とけた氷、食べかけのケーキ、囁き

 私の兄、──とは言っても、あのひとは私にとって、血の繋がりはない義理の兄に当たるわけなのだけれど。……まあ、ともかく、形式上の兄に当たるひとはとても厳格で、──というよりも、酷く異星人を嫌っていて。そうして、些か過激派のきらいがあるほどに宇宙人を忌み嫌う兄は、外には危険思想の宇宙人が跋扈していて危ないから、と言う理由で、私が外に出かけることをとにかく嫌がった。
 私は住まいも宇宙人居住区からは離れているし、正直に言うと然程の危険は感じていないものの、それでも、どうしても兄は私を外に出したがらないし、私の方も、流石にお兄さまに其処まで強く心配されると、とてもではないけれど嫌だとは言えないので、普段は私も兄の方針に従って、基本的に本部で、兄の傍に待機する形を取っている。

 ──とはいえ、物分かりの良い妹でいる努力を日々続けていれば、どこかしらで多少のほつれは生じるものである。それは当然ながら、私だって偶には、ひとりで外に出てみたいと、そう思ってしまうのだ。……宇宙人は危険だと、お兄さまはそう言うけれど、全員がそうではなく、中には話せば分かり合える相手だっている筈だと私はそう思っていて、……けれど、その限りではないひとたちがいることもまた、ちゃんと理解できているから。私は普段はしっかりとお兄さまの言うことを聞いて、──そうすることで、時折お兄さまの言い付けを破ることへの罪悪感を和らげているのだった。

 私はいつも、お兄さまがお仕事で本部を出払っているときを狙いすまして、──こっそりと裏口から抜け出し、外へと散歩に出かける。特に最近、気に入っている散歩コースは、宇宙人が多く住まう六葉町なのだけれど、──そんなことが知れたなら、本当に、絶対に。お兄さまから、とんでもなく叱られてしまうのは分かり切っている。そう、──ばれたらきっと叱られてしまう、けれど、……それでも最近、私にはこの街にお気に入りのスポットが出来てしまって、今日もその場所へと出向いていたのだった。

「わあ、今日もすっごい眺めですねえ……とってもキレイ……」
「……お前は相変わらず、妙なことを言うな。カレーパンが並んでいるだけの光景の何処が美しいと?」
「え、……だって、一面が小麦畑みたいで、狐色でぴかぴかで、サクサクで……お店中にいっぱい並んでるの、壮観じゃないですか?」
「……生憎、ワレはカレーパンが苦手なものでな、お前の感性は分からん」
「ええ? 私も店長さんのその感性、よくわからないですよ。……ふふ、どうして苦手なのにカレーパン専門店なの?」
「……まあ、ワレにも訳があってな」

 私の最近のお気に入りスポット、──それは、ボイルド・ベーグル・レクイエムという長い店名をした、六葉町にあるベーカリーだった。なんでも、カレーパン専門店という旗を掲げているらしい、このお店の看板商品でもあるカレーパンは、店長さんがストイックにカレーパンだけを追求し続けてきたと言うだけのことはあり、サクサクでもっちもちの生地に辛すぎなくてまろやかなカレーがよく合っていて、冷めても美味しいこのお店のカレーパンを一度食べて以来、私はすっかりこの味に魅入られてしまったのだ。

 私は普段からあまり外に出ないどころか、そもそもお兄さまの目を掻い潜らなければ自由に出歩くことすら困難なので、このお店にも、なかなか毎日通い詰めたりは出来ないのだけれど。それでも、六葉町を訪れた際には、必ず足を運ぶようになってから暫く経ち、時折カレーパンを買いに来る私のことを、なんとなく店長さんも覚えていてくれるようになったのか、最近では時々、こんな風に店長さんとお話をするようにもなって、……立場上、私はあまり外に知り合いも友人もいないから、それが、なんとなくくすぐったくて、嬉しくて。近頃では、此処のカレーパンを食べることだけが目的ではなくなってきて、私にとっては店長さんに会いに来ることも、ちょっとした日々の息抜きになっているのだった。

「……、今日も、外で食っていくのか?」
「そうさせてもらっても、大丈夫ですか?」
「構わん。……お前は、うちの上客だからな」
「えへへ、ありがとうございます!」

 小さな店舗には、特別にイートインスペースなどが備え付けられている訳ではなかったけれど、あるときに私がお店の前のベンチに座って、カレーパンを外で食べているところに偶然、店長さんが店内から外へと出てきたことをきっかけに、……以来、私が外で食べるなら、と。私の来店ついでに、店長さんもいっしょに休憩を取る習慣が付いていたのだった。私としてはそんな風に店長さんと過ごせるのはなんだか嬉しかったし、兄の目を盗んで抜け出してきている以上は、念のためにもひとりきりにならなくて済むと、色々と助かるし。──だって店長さんはいいひとで、兄が疎むようなひとでもないから安心だし、……尤も、店長さんの方は、こうして私が来店することを楽しみにしてくれている、というよりも、他に期待していることがあるからなんじゃないか、と言う気もするけれど。

「──店長さん、これ、食べますか? マフィン焼いてきたの」
「うむ、貰おう。……ほう、なかなか美味いな」
「ほんと? ……とはいえ、プロに食べさせるのは、ちょっと恥ずかしいのだけれど……」
「ワレはカレーパンしか作らん。このような焼き菓子は、作り方も知らん」
「またまた、そんなわけないじゃないですか〜?」

 カレーパンが看板商品で、実際に絶品のカレーパンを提供している、ボイルド・ベーグル・レクイエム。──だと言うのに、店長さんはまさかまさかの、カレーが苦手なのだと言うのだ。それにしてはカレーも絶品だし、カレーとパン生地との相性もばっちりなので、一体どうやって作っているのだろう……? と、この不思議な店長さんへの疑問は尽きないのも、なんとなくこのひとに目を惹かれてしまう理由のひとつなのかもしれない。
 そうして、カレーが苦手なのに、カレーのにおいで充満したお店で働いているこの店長さんは、なんでも普段、ご飯をあまり食べないひとなのだそうで。……もしかして、そんなに経営が上手く行っていないのだろうか? と思うと此方が不安になってしまう。カレーパンならお店に沢山あるけれど、苦手なのではそれにも手を付けられないし、お店がもっと繁盛してくれたらいいのだけれどなあとは思いつつも、……私は友達も少ないし、SNSの類もお兄さまに禁止されているから、……宣伝して拡散? で、バズらせ? を狙うことも出来なくて、……お兄さまは発言力のあるひとだし、お兄さまならうまくお店を宣伝できるんじゃないかと考えたこともあったけれど、まず十中八九、本部を抜け出して六葉町へと出向いていることがバレればお叱りでは済まないし、下手をすればもうこのカレーパンを食べに来ることも、……それに、店長さんに会うことも出来なくなってしまうかもしれないから、と。
 そんな風に、事情が込み入っている私では、お兄さまや部下の皆さんにカレーパンを買って帰ることすら出来なくて、自分の分を買うことでしかお店に貢献も出来ない私は、休憩を共にするようになった当初に、せめて何か出来ることはないかと思って、……おずおずと、自作のお弁当を店長さんに差し出したのだった。──本当ならばそれは、お兄さまが本部を出る前にお渡ししようと思って、朝に作ったものだったのだけれど、お兄さまが本部を出る時間を見誤って、タイミングを逃してそのままになってしまい、私もその後に急いで本部を出てきたから、思わず持ち出してしまっていたそれを、──店長さんは、少し驚いたように受け取ってから、躊躇いがちに蓋を開いて、ぎこちなくお箸を持って、「……美味い」と、……そう、言ってくれて。

「……地球人が、何故侵略者であるワレに施しを……?」

 ──ぼそり、と。店長さんが続けて呟いた何事かは聞き取れなかったものの、──ともかく店長さんは、どうやら私のお弁当を気に入ってくれたようで、……もしかするとそれは、余程、舌に合ったと言うことだと思っても良いものか、それ以来、私が焼き菓子だとかおにぎりだとかの差し入れを持ってくると、店長さんはあっさりと受け取って、ぱくぱくと食べるようになってくれたのだった。

 何度も言うようだけれど、厳格な兄の方針で、私は外との交流が極端に少ない。だから、お兄さまや弟以外の為に、手料理やお菓子を振舞ったりするのなんて、これが初めてのことで、……その上、相手はちょっと変わっているけれど、……少しだけ、かっこいいな……なんて、密やかにそんな風に思っている店長さんなものだから、何だか私も、こうして店長さんといっしょに軽食を食べながらベンチで一休みする時間が、すっかりお気に入りになってしまったのだった。
 ──まあ、店長さんの方は、私を都合のいい相手くらいにしか思っていないかもしれないけれど、それならそれで、別に構わない。
 ──それに、六葉町に店舗を構える彼は、お兄さまが忌み嫌う宇宙人であるのかもしれないわけなのだけれど、……でも、店長さんは私に危害を加えようとしたことなんて、一度だってないもの。だからきっと、店長さんは宇宙人だとしても、良い宇宙人のはずだと、そう思うのだ、私は。……だからね、お兄さまが思うような、悪い異星人だけじゃないよって、……店長さんともう少し仲良くなれたのなら、お兄さまにそう分かってもらえるようになるかもしれない、なんて。……さすがに、そんなのは私の勝手な夢物語すぎるの、だろうか。

「? 何やらワレを見ていたようだが……よ、ワレの顔に何かついているか?」
「え、ああ……マフィンの欠片が、此処に」
「……此処か」
「そうじゃなくて、こっちです。……はい、取れましたよ」

 店長さんの精悍な顔立ちをじいっと見上げていたら、どうやら私の視線に気づいたらしい彼にその旨を指摘されて少し焦ったけれど、店長さんが口の端にマフィンの欠片を付けているのに気付いて、……なんだかそれを可愛らしく思いつつも、とんとん、と自分の口元を指差してみたけれど、店長さんはいまいち位置が掴めずにいるようで、なかなか取り払われないそれを、──思わず、いつもお兄さまが私にするみたいに。──す、と少し焼けた頬へと指先を伸ばして払ってあげると、……店長さんは目を丸くして、びっくりして私を見つめていて、私も流石にはっとして。……お兄さまなら、このまま、自分の口元へと欠片を運ぶだろうし、私も普段はそれを受け入れているけれど、自分が普段されている事とは言えども、……きっと、店長さん相手にそれはやらない方がいいのだろうなと思い留まって、ぱっと取り除いた欠片をティッシュで拭うのだった。……あ、危なかった。お兄さまはともかく、店長さんは、家族でもない異性だものね……? 危うく、引かれてしまうところだったかもしれない、とヒヤヒヤする程度に。好意的に思っているこのひとに、……うっかりで嫌われてしまうのは、少し、いやだものなあ。

「……はい、取れましたよ」
「……うむ、感謝する。……ときに、竜宮よ」
「はい? 改まって、なんでしょう?」
「来週は、店に来るか?」
「そうですね、来られそうなら……って、来週、何かあるんですか?」
「……いや、聞いてみただけだ」
「? 変な店長さん!」

 ──その頃の私は、店長さんが抱えている本当の事情なんて何も知らなかったし、察しが悪くて、カレーパン専門店なんて可笑しいとは思っても、隠されている真相の一端にすら気付きもせずに、──只、何の根拠もなく漠然と、店長さんとはいつまでも会えるような気がしてしまっていたのだ、なんて。……今思うと、我ながら余りにも愚かで笑えてしまうのだけれど。……でもね、あの頃の私は、ふたりでの憩いの時間を終えて、帰宅する私を見送った店長さんが何を呟いていたかなんて、……そんなの、私は全然、想像も出来なかったし。……教えて欲しかった、なんて思うのは私の我儘なのかな、──ズウィージョウさん。


「──もうすぐ終わりも近いからか、……まさか、名残惜しいなどと……、ワレも、焼きが回ったものだな……」

 ──もう一度だけでいい、あと一度きりでも。……また来週もお前に会えたのなら、等と言う望みは、……せめて、ワレとすべての同胞が真っ当な人の形を手に入れてから、……そのように、願いたかったものだな。人並みの願望など、この身には余りすぎるであろうに。 inserted by FC2 system


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