コットンパールみたいな泡沫

「……ツェッドくんの手、冷たいね」

 ふとした瞬間、彼女が漏らしたその一言に、決して他意などないのだということくらいは、僕にも分かっていた。本棚の高いところから本を取ろうと必死に背伸びをして、どうにか指先は本に届いたものの、ぐらり、とそのままバランスを崩してしまったさんを慌てて支える形で、がし、と彼女の腰に腕を回して、手を引いて、「大丈夫ですか」と問いかけたら、さんは慌てた素振りで顔を赤くして前髪を必死に整えながら、大丈夫、と細い声で呟いて、それから、話題を探すように目を泳がせながらも彼女が漏らした言葉が、それだった。……僕と彼女は、生まれてきた種族が違う。人類の彼女と亜人の僕とでは、基礎体温がまず違くて、僕にとって彼女の熱は焼けるように、熱い。だから、それは反対のことも言えるのだと、分かっていたのだ、理屈としては、ちゃんと分かっていたのだけれど、……僕は、どうしてもその言葉が胸につっかえて、……それきり、彼女に触れることが怖くなってしまっていた。
 ……別に、恋仲というわけでもないし、僕から彼女へとぼんやりとした好意はあれど、これを恋と呼べるのかが僕にはわからない。僕には、恋であると断じるだけの経験がなくて、同時に、この感情を倫理や道徳、常識という観点から見た際に、恋だと言い切っていいものかも分からなかったのだ。……だって、さんと僕とでは、種族が違う。僕と一緒にいても、彼女は幸せになれないかもしれない。僕にとって彼女は唯一でも、彼女にとっては、きっと、違う。……だったら、尚のことこんな気持ちには、目を背けてしまうべきだとそう思って彼女との間にそれとない距離をおいてから、三ヶ月。……それは、暑い夏の盛りの出来事だった。

「……あっ、つい……」

 くったりと倒れ込んでソファの背もたれにしなだれかかるさんから、……今朝、なぜか血の匂いがした。僕は触覚で嗅覚が敏感な分、他人の不調や怪我も気づきやすいので、まさか怪我をしているのだろうかと慌ててさんに問いかけようとしていたら、……K.Kさんに、止められた。……その、彼女は今日、おそらく、生理、というものらしい。情報としての知識くらいは僕にもあるが、……子供を身籠るための身体の準備なのだと思うと、……ああ、やっぱり僕と彼女とでは、違う種族なのだと思い知る。だから、今日は極力、さんと話さないようにしようと、そう思っていた。体調が悪い彼女に向かって、こんなときに、素っ気なかったり、感じの悪い態度を取ってしまったら、嫌だったから。……そう、思っていたのだが、ソファに蹲って真っ青な顔をしている彼女が、周囲にデリカシーのない質問、……どうしたんだ、腹が痛いのか、食あたりか、なんて言葉を投げかけられている様を見ていたら、……見て見ぬ振りなど、出来なくなってしまったのだ。「すみません。さんは体調が優れないようなので、僕が部屋まで送り届けますね」有無を言わせぬ口調で、そう言い切って、彼女を皆がいる部屋から連れ出した。ライブラ本部で生活する僕と彼女には、それぞれ個別の私室が与えられている。就業後のプライベートな時間で訪れることも多い彼女の部屋に、勝手知ったると言った風に入って、彼女をベッドに誘導して、……その間、ずっと、触れまいと思っていた彼女の手首をしっかりと握りしめていたことにも気付かずに僕は、さんにブランケットを掛けて、

「薬、持ってきますね。……その、不躾ですが、なんとなく事情は察せているかと、思いますので……」
「……う、うん……ありがと、ツェッドくん……」
「いえ、むしろ僕の方こそ、強引にすみませんでした。他になにか、欲しいものはありますか? お茶とか、持ってきましょうか」
「…………」
「……さん?」

 そう言いながら、一度部屋を出るために立ち上がろうとして、……ぎゅっ、と。僕の手が彼女のあついてのひらに手を握られていることに気付いて、はっとした。……ああ、そうだ、僕の体温を冷たい、と言われてからというもの、どうも彼女に触れることが憚られるような気がして、触れることで拒絶されるのを恐れていたはずなのに、……先程は慌てていたから、咄嗟に彼女の手を、掴んでしまっていたのだ。それに気付いて、急いでさんの手を離そうとするものの、きゅう、と握りしめた僕のてのひらをさんは離してはくれなくて、……彼女はそのまま、自らの頬の傍に僕の手を持っていき、すり、とまるで子猫が甘えるような仕草で、つめたい体温へとすり寄る。

「……冷たくて、気持ちいい……」
「……え」
「つぇっどくんのて、つめたくて、すき……」
「…………」
「……あの、私、今体温、高いし……たぶん、元々ツェッドくんより、高いから……」
「は、はい」
「やけどしたり、しない……?」
「い、いえ、それは、大丈夫です。……そこまで、魚に寄っていませんから」
「そっか、よかった……それなら、もう少し、このまま、で……」

 ……結局、そのまま寝落ちてしまった彼女の手を払いのけることも出来ないまま、僕は呆然と、さんの頬に触れたままで、手を握られたままで、座り込むことしか出来なくて、……ああ、ほんとうに、杞憂だったんだなあ、と。そう、思うと。胸の奥が、あつくてあつくて、僕の中の水という水がすべて煮えたぎってしまいそうで、仕方がなかったのだ。 inserted by FC2 system


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