リンネルがふわり靡くから

 子供の頃から病弱だった私は、ほんの少しの無理でもすぐに体調を崩しては床に伏してしまうことが多くて、風邪を引いたりするのはもう日常茶飯事だった。そうして、私が寝込んでいると、大丈夫? と真っ先に様子を見にきてくれるのは、いつも決まって鷹ちゃんで、小学校や中学校の頃には学校で倒れた私を鷹ちゃんが保健室に連れて行ってくれて、休み時間の度に様子を見に来てくれたり、放課後に家まで私を背負って帰ってくれたりということも、よくあったなあ。
 野球選手としての鷹ちゃんの力になるためには、まずは外に出て活動できる身体を手に入れることが第一条件だったから、幼少期と比べると私も少しは体が丈夫になったけれど、それにしたって、周りのみんなと比べるとやっぱり私には全然、体力が無い。ましてや、普段はアメフト部のみんなと行動を共にしているわけだし、必然的にそのハードルも上がるのだ。

 ──ぼんやりと、そんな風に、幼い頃の記憶が脳裏を過ぎったのは。揺れる視界をそっと開いて見上げたのが、真っ白な天井だったからだ。目を覚ました瞬間に視界に飛び込んでくるこの光景には、見覚えがある。病院だとか、保健室だとかのよく見慣れた白い天井。……多分また、私は学校で倒れたのだろうと、そう思う。最近はそんなことも少なくなったと思っていたけれど、マネージャーとして忙しなく動いている日々で疲れが溜まっている自覚くらいは、私にもあったから。……ああ、またやってしまった、と。そう、思って。しかしながら、ぼんやりと辛うじて薄く開いた瞼は重く、上手く目を開けることが叶わずにまた閉じて行ってしまう。……すると、ゆうらりと揺蕩う視界に不意に、誰かの手が伸びてきたことに気が付いて、──ああ、きっと鷹ちゃんだ。鷹ちゃんが、私をここまで運んでくれたんだと思って、──ほっと、思わず胸を撫で下ろして、伸びてきた手を必死で掴んでぎゅっと握り締めたところで、──私の意識は、再び途切れたのだった。

「……ん、うう……」
「おはよう、。目が覚めたかい?」
「……たか、ちゃ……」
「……違うよ。よく見て、。きみが掴んでる手は俺のじゃない」
「……?」
。……大丈夫? 気分は悪くないかな?」
「……や、まとくん……?」
「うん。意識はしっかりしてるみたいだね」
「……大和を、俺と間違えていたけどね……」
「はは、まあ、寝起きだから仕方ないだろ? 俺も少し、悔しいけどさ」

 ──次に目が覚めたときに、私の右手は、ぽかぽかと大きな熱に包み込まれていた。お布団に潜った身体よりも熱に包まれた片手が暖かくて、熱源に縋るように頬を摺り寄せて、……ぱちり、と目を開くと、大きな手が私のてのひらを包み込んでいるものだから、……なんだか少し、見慣れたそれよりは大きいような……、と。そう、不思議に思いつつも真っ先に浮かんだ名前を呼んで、未だぼやける視界で傍らを見上げると、……予想していた声は、少し離れた場所から不機嫌めいた色を乗せて、想定していなかった答えを告げる。それが不思議で、ゆらゆら揺らめく意識のままじっと傍らを見つめているうちに、……次第に焦点が合ってきて、……既に聞き慣れているけれど、幼少の頃から覚えがある訳ではない彼の声がして、それで、ようやく、……私は、自分が大和くんに手を握られていることに、気付いたのだった。

「え、……あれ、私……なんで……?」
、部活の途中で倒れたんだよ。近くに居たのが俺だったから、此処まで運ばせてもらったんだ」
「……俺は、が倒れて大和に運ばれたって花梨に聞いて……看病を代わろうと思ったら、大和が、に……」
「……? 大和くんが……?」
「俺じゃないってば。なんだか魘されてるみたいだから手を伸ばしてみたら、に捕まっちゃってさ」
「え、……ご、ごめん……! 部活中だったんだよね、運んでもらった上に引き留めたりして……私、大和くんに迷惑かけたよね!?」
「え? いや、迷惑なんかじゃないさ」
。……大和なら、の手くらい振りほどけるよ。そもそも、此処に運んできたのだって大和だ。好きで傍に残っていただけだよ、の気にすることじゃない。そうだよね? 大和……」
「まあ、否定はしないさ。部活の方も、今日はミーティングが中心だったし……それなら、の傍に居ようと思っただけだよ。も、俺に傍に居て欲しそうだったし」

 鷹ちゃんも大和くんもそう言ってくれているけれど、視界に飛び込んできた、保健室の窓辺から差し込む茜色が白いベッドシーツを染め上げる景色そのものが、私がこの場所に彼を結構な間縫い留めてしまったことを物語っていて、何とも申し訳ない気持ちを拭いきれなかった。──それは、幼少期からの癖で、きっと私は大和くんが伸ばしてくれた手を鷹ちゃんのそれだと思い込んで、彼になら甘えても許されるものだと、体調不良の苦しさに起因した心細さで勝手に決めつけて、それで、大和くんの手に縋ってしまったのだと、……そう、思う。
 ……やってしまった、彼らの力になりたいからとマネージャーを務める以上、彼らの荷物になるようなことは、絶対にしたくないのに。思えば今朝は起きたときから体調が悪くて、でも朝練前に部室を開けて支度をしておくのは私の仕事だし、少し体調が優れないくらいなら其処まで心配しなくとも大丈夫だと、そう思って。朝練を無事に終えて、授業も終えて、大和くんの言う通り今日はミーティングが中心であまり立て込んでも居なかったから、……きっと、それで気が抜けてしまったのだと思う。安心した途端に意識がぐらぐらしてきて、──不味いな、と。そう、思った記憶はある。だから、大評議会場でのミーティングからは席を外していた鷹ちゃんが戻ってきたら、彼の手を借りて保健室に行こうかと悩み始めたのだったけれど、……残念ながら、私の意識は其処まで持ってくれなかった、ということらしい。
 ──ともかく、重ねてふたりに謝って。私がこのまま此処で寝ていては、きっと二人も戻れないのだとそう思って、「ごめん、もう大丈夫だから……部活に戻ろう」と口にしながらも、……あれ、もう部活動の時間は過ぎているのだっけ? と未だ状況を上手く飲み込み切れておらずにぼんやりと揺れる頭では、保健室の壁に掛けられた時計に目を向ける程度の知恵すらも回らなくて、慌てながら重たい上体を起こすために、なんとか肘を付こうと未だに大和くんに握られたままの右手に力を入れると、──ぐっと手を引かれて、そのまま私は呆気なく力の入れ所を見失って、空いた片手で左の肩を押されればころんと仰向けに転がってしまう。私をそうして寝転ばせた張本人である大和くんは、分厚い手で肩を押した、──かと思えば、布団を肩までかけ直して、私に向かってにこやかに微笑むのだった。

「もう少し休んだ方がいい。……意識が戻ってすぐに動くのは良くないよ。眠らなくても良いから、せめてもう少し横になっておくべきだ」
「で、でも……」
「……大和の言う通りだよ、。大丈夫、保健室が閉まる時間まで寝てしまっても、そのときは起こしてあげるから」
「鷹ちゃん……」
「別に寝たままでも構わないよ、寮までは俺が送ってあげるし、寮に着いたら花梨に任せればいいだろ?」
「か、花梨ちゃんにまで迷惑かけられないよ!」
、……俺も大和も、迷惑なんて思ってないよ。……花梨も、を心配していたし」
「……うん、ごめんね……」
「謝らなくていいよ、……大和に関しては、絶対に役得だと思ってるし、気にする必要はないから」
「え? まあ、否定はしないけど……鷹だってそうだろ?」
「別に俺は、俺がを守ってあげるのが当然なだけだよ」
「それだよ、そうやって、大事な役目はいつも鷹に取られるんだよな……」
「? 大和くん……?」
「だから、俺のことも気にしなくていいさ。……要するに、俺はを運んで看病する役目が俺で、得をしたと思ってるってことだから。……意味は、分かったかな?」

 そう言って務めてにこやかに笑いながら、──けれど、大和くんがそういうことを言葉に出すのは珍しかったから、びっくりした。私は大和くんの彼女、というポジションに置いて貰っているけれど、大和くんは私と鷹ちゃんが仲良くしていても何も言わないし、……そういうこと、気にするひとじゃないのだと思っていたのだ。……でも、まるで今の言い分だと、彼が嫉妬めいた感情を抱いているかのように聞こえて、ほんの少しだけ動揺する。ぽんぽん、と布団越しに私を寝かしつけるような所作で軽く叩く仕草は、子供をあやすそれに思えるのに、「……大和、俺に嫉妬するのはやめて欲しいんだけど……」「鷹だって俺に嫉妬してるだろ、自分の役目を取られたからって」……なんて、言外に肯定されてしまうと、逸る心臓を落ち着けるので精いっぱいだった。……けれど、そんな情緒とは無関係に、未だ基礎体温の高い大和くんの手に握りこまれた右手はぽかぽかと暖かく、そこから伝播するようにお布団の中に熱がとろけて広がって、とろん、と。……ついつい瞼が重たくなって、しまって。

「……寮に戻ってから、寝た方が……何度も運んでもらうのは、わたし、重たいし……」
「何処が? 俺は重いと思ったことなんてないし、なら花梨でも運べるよ」
「俺なら片手で運べるよ?」
「……片手で運ぶのは、危ないからやめてくれ、大和」
「はは、冗談だよ。……ちゃんと、お姫様みたいに運んであげるから。安心して寝るといい」
「……うん、ありがと、たけるくん……」
「……ああ。おやすみ、

 ──そう言われると、それはそれで安心できないのだけれど。最後の抵抗のつもりで放った、重いから、という口実も簡単に絡め取られて放り投げられてしまっては、いよいよ抵抗の余地が無い。うとうと、うとうと、霞みゆく意識の中で、……あれ、あの口ぶりはまさか、そもそも此処に運んでくるときにそういう運び方をしてきたという、そういうことなの? だって、大和くんが私を此処まで運んでくれたって、そう言ったよね? なんて、……気がかりな問いが浮かんだものの、揺れる甘やかな熱には到底叶わずに、恐ろしいまでの安堵に包まれたままで、私は再度、意識を手放したのだった。 inserted by FC2 system


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