太陽を撃ち落とした日

「――ワタルさんは、正義の味方になりたいの?」

 そう、彼女に問われたのは、一体、いつの日の出来事だったか。その問いかけに、おれはなんだか、こそばゆさを感じて、――それで。否定も肯定もせず、笑ったんだっけ。

「正義の味方、か……そんなに、たいそれたものじゃないさ。でも、おれは確かに、卑怯な奴は許せないし、人を護りたいと、そう、思っているよ」
「……そう、なんだ」
「ああ、……勿論、きみのことも護りたいと思う」
「……じゃあ、ワタルさんは、」
「ん、なんだい?」

 ――あのとき、きみが酷く思い詰めた顔をしていた理由を、おれはそのあとすぐに、知ることになる。それも、すべては、きみがいなくなった後で、だったけれど。

「……もしも、私が悪い人になっても、私の味方でいてくれる?」
「……?」
「……それとも、叱って、止めて、正してくれる?」

 ――あのとき、その問いに、一瞬、俺の中の正義が揺らいだ。もしも、そんなことがあったならば、自分がどうするのか、――おれはまだ、自信を持って言い切れなかったのだ。だから、彼女の不安を、曖昧に窘めて、そんなことにはならないから大丈夫だよ、なんて、なんの説得力もない、励ましにもならない言葉で、覆い隠そうとしてしまったこと、――後悔したよ、本当に。――きみは、あれっきり、おれの前から姿を消してしまったから。

 ――きみが、居なくなってから、知ったことだった。
 の父親は、ロケット団の研究者で、ポケモンの遺伝子を人間に組み込むことで、人間兵器となり得る存在を生み出す研究をしていた、という事実を、おれは知ったのだ。は、父親から逃れるように家を出て、以来ずっと、ひとりぼっちで生きてきて、――やがて、おれと出会って、ふたりで生きるように、なったけれど。――あの頃、の所在が、遂に父親に知られてしまっていたのだ、ということ。――もしも、おれが、あのとき。そろそろ一緒に暮らさないか、だとか、一緒にならないか、だとか。そんな風に、気の利いた台詞のひとつでも、言えていたならば。きみが、もしもおれの気持ちに、応えてくれていたなら、きっと、ちゃんと、――護れたはず、だったんだよ。
 まるで、空き巣にでも入られたように荒れ果てた、誰も居ないきみの部屋を訪ねたとき、愕然とした。――おれの、せいだ。きみを取り零したのは、他でもないおれの傲慢さ故、だった。


 ――そうして、おれは。毎夜眠らずにきみの行方を憂い、追い続けて、ジョウトの外れにある、――ロケット団の何番目かの研究所を、ようやく見つけた。事前に調べ上げていた、この研究所の職員の中に、と同じ姓の現場責任者がいることも、把握していたし、ほぼ間違いなく、きみが此処に居ることは分かっていた。――本当は、すぐにでも、踏み込みたかったけれど、彼女の無事を確実にするためにも、念入りに調査して、――いざ、侵入を決行し、今夜、彼女を助け出して研究所を壊滅させよう、という日。見張り役には、気絶してもらって、出くわしたロケット団の団員を倒しながら、研究所の奥に向かって、おれは必死で走った。一刻も早く、きみの安否を確認したかったんだ。あの日、ちゃんと答えられなかったことを、謝りたくて。――今なら、ちゃんと言い切れる。おれは、なにがあっても、きみの味方だ。例え、きみの父親や、ロケット団を敵に回しても、――もしも、世界を敵に回しても、おれは、きっと。
 ――必ずきみを、背に庇うよ、と。

「――!」

 施設最奥の、研究室。コードキー式のロックを破壊して、突破する。――此処に、彼女が居る。だから、必ず助け出そう、この地獄から、おれはきっときみを救い出すから。

「……ワタル、さん……?」

 ――ぱちゃり、と。足元で、水が跳ねる音がした。――ぴっ、と頬に、跳ねたものを、――眼前の光景に、呆然としながら指先で拭うと、ぬるり、と、気味の悪い感触がする。――どくん。心臓が、嫌な律動を刻み、口から、上手く言葉が出てこない。ああ、嘘だと言ってくれ、喉が張り付く、なぜ、どうして、きみは。

「――何故、きみの父親が死んでいるんだ……?」

 床に転がる、物言わぬ肉の塊。真っ赤に広がる水たまりが、おれの爪先と、頬と、彼女の両手をべっとりと汚している。真っ赤な部屋の中心で、今にも壊れそうに儚い微笑みで、は目を細めていた。ぽろぽろと、宝石みたいな石英の雫が、血溜まりに吸い込まれても、――そんなことでは、何も消えやしない。

「――殺しちゃった」
「……、」
「……殺しちゃったの、わたしが。私、もう、普通の女の子じゃないから、悪い子だから、自分が助かりたくて、お、とうさん、ころしたの」
「…………」

 ――無事に、再会できたなら。真っ先に、彼女を抱きしめようと思っていた、おれの両腕は、行き場を失って、――ぎゅっ、と、自らの両腿に、爪を立てる。――なんで、どうして、こんなことに。非人道的実験、――もう普通の女の子じゃない、って。そう言って、壊れたように泣いて、笑っているは、その細腕に凶器のひとつも握っていない。ポケモンの細胞を、人間に組み込んで、生体兵器を作り、ロケット団の発展と、世界征服を、推し進めて、――秘密裏に手に入れた、組織内のデータに残っていた文言が、危険信号の如く脳内で鳴り響き、けたたましいサイレンを上げている。――分かっている、今、目の前に存在するモノは、――世界を破壊しかねない、最低最悪の殺戮兵器、なんだろう?

「ワタルさん、私を、倒しにきたんでしょ……?」
「……っ、」
「……いいよ、ワタルさんになら、何をされても、大丈夫。……ごめんね、ワタルさん」
「……
「――どうか、私を倒して、英雄になってね」

 人の営みを護ると誓った手で、人の形をしたそれを、屠れというのか。きみを護ると決めた心で、きみを抱くための腕で、――、きみは、おれにきみを殺せと、そう言うのか。――そんなの、そんなのって。

「――、きみは昔、おれに尋ねたよな」

 ――おれは、絶対に御免だよ、

「もしも、きみが道を外れたなら、おれはどうするのか……おれにも、あの時はまだ、断言できなかったんだ。……すまない」

 ぴちゃり、血溜まりの道を、一歩踏み出すと、ばさり、と翻るマントが、重たい空気を吸って、音を立てる。は俯いて、入院着のような、簡素で白いワンピースを、ぎゅっと握って、俯きがちに、斬首の時を待っていた。その指が、肩が、――ずっと、小刻みに、震えているのに、彼女は、罰されるべきは自分だと、そう言うのだ。

「――三年越し、かな。あのときの答えだけど、……おれは、何があってもの味方で居るよ。……元はと言えば、きみを護りきれなかったのは、おれだ。……勝手だけど、あの頃とっくに、きみと添い遂げるつもりだったのに、おれはみすみす、きみを死地へと見送ってしまった」
「……わた、るさ、」
「――だが、何があろうと殺しは駄目だ! それだけは、やっちゃいけないことなんだよ、……きみがもう、自分は人じゃないのだと思っても、事実、きみは只の女の子だし、彼はきみの父親だ。……殺しちゃ、いけなかったんだよ」
「……っ、う、」
「死んでしまったら、もうそれで終わりだ。……どんな理由や正義があっても、殺したほうが負けなんだよ、
「う、あ、……ああああああ……!」

 ずるずると、崩れ落ちる細い身体が、血溜まりに落ちる前に、抱き留めると、衝撃で跳ねた血飛沫が、ばしゃん、とおれとの半身を赤く染める。わんわんと泣きわめくは、――まだ、子供だった頃、父親に認められたくて、愛されたくて、ポケモンと関わり始めたのだ、と昔聞いたことがある。次第にポケモンと仲良くなって、父親の支配から逃れたのだ、と。その話を思い出して、やるせなさに、ぎゅっ、と細くて冷たい身体を抱きしめる。――結局は、切っても切り離しきれなかったん、だな。殺したいほど憎んでいたとしても、本当は、心の何処かで、殺したくない、と思っていたのだろう。殺されないために、自分が生き残るために、きっと、彼女は。人の道を外れて、――悪い子になることを、選んだのだ。ぽん、ぽん、とあやすように背中を撫でると、まるで、の中身が空洞になってしまったんじゃないか、と不安になるくらい、手触りの軽い音が響いて、おれの心臓を揺らす。すっかり、やつれてしまったんだなあ、と。胸がぎりぎり、痛かった。

「――、おれはさ、正義の味方になりたかったんだ。昔は、照れくさくて、はっきりと言えなかったけど」
「……う、ん」
「でも、もういいよ。もう、正義の味方の役目は、十分やった。――おれは、これから、の味方になる」
「……わた、しの……?」
「ああ。……きみを一番護りたかったはずなのに、全然、護れなかったから。おれはこれからの人生を、に捧げるよ」
「で、も……ワタルさん、は、みんなの、味方だから……」
「それは、もう辞めた。おれは、きみの味方だ。が手を汚して、悪い奴になって、……おれにきみを殺せと、懇願しても。おれは、きみを護る。殺してなんかやらない。――おれが護りたかった世界を敵に回して、おれはこれから、きみを護るよ、

 校正で、公明正大な、守護者であろうと思い描いていた。それこそが、おれの目指した道であると、――そう願っていたのは、全てが本心だ。今でも、おれの生涯はその責務にこそ費やされるべきだったのだと思うよ。だけど、もう決めたことだからさ。

「――遅れてごめんね。でも、地獄に落ちるときは、一緒だ。おれは、の為だけの正義の味方になる」

 きみが悪い子になったら、おれは。きみを叱って、咎めるよ、そして責めるし、糾弾する。――でも、それでも、おれがきみを護るよ。きみのためなら、――おれは、修羅にでもなるさ。 inserted by FC2 system


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