この皮膚の隔たりも飲み込んじゃってよ

 チャンピオンのシンオウ地方への出張に、私が同行したのは、珍しいことだった。我がセキエイ高原のチャンピオン、ワタルさんはしっかりした人で、一人で出掛けてしまうことも度々あるが、行き先を告げずに出ていってしまう、なんてことはまず有り得ない。仕事は必要以上にしっかりこなすし、会議に遅刻や欠席なんてしないし、方向音痴なんてこともない。万が一、何かトラブルに巻き込まれたとしても、彼はチャンピオンだ。バトルなら、誰にも負けない実力があるし、その上ワタルさんは、自身の腕っぷしも強い。
 ――で、あるからして。セキエイ高原にて、四天王とチャンピオンのマネジメント役を務めている自分が言うようなことでも、ないのだが。ワタルさんは、本当に一人で何でも出来てしまうひとなのだ。あまりにも誰の手助けも要らないものだから、私がワタルさんの補佐でついて回っていると、度々、四天王のカリンさんに呼び止められて、どうせ一人で平気なんだから、あなたはこっちであたくしの相手をしなさいよ、なんて言われたりもするし、ワタルさんは大抵そんなときも、カリンさんを咎めず、丁度良いから休憩しておいで、と言って、私の背を押す。

 ――だから、今回も、途中まではそうだった。
 ワタルさんが、シンオウリーグまで出張に出向くことになり、同行役として私が指名されて、すぐにカリンさんに、そんな遠方までわざわざ二人で行かなくてもいいでしょ? と言われて、他の四天王の方々も、概ね同じような反応だったから、まあ、実際、私がついていっても、筆記役くらいにしかならないだろうし。きっとお留守番になるのだろうなあ、と思っていたのだけれど。

「いや、今回はに同行してもらうよ」
「……何? どういう風の吹き回しなの?」
「別に、なんてことはないさ。何か問題でも?」
「カリン、詮索しちゃいけないよ、ねえワタルさん、そういうことだろう?」
「……ふうん、なるほど、そういうことね?」
「……なんだい、二人して。何が言いたいのかな?」
「さあね? まあ、そういうことなら楽しんでくれば?」
「……言っておくけど、これは仕事だよ」

 セキエイ高原の旧体制時代、私は、四天王のマネジメント業務を一任されていた。当時のセキエイは、本当にチャレンジャーを待っているだけの施設だったけれど、今は随分変わって、四天王への挑戦だって、当日受付は出来ないし、翌日以降に日程を予約して挑戦してもらう形式になっている。そして、その分四天王の方々には、自由な空き時間が生まれるため、現在は各々がトレーニングや地域の警備、学会での発表だったり、ポケモンスクールの臨時講師や、講演会を開いたりなど、マルチに活動している状態で、そのスケジュール管理と、必要であれば付き人として同行する、秘書役のような役割を、現在も私が任されているのだった。
 旧セキエイからずっと、この仕事をしている、ということで、――ワタルさんと私は、結構長い、付き合いになる。彼がチャンピオンに就任して以降は、チャンピオン専任のマネージャーを新たに雇用する、という話も上がったものの、ワタルさんがその提案を却下したとかで、結局私が、四天王のマネージャー業の傍ら、ワタルさんの秘書役を兼ねた状態に落ち着いていた。まあ、確かに、ワタルさんなら別に、誰かの手助けなんて要らないだろうし、そんなものなのかも、――と、そう、思っていたものだから。今回のワタルさんの提案には驚いたし、なんだか少し、嬉しかったのだ。――ワタルさんに頼られている、と思っても、良いのかな。私では、頼りになんて、ならないかもしれないけれど。少しでも、ワタルさんのお役に立てたなら、それほどに嬉しいことはないと思う。

「ワタルさん、当日はよろしくお願いします」
「うん、こちらこそよろしく。が一緒だと、心強いよ」

 その時の私は、ワタルさんに頼られている! という高揚感で、――私とワタルさんを見る、カリンさんとイツキさんが、にやにやと愉快そうに笑っていたことにも、気付いていなかった。


シンオウリーグでの会議への出席、それ自体は滞りなく終わり、会議後、各地方のチャンピオンや関係者とで軽い会食があったものの、その席も、比較的早く、解散の運びになった。

「――ね、ワタルさん、この席、退屈でしょう?」
「……何の話かな? シロナさん」
「ああ、そうだよね、だって彼女なんだろう? ワタルが……」
「……ダイゴ」
「おや、失礼。余計なお世話だった?」
「フフ! 大丈夫よワタルさん、ねえ? ダイゴさん」
「うん。早めにお開きできるように、ぼくとシロナさんで取り計らおう」
「観光の下調べ、ちゃんとしてきた? 私が紹介しましょうか?」
「あ、僕もリゾートエリアなら少し知ってるよ」
「……茶化さないでもらえるかな? 全く……気持ちだけ受け取っておくよ」

 会食の席で、私がシンオウリーグのお偉方と話している間、ワタルさんが、シロナさんやダイゴさんに何かをからかわれて、どことなく、気恥ずかしげに振る舞っていたけれど、距離があって、話の内容までは聞こえなかったから、ああ、ワタルさんでもあんな顔をすること、あるんだなあ、と思って。
 ――何故か、分からないけれど。少しだけ、寂しいような気がしてしまった。

 シンオウからセキエイまで日帰りで、というのは流石に難しいから、今夜はシンオウに滞在する手筈になっている。チャンピオンのための宿の手配も、私の仕事のひとつだ。経費はリーグから落ちるし、リゾートエリアでも有数の、高級ホテルの部屋を、二つ取ってある。まあ、勿論、私の部屋はワタルさんの部屋より、グレードが下だけれど。ワタルさんの手持ちのドラゴンタイプの子たちは、寒いのがとても苦手だから、せめてシンオウで一番あたたかい場所で、夜を過ごさせてあげたくて、リゾートエリアの宿を選んだのだ。リッシ湖にあるホテルグランドレイクとかも、雰囲気があって素敵だったのだけれど、それは、まあ、別の機会に、プライベートで来たときにでも泊まりたいな。そうだ、その時はカンナさんを誘うのもいいな、カンナさんのジュゴンちゃん、元気かな。

 会食がお開きになったのは、時計が午後を回ってすぐのことだった。ホテルのチェックインは夜だけれど、飛行機の長旅でワタルさんもお疲れだと思うし、早めに宿に移動するのもありだな、と。手帳を確認しながら、考える。現在、私とワタルさんはナギサシティのレストランで、会食を終えたところであり、リゾートエリアまで向かうには、キッサキシティから出ている船に、乗らなければならない。キッサキまでは、タクシーを利用する手筈でいる。手持ちのポケモンで移動する手もあるけれど、直線距離でもそれなりにあるし、やっぱり何よりも気候が気になる。ワタルさんだって、カイリューに無理はさせたくないだろうし。
 ――だとすると、やっぱり、キッサキを経由することを加味して、早めにリゾートエリアに移動を……。

「ワタルさん、宿なんですが、チェックインを前倒しにしたいと掛け合ってみますので、今日は早めにお休みになって、」
「ああ、それなんだけどさ、まだ時間あるよね? 行ってみたいところがあるんだけど、付き合ってもらえないかな」
「え? でも……お疲れじゃないですか?」
「おれは全然平気だよ、もしもが疲れてるならやめておくけど……きみが大丈夫なら、一緒に行きたい場所があるんだ。どうかな?」
「は、はい。私は大丈夫です。お供します、そのために同行しているわけですし」
「はは、まあ、確かにそうだね。じゃあ行こうか」
「はい。それで、どちらへ?」
「ああ、実はね、――」

 ワタルさんに連れられてやってきたのは、ソノオタウンという小さな街だった。街中が花で満ちた、長閑な田舎町。今回の出張のために、事前にある程度下調べはしていたものの、ソノオについては、全然知らなかった。この街に、ワタルさんがわざわざ出向くほどの理由があるとは、正直、思えないけれど。

「ワタルさん」
「ん? なんだい?」
「ソノオには、何の用事で? 調査か何かですか?」
「調査? いや、そういう訳ではないよ」
「だったら、何故……?」
「……そうだな、この街、綺麗な花畑が広がってるだろ?」
「え? ああ、はい。とても綺麗ですね」
「これを、に見せたかったんだ」
「え、」
「花、好きだろ? それで、来たかったんだけど……それが理由じゃ、足りないかな」
「え、あの、……それは、その、……仕事、ですので。上に、報告しないと、いけないですし……」
「きみの上の人間っていうのは、おれだけど。駄目かな?」
「……いえ、ワタルさんが、そう仰るなら……」
「そうか、それは良かった。あ、そうそう、向こうのフラワーショップで、アクセサリーを扱っているらしいんだ。が好きなものもあるかもしれない、覗いてみようか」
「は、はい……」
「よし、じゃあ、おいで、
「……はい」

 す、と差し出された手は大きくて、厚くて、よく鍛え上げられた戦士の手だ、と。そう、思う。少し、固いそのてのひらには、初めて触れたのに、ごく自然と彼の手を取ってしまったことに、私は、些か動揺していた。フラワーショップでアクセサリーを見ている間も、何処かそわそわして落ち着かなくて、ワタルさんの話をよく理解できないまま、曖昧に頷いていたら、いつの間にかワタルさんの手で、空いた片手に、お店の包みを握らされていて。受け取れないです、とか、せめて経費か実費で、とか、色々言ってみたけれど、ワタルさんからのプレゼントだと言って、押し切られてしまった。その後は、きのみのジュースと、ポケモン用のポフィンというお菓子を買って、花畑に移動して、ピクニックをして。――ワタルさんは、確かに私の上司だけど。私が報告を上げるのは、ワタルさんにではないし、私が付き人として来ているのは、ワタルさんに大事がなかったか、上に詳細に報告するためなのに。――ワタルさんにプレゼントを買ってもらって、お花畑で散歩をしました、なんて。こんなこと、一体、なんと言って報告したら、良いのだろう。

、見てごらん、この花、とても綺麗だ」
「わ、ほんとうですね……あ、この隣の花、ワタルさんの髪と同じ色ですよ」
「……はは、」
「? ワタルさん?」
「いや……おれも、この花、みたいだな、って言おうとしていたから……」
「え……」
「おれたちと同じだな、この花も、……仲良く、並んでる」

 ――こんなの、まるで、デートみたいだ、と。揺れる二輪の花を見つめながら、それ以上、上手く言葉が出てこなかった。



 ――シンオウの天気は、崩れやすく、荒れやすい。
 そう、事前に知っていたものの、実際目の当たりにしたそれは、おれの想像をゆうに越えていた。ソノオタウンで、休息を過ごしていた間は、天気もよくて、暖かいくらいの陽気で、花畑でカイリューたちを遊ばせても、何も問題ないほどの気温、だったのに。夕方、突然天候が崩れはじめて、一気に土砂降りから、霙になって、そのまま、霰、吹雪、と一瞬で天気が崩れてしまった。慌てつつもすぐに行動したから、どうにかおれたちは、キッサキシティまでは移動出来たのだが、

「――船が欠便?」
「申し訳ありません、この天候では、運行するわけにも行かず……本日は、終日欠便となっております……」
「ええ!? そ、そんな……」

 船着き場で告げられた言葉に、と二人、顔を見合わせて、――其処からがまた、大変だった。流石に、カイリューにリゾートエリアまで飛んでくれ、ともこの気温、この天候では言えないし、の手持ちのポケモンだって、それは同じだ。海路は駄目で、空路も無理、無論、陸路はあるはずもない、ともなれば、――キッサキシティへの滞在、以外の選択肢は、絶たれたも同然だった。リゾートエリアの宿は、結構、良いところだったらしい。が下調べして、おれのために、と手配してくれていたのだ。だから、キャンセルの連絡を入れる姿は、しょんぼり、と意気消沈してしまっていて、それでも、キッサキでどうにか良い宿を抑えようとしてくれたのだが、同じ理由で足止めを食らった人間が多い以上、良い宿なんて、とっくに埋まっている訳で。

「――すみません! ワタルさんをこんな、安宿なんかに……」
「いや、気にしなくていいよ、そもそも、寄り道を提案したのは俺だからね、は、一生懸命宿を探してくれたじゃないか」
「うう、ですが、こういうときのために、同行しているのに……」

 ばちばちと強い雨が、コンビニで調達した透明のビニール傘に、激しくぶつかる。目も上手く開けていられないような雨の中、おれはマントもあるし、服自体がドラゴンとの訓練を想定して、耐火・耐水加工の生地を使っているから、このくらい、そんなに支障はないのだが、只のスーツを身に纏ったは、そうも行かない。おれが彼女の前を歩くことで、雨風除けになろうと試みるが、それだって一体、どれほど役に立っているかどうか。宿に着いたら、真っ先に身体を温めてもらわないとな、と思いながら、宿までの道中、目に付いたコンビニでの買い出しを提案して、水と食料を少し多めに買い込んだ。安宿で、レストランなんかも付いていないし、ジョウトから持ってきた手荷物は、全てリゾートエリアのホテルに送り届けられているため、そちらも当てにならない。最近のコンビニは、簡素な下着なんかも売っているから、こういうとき重宝する。せめて荷物持ちがしたい、と申し出るをやんわり窘めて、パンやビスケットの入った軽い袋だけを彼女に預けて、俺は水ときのみが入った袋を提げ、コンビニを出て、再び嵐の中を、歩いていると、冷たくて暗く、激しい世界の中、数刻前まで虹色の世界で穏やかに、彼女と花を眺めていたのが、夢のようにさえ思えたのだ。

「――え」

 目的地、どうにかが部屋を抑えてくれた宿は、雑居ビルの間に立つ、小さなビジネスホテルだった。お世辞にも綺麗や清潔とは言い難い、小さな部屋、――それは別に構わない。問題は、狭苦しい部屋には、シングルサイズのベッドが、ひとつしか置かれていなかったことだ。

「――ほんっとうにすみません……! わ、わたしもまさか、そんな、従業員の方は二人でも大丈夫だと仰ったので、ふ、ふたり部屋なのだとばかり……」
「ああ、うん、大丈夫だよ、気にしなくていい。仕方ない、おれは床で寝るから……」
「だめ、無理です! そんな、チャンピオンを床では寝かせられません! 私が床で寝ますので……!」
「それこそ駄目だ、……というか、うん、そもそも、床で寝られるほど、スペースがないね、この部屋……」
「……はい……」
「……寝間着も、一組しか無いみたいだ。仕方ない、これもが使うといいよ、おれは平気だから。風呂、先に入ってくると良い」

 もうこの際、一部屋しか抑えられなかった、というのは、気にしても仕方がない。……まあ、おれのほうは、別に支障もないし。只、やはり上司と部下という関係上、には申し訳ないことをしてしまったな、とは思うけど。
 狭い部屋には、寝転ぶほどの床の空きもなく、ベッドの代わりにソファで寝る、と言いたいところだが、そのソファすら存在しない。――まあ、一旦、ベッドの問題は保留にするとしても、だ。ともかく、彼女は身体を冷やしてしまっているから、早いところ、風呂で温まってきて欲しかった。

「そ、そういうわけにもいきません。パジャマはワタルさんが使ってください、それにシャワーも、ワタルさんが先で」
「……おれは、色々と訓練をしているし、多少冷えても平気だ。でも、きみはそうじゃないだろう、
「……それは……」
「おれは本当に大丈夫だから。雨風を凌げる場所を作ってくれただけで上出来だよ、先に身体を温めておいで」
「……はい……」
「だから、この寝間着も、が使うといい」
「……あ、あの、ワタルさん、これ、男性のサイズですよね」
「ん? ああ、そうだな。きみには少し大きすぎるかな」
「だったら、……上だけ、お借りしたいです。私が着ると、多分、ワンピースくらいの丈になるので、下は、ワタルさんが着てくだされば……」
「ああ、確かにそれもそうか。じゃあ、そうしようか」
「は、はい! よかったです、ひとつ解決しました……!」

 ――は、旧体制の時代から、セキエイ高原で四天王のマネジメント役を一人で請け負う、敏腕秘書だった。今回だって、彼女は俺の秘書役として、シンオウまで同行してくれている。その立場上、この不測の事態で、彼女が相当、落ち込んでしまっている、自分の責任だと思っているのは、明らかだったから。少しでも、安心してくれたなら、本当に良かったと思う。彼女がシャワーを浴びている間、コンビニまでもう一度走って、適当なTシャツでも買ってこようかな、とも思ったのだが、そんなことをしたら、それこそまた気に病んでしまうよな、と思い、おれは大人しく、彼女の提案を飲み、マントをコート掛けに、つなぎを窓際に干して、彼女が風呂から上がるのを待って、それからすぐに、おれも風呂に入らせてもらったの、だが。

「……あ、ワタルさん。お水飲まれ、ます、か……」
「……うん、ありがとう、……」
「は、はい……」
「……その、寒くないかな? 空調、弱いみたいだし……」
「あ、はい。そうですよね、ワタルさん寒いですよね、えっと、空調、弄ってるんですが、なかなか……」
「そ、うだったんだね……」
「は、はい……」

 ――目のやり場に、困る。確かに、ワンピース丈になって、シャツ一枚でも問題はなさそうだ、が、――オーバーサイズのそれは、胸元が広く開いて、その癖、丈は思ったよりも、短かったらしい。おれはおれで、首からタオルを掛けている以外、上半身は裸だし、……何処となく、も居心地悪そうに、目が泳いでいる。
 ――そりゃ、そうだよな。職場の上司と部下、とは、それなりに信頼関係を築いてきたと思う。否、それだけだったなら、良かったのかもしれない。だが、いつまでもそれだけの間柄に甘んじているつもりはなくて、をおれ専任の秘書にしてしまおうかな、なんて考えていたりもするが、職権乱用、なんて格好悪いにもほどがあるがあるだろう、と思って。それに、不義理だ。おれのポリシーが、そんなのは絶対許せない。――だから、今回のシンオウ行きの間に、どうにか少しでも、おれの気持ちを、伝えられたら良いな、なんて思ってさ、それで、デートになんて、誘ってみたんだけど。――間が、悪かった、な。少し意識してくれたかな、という直後に、これでは。――緊張するな、警戒するな、怯えるな、という方が、無理に決まっている。それは、どんなに強固な信頼関係を築いていたとしても、無理なのだ。男と女である限り、――おれが、彼女への好意をちらつかせた時点で、尚のこと無理だった。

「……あの、ワタルさん」
「ん? なにかな?」
「ええと、……前髪、降ろしているところを初めてみたので、なんだか新鮮だなあ、と思って……」
「……え、ああ、確かに、そうかもしれないね。はは、子供っぽいかな?」
「い、いえ、その……ええと、格好良いと思います、私……」
「……あ、りがとう」

 ――今、おれ、どんな顔してる? って、そう、何処かで慌てながら、前髪を降ろしていて良かった、と思う。前髪に触れる素振りで、――赤くなっているであろう顔を、どうにか、誤魔化すことが出来たから。

 コンビニで買ってきたパンときのみで、軽い食事をして、歯を磨いて早々に、おれたちは眠ることにした。結局、ベッドの問題はどうにもならなくて、お互いが引かないし、――お互い、一緒に寝るのは嫌じゃない、という話になって、――のほうは、気を遣ってくれているだけかもしれないけれど、おれのそれは、本心だから。そんなの、嫌なわけが、無いんだよ。を、おれの専属秘書にしたいとか、シンオウに同行してほしいとか、デートに付き合ってほしいとか、そんなことを考えて、それがイツキやカリン、挙げ句、ダイゴやシロナさんにまで気付かれてしまっている程度には、見え見えの好意を、おれは、きみに向けてしまっているから。
 部屋の空調をどれだけ上げても、なかなか部屋が温まらなかったことも、早く寝よう、となった要因の一つだったのだが、冷たいシーツの中に滑り込むと、尚のこと、体温が奪われて、酷く寒かった。空調の件は、フロントにも問い合わせたものの、寝間着のことも対応してくれなかったし、多分、フロント側も今夜は予想外の大繁盛で、パンクしているのだろう。そう何度も電話を掛けるのも憚られて、けれど、おれもも酷く薄着だから、特には、足を冷やしてはいけないよな、と。――そう、考えあぐねていたときのこと。

「……あ、あの、ワタルさん?」
「ん? なにかな?」
「……寒いですね」
「……うん、寒いね。大丈夫?」
「あの……もう少し、そちらに寄ってもいいですか? くっついて寝たら、少しは暖が取れると思うんですが……」

 ――こそこそと、小声で話しかけてきたの問いかけで、一瞬、言葉に詰まった。狭いベッドの中、こんな薄着で、と、――大切な女性と、密着してなんか、眠れるはずがない。でも、断る理由もなくて、あるとすれば、己の理性が心配だとか、それだけなのだが、――それだって、が風邪を引いてしまったら、と思うと、些細なことでしかない。――それに、不安そうな声色を、切り捨てられるほど、おれは人として大切なものを、失ってはいないよ。

「……いいよ、おいで。おれは体温が高いから、少しは温まると思うよ」
「あ、りがとうございます……では、」
「うん」
「せ、狭くないですか?」
「平気だよ」
「よかった……ワタルさん、あったかい、です」
「……ああ、おれも、だ」

 寝ぼけているのか、すり、と胸元に頬を寄せられて、かっ、と燃えるように、心臓が熱い。思わず片腕で、ぎゅう、と抱き寄せてしまって、熱に味をしめたのか、のすべらかな足が、するり、と俺の足に絡む。薄い布切れ一枚に隔てられ、彼女の輪郭に触れた箇所が全て、とろけだしてしまいそうなほどに、温かくて、熱くて、心地が良くて、――自分を律することで、もう、一杯一杯だった。元はと言えば、彼女がこんな目に遭っているのは、おれのせいだけれど。――酷いのは、お互い様だよな、なんて思う。それでも、きみを傷付けることはしたくない。信頼を、裏切りで返したくはないのだ。薄い窓に激しく叩きつけられる雨音は、おれのうるさい心音を、かき消してくれているだろうか。彼女の鼓動のように聞こえた、ばくばくというけたたましい音は、或いは落雷の音だったのだろうか。嵐は、まだまだ過ぎ去りそうにない。 inserted by FC2 system


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