壊した箱の未来をあげる

 セキエイ高原に属する、四天王の大将──ドラゴン使いのワタルさんは、私にとって憧れのひとだった。いつかは彼のようなトレーナーになりたい、──だなんて、そんなにも大それたことを考えていた訳でもない私はリーグの一般職員で、セキエイに就職する以前にジム巡りをしていたなんてこともない、トレーナー修行も知らない、只少しだけポケモンバトルが好きだというそれだけの、ワタルさんとは住む世界が違う、極普通の人間だった。
 そんな私の転機は、リーグ内での人事異動があり、裏方の事務職から四天王の秘書役へと回されることになったこと、だったのだろう。当時、四天王の大将役を務めていたワタルさんはまだフスベの里から降りてきたばかりで気位が高く、龍使いの血族でありセキエイ最強のトレーナーでもあるワタルさんの機嫌を損ねないようにと、リーグの人間たちは腫れ物にでも触れるかのようにワタルさんに接していて、とはいえこれから毎日そんな調子ではとてもやっていけないから、と。極力、普通に彼へと接していた私との方が、ワタルさんも気が楽だったのだと思う。
 秘書役について以来、なんとなく、ワタルさんに呼び止められることが増えて、なんとなく、バトルの話をするようになって、最初はほんの戯れで、ワタルさんのバトル相手を務めることになって。……まあ、当然ながら結果は惨敗だったわけだが。──それでも、生まれて初めて本気のポケモンバトルというものへと、あのときに、私は触れたのだ。しかもその相手がセキエイ最強のワタルさんだったのだから、──当然ながら、私の中で何かのタガが外れる音を、あの日私は、確かに聞いた。

 ──勝てるわけがない、と。そんなことは、分かり切っていて。
 ──でも、少しでもワタルさんに、この手が届いたのなら、それはどんなに嬉しいことだろう、と。

 そう願ってしまった想いは、結局、二度とは捨てられずに。勝てっこないのに、その日以来私は、昼休みも退勤後も出勤前の早朝も、バトルの特訓の為にと外へ飛び出していくようになってしまった。こんなことをしたって、絶対にワタルさんには勝てない。私が今からどれだけ頑張ったところで、あのひとが積み重ねてきたものにも、背負っているものにも、今この瞬間に積み上げているのであろうものにも、何ひとつ指先すら届くはずがないというのに、──それでも。ワタルさんとのバトルが楽しくて、──私も、ほんのすこしでも、あんな風になれたなら、って。私はそう、願ってしまっていた。

「……よければだが、おれが稽古を付けるか?」

 私が隠れて特訓に励んでいたことに、ワタルさんはいつから気付いていたのだろうか。「戦うたびに、強くなっているとは思っていたんだ」とほんの少し楽しげに語るこのひとを四天王の間で見るときは、いつだって退屈そうで何処か物憂げな表情を浮かべているのに、今はまるで悪童のように悪戯っぽく笑っている彼が、なんと私の師匠役を申し出てくれたときには、……本当に、夢のように光栄で恐れ多い話だと思った。
 ──だって、ずっと憧れていたのだ。……最初はね、ほんとうは。トレーナーとして、四天王として、上司として、いつだって格好良かったこのひとの視界に入りたい一心、だったのだと思う。あなたに焦がれるこの気持ちは、トレーナーとしての憧れだけに起因したものではないという自覚があったからこそ、ワタルさんとバトルをするようになってから、こんなにもいい加減な気持ちであのひとに対峙するのは不義理だと思うようになった。それもまた、私が強くなりたいと願った理由のひとつだったのかもしれない。
 ──きっと私は、この関係が始まったばかりの頃、ひどく打算的だったのだ。稽古を付けてもらう間は、業務時間外であってもワタルさんといっしょにいられたし、只の上司部下であった頃よりもずっと、気さくな間柄になれたと思うし、ワタルさんは師として弟子の私を可愛がってくれているんだ、という甘くて苦い実感だって、其処には伴っていた。

 だから、ワタルさんの元で研鑽を積む日々は本当に幸せで、この日々の為ならばトレーナー修行における苦悩も苦痛も私は幾らだって耐えられたし、只ワタルさんと過ごす毎日が楽しくて、──そんな毎日を繰り返していると、知らない間に、どうやら私は、思った以上にトレーナーとして成長していたらしい。

「──というわけで、リーグ再編に伴って四天王を再選出することになったんだ。が良ければ、おれはきみを新四天王として推薦したいと思う。どうだい? 

 レッドくん、グリーンくん、と立て続いてチャンピオンを輩出したあとで、セキエイリーグは大幅に再編成される運びとなり、ワタルさんはそれに伴って一時的にフスベのご実家に帰省して修行を積み直し、私も其処に同行させていただいていた。フスベでの修行の甲斐あって、私も遂に念願のドラゴンタイプを手持ちに加えるようになったり、ワタルさんの故郷をあちこち見て回ったりと、やっぱりその日々も、私にとってはこの上なく楽しいものだったけれど、──きっと、ワタルさんにとっては、違ったのだ。艱難辛苦と過去の己とを乗り越えて、ワタルさんは、セキエイのチャンピオンに就任する運びとなった。……その事実を前にして、私を襲ったのは、どうしようもない心苦しさ、だった。……ワタルさんはこんなにも真剣にトレーナーとして、上に立つものとして励んでいるというのに、私ときたら彼の秘書役なんて肩書きばかりで、ワタルさんの傍で楽しく過ごしていただけじゃないか。──だから、私も変わりたいと思ったの。ワタルさんに相応しい人間に、強いトレーナーに、なりたい私に、──宝石の輝き、テラスタル。石英の結晶に包まれてなりたい自分になることが許された、その地方で。私は、あなたに相応しい人間になって帰ってきたいと、そう思ったのだ。

「……ごめんなさい、光栄なお話だとは、思うんですが……私、ワタルさんに教わったことを試したくて──」

 ──旅に出る決意を告げた際に、ワタルさんは何処か驚いた顔をして、けれどすぐに明るく微笑んで、激励と共に私を送り出してくれた。──セキエイの四天王に推薦するというその誘いを受けたのなら、これからもずっと、ワタルさんの近くで楽しく過ごすことを許されていたのかもしれない。……でも、強くなればなるほど、トレーナーという人種の考えることが私にも分かるようになってきていたから。今の私のままでは、とてもではないが四天王の役職など、末席であっても到底相応しくないのだという自覚があったし、……ほんとうに、名誉なことではあったけれど、惜しい気持ちもあったけれど。私はその誘いを辞退して、──単身、パルデア地方へと旅立ったのだった。

 パルデアでの生活は、アカデミーへの一年間の留学を基点としたものだった。この学園では、年齢も性別も様々な生徒たちが勉学に励んでいると知って、社会人の自分が今からでもバトルの道を選ぶ選択肢だって、なんら可笑しいものではないというパルデアの価値観に、カントーの僻地で暮らしていた私は、かなりの衝撃を受けたのだ。──だから、パルデアでなら、なんの負い目も気兼ねもなく、トレーナー修行に励めるんじゃないか、と。そう、思った。……もっとも、“パルデアにはワタルさんがいない”という懸念も、私の中には大いにあったのだけれど。
 だって、私のトレーナーとしての道はすべて、ワタルさんから始まったから。……彼が居ない遠くの地方に行っても、強くなりたいというこの気持ちを高く維持し続けられるのだろうか? と言う不安は、正直なところ心の何処かには確かに存在して。──でも、もしもこの気持ちがワタルさんに理由を借りただけの偽物だったのなら、それこそ四天王になんて、なっていいわけがないから。そう言った自分の本質を見極めたうえで、自分の殻を破りたいと、私はそう思ったのだった。──それもすべては、ワタルさんに憧れていたからだ。あなたみたいになりたかった、私は胸を張ってあなたのとなりに立ちたかった、……だから。

「──おめでとうございます。新たなチャンピオン・。あなたのテスト合格を祝福しましょう」

 ──あなたと同一のものではなくとも、その名前を手に入れたときは、……ほんとうに、嬉しかったなあ。これでようやく、すこしは、あなたに見合った人間になれただろうかって嬉しくて、……だからこそ、パルデアリーグの四天王に推薦してもらったとき、本当にどうすればいいのか分からなかった。その勧誘を受けることは即ち、ワタルさんの元には帰れないということを意味していたけれど、四天王になれば私はドラゴンタイプをエキスパートにすることが叶うかもしれない、とトップは言うのだ。私はドラゴン使いと胸を張れるほどではないけれど、ワタルさんに憧れてトレーナーとして駆けだした訳だから、手持ちには比較的、ドラゴンが多い。──只、現在ドラゴン使いのエキスパートが他にも候補に挙がっているから、そのトレーナーとの競合次第では、私はひこうタイプを任されるかもしれない、とも言われたけれど。……ドラゴン使いの四天王、というのはかつてのワタルさんと同じ肩書きで、同時に「ドラゴンタイプだけが、ドラゴンじゃないからな」という師の教えで、私の手持ちにはひこうタイプも多く、それを専門としてみるのも楽しそうではあった。……この誘いを断ってセキエイに帰ることは簡単だったけれど、……でも、トレーナーとして正しいのは、本当にその選択なのだろうか? 私が此方に残って四天王になった方が、ワタルさんは誇らしいと言って笑ってくれるのだろうか。 ……私が帰らない方が、ワタルさんは嬉しいのだろうか。


「──強くなったね、。見違えたよ」
「……いえ、手も足も、出ませんでしたね……」
「そうかな、きみも善戦していたと思うけれど」
「……そんなこと、ないです」

 ──六体目までをあっさりと倒されて、トップから借り受けたリーグのバトルコートにへたり込む私を見下ろすワタルさんの表情は、逆光に遮られてはっきりとは伺えない。四天王にスカウトされている旨を伝えると「直接会いに行く」と言って電話を切ってしまったワタルさんが、──まさか、本当にここまで来るとは、思っても見なかった。だって、只でさえチャンピオンの彼は多忙な筈だし、私が一年間の休職になんて入ってしまったものだから、四天王やチャンピオン周辺の雑用係が足りていない、と言う旨もリーグの同僚から聞いていたし。だというのに、単身でパルデアまでやってきたワタルさんは再会するなりすぐに、「此方での成果を見せてくれ」と言って私とのバトルを望んで、──それで、今までで一番、手も足も出なかった。ワタルさんのバトルは鮮やかで、かつて対峙したときよりも格段に手持ちは鍛え上げられていて、……ああ、そっか。ワタルさん、今まで私に本気を出したことなんて一度たりとも無くて、……要するに私はひとりで盛り上がっていたに過ぎないのだと、そういうことか、これは。私はずっと、あなたに手加減されていて、それなのに身の程知らずにも、あなたの隣に立ちたい、だなんて、……何をしていたんだろうな、私は。こんなのって、とんだ思い上がり、だったらしいのに。

「……、きみは本当に此方で、四天王になりたいのか?」
「……どう、なんでしょう……名誉なことだとは思っていました、でも……」
「でも?」
「……やっぱり、私では相応しくないですね。すみません、ワタルさん。私の目を覚まさせるために、パルデアまでご足労お掛けしてしまって」
「……うん?」
「現実が分かりました。……私、セキエイに戻ります。やっぱり自分は、只の人間だったみたいです、……四天王なんて、私には不相応だとよく理解出来ました」

 ──ワタルさんに師事したことで思い上がって、こんなにも遠くまで飛んできてしまった私に、きっと師として現実を教えてやるために。ワタルさんは、日々の合間を縫って此処まで来てくれたのだろうな。……ほんとうに、よくできたひとだと、そう思う。私なんかじゃ、彼に届くはずもない。……だというのに、今からでも遅くないだとか、なりたい私になれるかもしれないだなんて、付け上がり、外に出て尚、世界の広さも知らずに舞い上がっていた自分が恥ずかしくて、……嗚呼、どうして私はいつも、前が見えずにこんな風に、ひとりでに突っ走ってしまうのだろう、なあ。

「待ってくれ、そうじゃないよ、
「でも、ワタルさん……」
「おれは只、その……パルデアでの修行を終えたらおれとバトルするって、旅立つ際に約束しただろう?」
「し、ました、けれど……」
「その約束も果たさずに帰らない、というのが……勝手な話だけどさ、どうしても許せなかっただけなんだ。だから直接、今のきみの考えを聞いて、成長を見てみたくて、此処まで来たんだよ」
「ワタルさん……」
「……おれは、きみが四天王に相応しくないとは全く思わないな。……だが、セキエイに帰っても、今からを四天王に推薦してやることはおれには出来ない。今、うちの四天王に空席はないからね。依怙贔屓だと、彼らから顰蹙を買ってしまう」
「でも私、全然、ワタルさんみたいになれなくて」
「それは当然だ。は、おれじゃないんだから。……きみは、本当のきみになるために此処に来たんだろう? おれになるためなんかじゃないはずだよ」
「……あ……」
「先ほどのバトルで、おれはきみが本当の自分を見つけたんだと、そう感じたけれど……きみのそれは、これからもこのパルデアの地で磨くべきものなのかい? きみは、この場所に居た方が輝けるのか? ……おれと共に帰るよりも、それがきみにとって正しい選択だというのなら……おれも、ちゃんと身を引くし、きみの気持ちを尊重するよ、
「わたし、は……」

 私の目の前にしゃがみ込むワタルさんは、先ほどとは違い表情が良く見えて、燻色にきらめく瞳と目が合って、その穏やかな温度の懐かしさに、思わず喉が詰まる。──私は、一体どうしたかったのだろう。四天王になりたかった? チャンピオンになりたかった? 強いトレーナーに、何者かになりたかったのだろうか? ……きっとそれは、近いようで遠くて、何かが違うような気がする。私が本当になりたかったものは、……私が手を伸ばしてでも、自分を変えてでも、どうしても手に入れたかったものは、ほんとうは。

「私は、……ワタルさんに相応しくなりたかったんです、あなたの弟子として、秘書として、恥ずかしくないだけの人間に……それは、ワタルさんに推薦してもらった四天王と言う形が、一番正解に近いような気がして」
「……うん」
「ほんとは、……セキエイに帰りたいです、私はワタルさんが居ないと寂しいんです、でも、私、ワタルさんの弟子だから、パルデアで四天王として頑張れたなら、ワタルさんはそのほうがきっと喜んでくれるだろうから、って」
「それは、師としては嬉しいさ。……でも、師じゃないおれは、が帰ってくるのが楽しみだったんだよ」
「……ほんとうに? ワタルさん、私が帰ってこない方が嬉しいんじゃないんですか……?」
「まさか。……いや、本当ならばそうであるべきなんだろうけどね。……おれは、きみのことが好きだからさ」
「ワタル、さ……」
「四天王になりたいなら止めないよ、……でも、おれに相応しくありたいというのなら。きっとそれは、もうとっくに叶っているし……おれこそ、きみに相応しい男になりたいよ。……その為には、おれの傍に居て貰った方が、……まあ、好都合ではあるかな……」
「…………」
「……その、狡いと思うかい?」
「……まさか。あの、ワタルさん」
「ああ、なんだい?」
「私、トレーナーとして何者になりたいかとか、まだよくわからなくて……もしかしたら、此処に留まるのが正解なのかも、だけれど」
「……ああ」
「やっぱり、今の私がなりたいのは、あなたに相応しいトレーナーなんです。……だから、これからも、ご指導ご鞭撻のほどお願いできますか……?」
「もちろんだ。も一段と強くなったし……これからは、より本格的に指導していけそうだしな、おれも楽しみだよ」
「本当ですか!? やったあ!」

 ──笑みを深めて彼から放たれた“本格的な指導”と言うその言葉に含まれた真意など、大きくて暖かな手に頭を撫でられる安堵に包まれていたそのときの私にはまだ理解できていなくて、──ワタルさんの“好き”と、私が彼に向ける“好き”はきっと同一のものではないのだとも思っていた訳なのだけれど、……まあ、光栄なことにそんなものは誤解だったのだとあなたからしっかり教え込まれたのは、私がセキエイに帰ってからのことで。一度飛び立って尚、竜の巣へと自らの意志で舞い戻った私には、──どうやら、二度と逃げの選択肢などは与えられないらしい。 inserted by FC2 system


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