どうかあなたの神様にしてください

「セキエイ高原チャンピオンのワタルは人格者。正義の為、世の為、人の為に戦ってくれる、素晴らしいトレーナーだ」

 ――そう、讃えられるようになってから、どれほど経ったことだろう。少なくとも昔のおれは、そんな風に称賛されるほど、出来た人間ではなかった。なにも、かつての自分が悪人だったとは思わない。元より、邪の感情と自分は限りなく無縁だったと思っている。だが、かつておれは酷く、傲慢な男だった、と。――おれ自身は、そのように記憶している。

 フスベの里に生まれ、竜の穴の一族の末裔、その正統後継者としておれは育ち、修行を経て、長老にも認められ、やがてフスベ最強のドラゴン使いとして、セキエイ高原から声が掛かり、召集を受けて四天王に就任してからも、ずっと。――おれはただの一度も、勝負に負けたことがなかった。今思えば、井の中の蛙であったのだが、己を竜と信じ込んだおれは、フスベに居たのでは一生、おれを倒せるトレーナーとは出会えないと思ったからこそ、四天王に就任したのだった。その中には、里を取り巻く空気の息苦しさから逃れたかった、という理由も、幾らかはあったと思う。――ともかく、おれは世界の広さを知らなかった。その広さを知りたい、と里を出たところで、行き着いたのはセキエイ高原というある種の行き止まりの場所。そんな暗穴の最奥に佇んだところで、世界を広げることなんて出来るはずがない、出来るはずがなかったのだ。――レッドとグリーン、彼らが来るまでは。

 人生で初めての敗北は、酷く苦かった。おれが負けるとは、一切思っていなかったところを、立て続けに敗北を期したのである。屈辱感は、想像を絶するものであった。おれを倒したことでチャンピオンとして殿堂入りを果たした、二人の少年。――最初は、彼等の存在そのものが、腹立たしくて仕方がなかった。――だが、レッドはチャンピオンの席に、全く執着を見せずに、混乱だけ残して、何処かへと消えてしまって。繰り上がりで、グリーンがチャンピオンになる、という話も上がったものの、グリーンはグリーンで、空席となったトキワジムのリーダー就任への意欲を見せ、故郷のマサラタウンの隣町だったことも、理由だったのかもしれないが、結果として、治安が悪化していたトキワシティをまとめ上げるまでに、いつしか彼は成長していた。
 おれを倒しておきながら、手に入れた玉座には、何の執着も見せなかった彼ら。おれよりも後に生まれて、後からポケモントレーナーとなり、セキエイまでやってきて。おれを越えたのちに、おれには目もくれず、そのまま走り去っていった彼ら。――気が付けば、居心地の悪さよりも、言いようのない清々しさが、おれの内側を満たしていた。――世界は、恐ろしく広い。そう気付かせてくれたのは、他でもない、二人の少年だった。そうして、同時におれは、思ったのだ。彼らのような、新しい世代、新しい可能性、この世界に、小さく灯るそれらひとつひとつは、とても力強く輝き、それ故に、酷く儚くもある。――それらを、護れる人間が必要だ。正しい方向に導ける、大人が必要なのだ、と。

 ――おれは、皆にとってのそんな存在に、なれるだろうか?

 一部ジムのリーダー交代、四天王の再編成に伴い、おれがチャンピオンに就任する運びとなった。委員会で協議した結果、適任はおれ以外に居ない、と判断された上で、おれが名指しされたのだが、――ある種、繰り上がりでチャンピオンになったようなものである、という事実は否定できなかったし、少なくとも、世間の目にはそう映るだろう。今までのように、四天王の大将という肩書きと、己の力、それと出自に慢心していたのでは、駄目だ。おれは、変わらなければならない。竜の穴の一族の末裔として、ジョウトとカントーを束ねる、セキエイリーグチャンピオンとして。相応しい人間にならなくては、――皆が安心して、おれに背中を預けられるような、立派な王者に、ならなくては。――そうして、懸命に励んだ先で、嵐からも薄明かりを護れるような人間になりたい、と。――おれは、そう思ったのだ。

「ワタルさん、なんだか最近、雰囲気変わりましたね」
「え? そうかな?」
「はい。ファンレターとかもすごく増えてます、四天王の頃よりも、格好良くなったって……」
「ははは……、それは少し、耳に痛いな。確かに、以前のおれは、尊敬されるような人間ではなかったからね……」
「あ、やっぱり自覚あるんですね」
「え、」

 は、セキエイリーグで働いている女の子で、立場的には、おれの部下に当たる。とはいえ、彼女を監督しているのはおれではなく、現場の人間だし、そこまで堅苦しい関係、というわけでもなかった。おれが四天王に就任して少し経った頃から、ずっとセキエイに居る彼女は、四天王と運営本部の伝達役、のような役目も兼ねていて、――四天王時代も、おれは四番目で、滅多に出番など無くて。あの頃はまだ、今のように、その分空いた時間で何かを成そう、なんて考えも、無かったから。ひたすらに暇を持て余していたおれは、何かにつけて、彼女におれの話し相手をさせたりしていたから、おれにとっては、結構身近な存在でもあった。そんな彼女に、雑談の流れで、そう言われて、どきり、と思わず心臓が跳ねる。――以前のおれは、尊敬されるような人間では無かった、本当にその通りだ。周囲に畏怖を向けられている自覚もあり、無意味に萎縮させていただろうし、それが分かっていても、行動を改めようともせずに。いつも、何処かで満たされない心地を抱えて、周囲を見渡すことさえしなかった、そんな頃から、――彼女はおれをよく知っている。自覚があった上であの態度だったのか、と飽きられられてしまっても、正直、仕方がないとすら思う。

「あ、はは……そうだね、恥ずかしながら、以前のおれは……」
「え、いや、そうではなくて。……やっぱり、意識して立ち振る舞ってたんだなあ、と」
「あ、……ああ、そう、だな。チャンピオンに相応しい振る舞いを、と。おれなりに、考えてのことだったんだが……おかしかったかな」
「そんなことないですよ、……ジムリーダーや四天王の退任と交代、リーグの再編成、と。色々、あったのに、こんなにも両地方が穏やかなのは、ワタルさんのお陰です」
「……そんなことはないよ、今の平穏は、レッドがロケット団を解散させたからに過ぎないさ」
「……そうでしょうか」
「ん?」
「その後の平和を維持しているのは、ワタルさんでしょう。だからこそ、皆から支持されてるんです。なんでも一部では、竜王、なんて呼び声も高いとか」
「……竜王?」
「はい」
「……おれが?」
「ワタルさんを置いて、他に誰が居ますか」
「……王とは、また、大袈裟だな……」
「そうですか? 私は、良いと思いますよ。実際、セキエイから見渡す景色は全て、あなたが統治しているようなものですから」

 セキエイリーグ本部のテラスにて、眼下を見下ろせば、其処には幾万の営みが広がっている。そのすべてを護るのは、困難を極める道なのだろう。おれが歩もうとしているのは、そんな苦難の道なのだ。――でも、それでも、誰かが、やらなきゃいけない。環境に甘んじるな、出自を誇り、誉れとしろ。義務を果たせ。――竜王の名を、背負って生きろ。これは、おれが選んだ道で、おれが持って生まれた責務なのだから。

「――でも、」
「ん? どうしたんだい? 
「杞憂かも、しれませんが。……無理しないでくださいね、ワタルさん」
「……え」
「誰かのために戦う、今のワタルさんは素敵です。でも、元からあなたは、悪いひとなんかじゃなかったと思いますよ。ちょーっとだけ、高慢なところもありましたけど……」
「そ、それは……」
「私には、ちゃんと優しかったし。周りは少し、怖がっていたかも知れませんけど」
「……それは、、きみだから……」
「はい?」
「……いや、続けてくれ」
「はい。まあ、そうですね、私が言いたいのは、ちょっと心配です、ってことです」
「? なにか心配事があるのかい? おれで良ければ、話を聞こうか?」
「だーかーらー! そういうところが心配なんですってば!」

 ほんの少し、困ったような顔をして、が笑う。就業後、空はもう暗がりに包まれていて、テラスに落ちるオレンジ色の電灯の光だけが、おれとを包んでいた。薄明に照らされた長い睫毛が、彼女の頬に後を落とす。――その様が、おれには、泣いているように見えて。

「……ワタルさん、無理はしないでくださいね」

 ――まるで、彼女がおれの代わりに、泣いているようだと思った。

「……なるほど、確かにそれは杞憂だな。おれはそこまで、柔じゃないよ」
「……そうですよね、すみません、差し出がましい真似を」
「いや。……うん、でも、そうだな」
「? ワタルさん」
「……もしも、きみさえ良ければ。……きみは、今まで通りに、おれを見ていてくれないか?」
「え……」
「おれにはこれから、チャンピオンという名が付いて回るようになる……だけど、が今まで通りに接してくれたなら、おれは、只のおれに戻れるからさ」
「ああ、そういうことですか、びっくりした……」
「? おれは、何かおかしなことを言ったかな」
「いえ、只、少し、……まるで私が、ずっとワタルさんを見つめていたかのような、口ぶりだったので」
「え、あ、……そ、それは、」
「随分と自信がおありなんですね、ふふ、まあ、いいですよ。私で良ければ、これからも時々、お話しましょう。それで、ワタルさんが楽になれるなら、お付き合いします」

 ――以前のおれだったなら、そんな風にきみが軽口を叩いても、すんなり逃していたよ、な。躍起になって追いかけるのは、プライドが許さなくて、嫌だったから。追われる身しか経験がなかったから、追おうとはしなかった。只々、あの行き止まりの部屋で、きみと話が出来たなら、それで良かった、――だが、そんな風に謙虚に思っていたおれは、もう、何処にもいやしない。

「……すまない、少し言葉を間違えたようだ」
「? はい?」
「きみにおれを見ていて欲しい、といっただろう? が言ったのは、おれの願望だ。がずっと前から、おれを見つめていてくれたなら良かったのに、と。おれはそう、思っていた」
「……なんだ、本当に気付いてなかったんですね」
「え?」
「ずっと見つめてましたよ、ワタルさんのことを。……ますます格好良くなったからって、急に応援しだした人たちに、ちょっと妬いちゃうくらいには。……あなたのことを、見てますよ」
「……はは、それは光栄だな。ところで、
「はい、なんでしょう」
「……今夜、何か予定は?」
「いいえ、特に何も」
「……食事でも、どうかな」
「ふふ、やっと誘ってくれましたね」
「やっと?」
「ワタルさんとお話する時は、いつも期待して、予定空けてたんですけどね。なかなか、誘ってくれないから、脈無しかと思ってました」
「……。それは、本気で言っているのか?」
「ええ。……まあ、脈無しだと思ってた、というのは、嘘ですけど」
「……きみは、思ったより悪い子なんだな」
「そうですよ? ワタルさんと違って、悪い子です」

 そ、っと白い頬に向かって伸ばした手に、すり、と彼女の方から柔い頬を擦り寄せてくるものだから、ぞく、と思わず背筋を駆け上がる衝動が走るのを、――まだだ、と。そう、ぐっ、と堪えて。――ああ、本当に悪い子だ。そんなにも、誘うような目付きでおれを見て。おれはきみを、優しく、少しずつ、追い詰めてあげようと、思っていたのに。

「……そんな悪い子には、おれが仕置きを与えてやらないと」
「お仕置き……?」
「ああ。……おれは、悪い奴には容赦はしないからね」
「……ふふ、楽しみ」

 ああ、本当に悪い奴だ、きみは。そうやって、おれが護るべき対象から、自ら外れることで、おれの心を護ろうとでも言うのかな。残念だけど、そんなやり口じゃ逃げられないよ。おれが一番護りたいのは、――、他でもないきみなんだからさ。 inserted by FC2 system


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