからこそ、無理にでも食べますなんて言えなくて、結局私は、半分も食べきれなかった鰻の蒲焼きをワタルさんがおいしそうに平らげていくのを、ぼんやりと見つめている。

「……はあ、美味しかった! ごちそうさま」
「はい、ごちそうさまです。結局、食べさせてしまって……ごめんなさい」
「謝らなくていいよ、……恥ずかしいけれど、おれは少し物足りないくらいだったから……かえって、ちょうど良かったな」
「……ありがとう、ワタルさん」
「はは、どういたしまして」

 たくさん食べてしまったから、少し食休みを取ってからお風呂に入ろうか、というワタルさんと一緒に、リビングのソファに座って、お茶を飲みながらまったりと過ごすこの時間も幸せで、涼しい夜風がカーテンと共に窓際に吊るされたチリーン型の風鈴を鳴らすのを、何処か遠くで聞くように、ぼんやりを耳を傾ける。……私、ワタルさんといっしょにいられて、しあわせ、だなあ。ワタルさんも同じことを思っていてくれたら嬉しいから、私はいつでも、このひとの居心地がいい場所になりたいのだと、……鰻美味しかったね、また食べたいね、なんて、ワタルさんと他愛のない話をしながら、そんなことを考えていた。

「……そういえば、丑の日って、栄養があるから鰻を食べるんでしたっけ」
「ああ、大体はそんなところだね。昔、短歌で夏痩せには鰻を食べるといい、と詠まれたのが発祥だったはずだよ」
「ワタルさん、詳しいんですね……!」
「まあ、実家があんな感じだったからね……それで、夏バテには鰻がいい、って。この季節の丑の日には、そう言うんだよ。……きみは、少し細すぎるからな、食べておいたほうがいいと思って」
「そ、そうでもないですけど……」
「おれから見たらそうだよ。鰻はスタミナが付くとか、精が付くだとか言ってね、たいそう元気が出るから……」

 其処まで話してから、ワタルさんは急にハッとしたように口を抑えて、かあっと頬を染めたかと思うと、なあに? と、私が問いかける前に少し慌てた様子で、「……決して、そういうつもりで買ってきたわけではないんだよ?」……なんて、言うものだから。

「わ、わかってます! ワタルさん、そんなこと言わないですよね……!」
「そ、そうだよ。おれだって流石にそんな、親父みたいなこと……」
「…………」
「…………」
「……えっと……」
「……なあ、
「は、はい」
「……元気が出てしまったのは、事実なんだが……い、いや、そういう意味ではないよ? ……そういう意味じゃ、ないんだけどな……」
「……あ、あの、もう少し、休んでから……」
「!」
「……なら、そのう……」
「……そうだね、じゃあ、もう少ししたら、いっしょにお風呂に入ろうか」
「えっ」
「……だめかい?」
「……だ、めじゃ、ないです……」
「そうか! それはよかった、……楽しみだな、

 このひと、一体何処まで本気で、何処まで計算しているのだろう、……なんて、考えたくもなるけれど、多分、天然なんじゃないのかなあ、とも思ってしまう。天然物の鰻をたらふく食べた彼は、一体今夜は、何時に私を寝かせてくれるつもりなのだろう。明日は土曜日、セキエイ高原のお仕事もお休み。少し気が遠くなるこの気持ちも、熱く濡れたお風呂場で嬉しそうに笑ったこのひとの厚い腕に包まれたなら、どうでもよくなってしまった。……なにもかも、ワタルさんの手のひらの上なのはちょっぴり悔しいから、今夜は恥ずかしいのを我慢して、いつもより積極的におねだりしてみようかな、なんて思う私は、きっと夏よりも熱いあなたの愛情に浮かされているのね。 inserted by FC2 system


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